第24話「規格外の報酬(宝珠)と、広がりゆく市場(世界)」
アリスの放った渾身の『環境保全(土木工事)』の一撃によって、岩山の土砂崩れは見事に吹き飛ばされ、地熱で温められた巨大な天然の洞窟――火山霊亀の愛する「サウナ」が再びその口を開けた。
ボワァァァッ……!
洞窟の奥から、心地よい硫黄の香りを伴った高熱の蒸気が、白いベールのように吹き出してくる。
それを見た巨大な火山霊亀は、「パァァッ」と顔を輝かせた(ようにルークには見えた)。
亀はのっしのっしと地響きを立てながら、自分が腹ばいになって塞いでいた東の街道から退き、愛しのサウナ空間へと巨体を滑り込ませていく。
「……ふう。これでよし。物流の大動脈は無事に回復した。無駄な血も流さず、街道のアスファルト……石畳も無傷。我ながら、完璧なリスクマネジメントとクレーム対応だったな」
ルークは額に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、安堵の息を長く吐き出した。
これで明日からも、美味しいコーヒー豆が滞りなくギルドに届く。そして何より、街道の修繕費用という莫大な特別損失を計上せずに済んだことが、事なかれ主義の事務長にとって最大の勝利であった。
サウナの蒸気に包まれ、至福の表情で目を閉じようとしていた火山霊亀が、ふと動きを止めた。
亀はゆっくりと太い首をルークの方へ向けると、大きく口を開け、「コロン」と何かを吐き出した。
それは、ソフトボールほどの大きさの、淡く青い光を放つ美しい『宝珠』だった。
火山地帯の乾いた土の上に転がったその玉は、周囲の熱気とは裏腹に、涼やかで神秘的な輝きを放っている。
「ルーク殿! これは……!」
アリスが目を輝かせ、宝珠を拾い上げてルークの前に差し出した。
「霊亀からの感謝の印……つまり、顧客満足度(CS)の向上に伴う『特別報酬』ですね! 流石は我らが総督、魔物の心すらコンプライアンスで満たしてしまうとは!」
「……まあ、手ぶらで帰るよりはマシか。ギルドの備品として登録しておこう」
ルークは気乗りしない様子で宝珠を受け取った。ズシリとした奇妙な重みがあるが、魔力的な温かさや冷たさは感じない。ただ、硝子細工のように美しいだけの球体だった。
その日の夕方。
無事にサン・アンドのタワーマンションへと帰還したルークたちは、最上階のペントハウスにある執務室で、持ち帰った宝珠の鑑定(査定)を行っていた。
デスクの中央に置かれた青い宝珠を、ルーク、アリス、そして留守番をしていたザックの三人が囲んでいる。
「うーむ……ギルドの標準的なアーティファクト・マニュアル本には載っていないな」
ルークは分厚い図鑑のページをパラパラと捲りながら、首を傾げた。
「通常、この手の魔法石は『傷を癒やす』とか『火を噴く』といった明確な用途があるものだが……魔力の波長が独特すぎて、一般的な鑑定魔法に引っかからない。ただ、ぼんやりと光っているだけだ」
ザックが、元チンピラの血を騒がせるように目を細めた。
「ルーク様。効果が分からないなら、いっそ『出所不明の古代遺物』として裏市場のオークションに流してみては? この輝きなら、好事家の貴族が高値で買いますぜ。ギルドの今期の利益がさらにドンッと……」
「却下だ」
ルークは即座に否定した。
「用途不明の物品を市場に流し、万が一それが『呪いのアイテム』や『国家転覆レベルの兵器』だった場合、販売元の我々に莫大な損害賠償請求と領主からの特別監査が入る。……得体の知れない利益を追うのは、三流の経営者だ」
ルークは宝珠を指先でツンと小突いた。
「まあいい。見栄えだけは悪くないからな。とりあえず、この窓から吹き込む風で『決裁待ちの書類』が飛ばないようにするための、『文鎮』として有効活用させてもらおう」
「ほ、宝珠を文鎮に……!? なんという贅沢なアセット(資産)の運用……!」
アリスが勝手に感心している中、ルークが宝珠を持ち上げ、デスクの隅に積まれていた未決裁の書類の山の上に「コトリ」と置いた。
その、瞬間だった。
ピィィィン……!!
