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第2話「安全圏(デスクワーク)をもぎ取れ」

路地裏の木箱の陰で息を潜めてから、小一時間が経過した。

追っ手のチンピラたちが諦めて立ち去ったのを確認し、修――この世界での体であるルークは、ズルズルと地面に座り込んだ。


「ぐぅぅ……」


腹の虫が、情けない音を立てた。

先ほど発動した【事なかれ主義の加護】の代償か、ひどい疲労感と空腹がルークを襲っていた。スキル説明にあった「精神力を消費する」というのは伊達ではないらしい。たった一度、男たちを転ばせただけで、徹夜明けの会議のような倦怠感だ。


「このままじゃ、餓死するか、またチンピラに絡まれて終わる……」


ルークは頭を抱えた。

前世の日本なら、最悪交番に駆け込むか、生活保護というセーフティネットがあった。しかし、この中世ファンタジーのようなスラム街に、弱者を無条件で守ってくれる制度などあるはずがない。


「楽をして生きたい。だが、そのためには『何もしない』ではダメなんだ」


ルークは、前世で培ったサラリーマンの生存本能をフル回転させた。

安全な寝床、安定した食事、そして命の危険がない環境。それらを手に入れるためには、皮肉なことに、自ら行動を起こすしかない。


「立ち上がるしかない。……徹底的に楽をするための、完璧な足場を作るために!」


奇妙な決意を胸に、ルークは大通りへと歩み出た。


街の中心部へ向かうと、ひときわ大きな石造りの建物が見えてきた。入り口には剣と盾が交差した看板が掲げられている。ひっきりなしに、武装した荒くれ者たちが出入りしている。


間違いない。あれが異世界テンプレの「冒険者ギルド」だ。


ルークは建物の前で立ち止まり、看板の隅に貼られた一枚の羊皮紙に目を留めた。

そこには、この世界の文字だが、なぜかルークにはスラスラと読める言葉でこう書かれていた。


『急募:ギルド事務員。書類整理、依頼の受付。※計算ができる者優遇』


ルークの口角が、ニヤリと上がった。

剣を振ってモンスターと戦う? 冗談じゃない。血を見るのも痛いのもお断りだ。だが、「書類整理」と「受付」?


(24年間、俺が会社でやってきたことそのものじゃないか!)


中堅メーカーの業務管理部で、他部署が持ち込んでくる無茶な伝票や、ぐちゃぐちゃの経費精算を、波風立てずに処理し続ける日々。あの無駄とも思えた中途半端なキャリアが、今ここで火を噴く。


ルークは姿勢を正し、意を決してギルドの扉を押し開けた。


中は怒号と酒の匂いが充満していた。「俺の報酬が少ねえ!」「その依頼は俺たちが先だ!」と、あちこちで冒険者たちが騒いでいる。


その奥のカウンターで、一人の女性職員が涙目で山積みの羊皮紙と格闘していた。エルフのような尖った耳を持つ美しい女性だが、目の下のクマが悲惨なことになっている。


「あ、あの! 順番に処理しますから! クエストの報告書はあちらの箱に……あっ、混ざっちゃダメ!」


完全にキャパシティを超えている。業務フローが崩壊した現場特有の、あの絶望的な空気だ。


ルークはスッとカウンターに近づき、エルフの女性に声をかけた。


「あの、事務員の求人を見てきたのですが」

「えっ!? あ、はい! でも今それどころじゃ……ひぃっ、またゴブリン討伐の報告書が五枚も!」


パニックになる女性を前に、ルークの「事なかれ主義」スイッチが入った。

このままでは、彼女が倒れる。そうなればギルドは機能停止し、暴動が起きる。それは回り回って、この街の治安悪化――つまりルーク自身の安全を脅かす事態に繋がる。


「失礼します」


ルークはカウンターの内側に勝手に入り込むと、山積みの羊皮紙を無表情で手に取った。


「え、ちょっと……!」

「討伐報告書は右。素材の買取査定は左。未処理の依頼書は真ん中。フォーマットが違うものは一旦保留ボックスへ」


ルークの手が、魔法のような速度で書類を分類していく。

前世で、部長の支離滅裂な手書きメモを解読し、見やすいエクセル資料に落とし込む作業に比べれば、冒険者たちの拙い字の報告書など、子供の落書きも同然だ。


「おい、新入り! 俺の報酬の計算はまだかよ!」

筋骨隆々の剣士がカウンターをバンッと叩いて凄んできた。


普通なら震え上がる場面だが、ルークは冷静だった。彼にとって、怒り狂う冒険者など「納期を守らない営業部のエース」と同じだ。対応を間違えなければ、物理的な危害は加えてこない。


「申し訳ありません。現在、買取査定の承認フローが滞っております。ですが、こちらの『急行料金(手数料3%引き)』のサインを頂ければ、私が責任を持って即時決済に回します。いかがなさいますか?」


「お、おう……じゃあそれで頼む」


適当にでっち上げたルールと、有無を言わせぬ事務的な口調。剣士はすっかり毒気を抜かれ、素直にサインをした。


ものの15分で、カウンターの上の書類山は綺麗に整頓され、冒険者たちの列も捌け始めた。


エルフの女性が、ぽかんと口を開けてルークを見つめている。


「あ、あなた……一体何者……?」

「ただの、波風を立てたくない一般人です。で、採用は?」


その時、奥の執務室から、顔に大きな傷のある巨漢の男が現れた。ギルドマスターだ。

彼は整然としたカウンターと、すっかり大人しくなった冒険者たちを見て、豪快に笑った。


「ガハハ! 凄腕の魔法使いでも来たかと思えば、ヒョロガキじゃねえか! 合格だ、今日からお前がギルドの裏方を仕切れ!」


こうしてルークは、異世界での「安全なデスクワーク」という念願のポジションをもぎ取った。


(よし! これで路頭に迷うことはない。冷暖房完備(魔法だけど)、危険なし。適当に書類を処理して、あとはぬるま湯の平社員ライフだ!)


ルークは心の中でガッツポーズをした。


しかし、ギルドマスターは笑顔のまま、ルークの背中をドカンと叩いた。

「期待してるぜ! あ、言い忘れたが、ウチの経理は五年連続で赤字だ! 来月までに帳簿の不備を直して黒字化の目処を立てねえと、領主様からギルドを解体されて全員路頭に迷うからな! 頼んだぞ、事務長!」


「……はい?」


ギルド解体? 事務長?

波風を立てないための彼のささやかな努力は、かえって彼を「組織の命運を握る責任者」という、最もストレスフルなポジションへと押し上げてしまったのだ。


「え、ちょ、聞いてない……」


異世界でも、彼の不憫なサラリーマン魂は休まることを知らないらしい。

究極の事なかれ主義を貫くための、ルークの過酷な「働き方改革」が、今始まった。

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