宝珠が突如として、目を刺すような強烈な青白い光を放った。
「なっ!?」
「ルーク殿、下がって!」
アリスがルークを庇うように前に出るが、宝珠から放たれたのは攻撃魔法ではなかった。
光はデスクの上から天井に向かって円錐状に広がり、ペントハウスの広い空間いっぱいに、精巧極まりない『立体ホログラム』を投影したのだ。
「こ、これは……」
ザックが畏れ慄くように後ずさる。
空中に浮かび上がったのは、巨大な『世界地図』だった。
しかし、それはルークたちが今まで常識として教えられてきた平面の地図とは、決定的に異なっていた。
「おい、冗談だろう……?」
ルークは眼鏡を外し、信じられないものを見るように目を擦った。
光の地図には、ルークたちが現在いる「エルドリア王国」、東の「神聖ヴァレリウス帝国」、そして北の「魔王領」という、大陸を三分する巨大な勢力が詳細に描かれている。
だが、その見慣れた大陸は、ホログラム全体から見れば、ほんの『右下の隅っこ』に小さく、ちっぽけに存在しているに過ぎなかったのだ。
地図の中心には、未踏の広大な海が広がっている。
雲を突き抜けるほど巨大な『世界樹の森』。空中に重力に逆らって浮かぶ『浮遊島群落』。深い紫色の霧に包まれた『魔の海域』。
そして、遥か西の果てに鎮座する、エルドリア大陸の十倍はあろうかという、見たこともない超巨大な大陸群と、そこに敷かれた幾何学的な巨大都市のネットワーク。
世界は、彼らが想像していたよりも、絶望的なまでに巨大だった。
「ルーク様……。世界は、我々が思っていたより、ずっと……ずっと広かったのですね……!」
ザックが震える声で呟いた。その声には、未知への恐怖と、わずかな野心が混じっている。
「この宝珠は、はるか古代の文明が残した『真の世界地図』……!」
アリスの青い瞳に、狂信的なまでの光が宿った。
彼女はホログラムの中心――遥か西の大陸を指差し、感極まったように叫んだ。
「ルーク殿! これは我々に『外の世界へ進出すべきだ』という、天啓に違いありません! 我々のコンプライアンスと5S活動(環境美化)は、まだこの世界のほんの片隅にしか及んでいなかったのです! CEOたる私、今すぐ新大陸に向けた『新規市場開拓(ブルーオーシャン戦略)』のプロジェクトチームを発足させます!!」
「…………」
ルークの顔色から、みるみるうちに血の気が引いていく。
彼の脳内では、アリスの希望に満ちた言葉が、全く別の絶望的な単語に変換されて響いていた。
(新規市場開拓、だと……?)
(冗談じゃない! 王国と帝国の小競り合いだけでも胃が痛いのに、これ以上『見知らぬ大陸の見知らぬ法律』や『言葉の通じないクレーマー(魔物)』の相手なんてさせられてたまるか!)
ルークは激しく首を振った。
グローバル展開。それは響きこそいいが、現場の事務長にとっては「時差による深夜のオンライン会議」「複雑怪奇な為替リスクと関税の計算」「終わりのない海外出張(物理的な死のリスク)」という、終わらない無間地獄の始まりを意味するのだ。
「……よし、見なかったことにしよう」
ルークは極めて真顔のまま、引き出しから最も分厚く、最も重たい『過去十年度分の固定資産台帳』を取り出した。
そして、光り輝く宝珠の上から、その分厚い帳簿を「ドサァッ!!」と力任せに被せた。
プツンッ。
光の供給源を物理的に塞がれたことで、壮大な世界地図のホログラムは強制的にシャットダウンされ、執務室は元の静寂と薄暗さを取り戻した。
「ル、ルーク殿!? なぜ真実の世界を閉ざしてしまうのですか!」
アリスが抗議の声を上げる。
「いいか、お前ら。よく聞け」
ルークは、かつてないほど険しい表情で二人を睨みつけた。
「我々の管轄は、あくまでこの都市周辺の環境と経済だ。自社のキャパシティ(処理能力)を無視してむやみに事業をグローバル拡大すれば、組織は必ずパンクし、末端の労働者(私)が過労死する。……この宝珠は『ただのよく光る文鎮』だ。絶対に他言無用とする! いいな!」
「は、はい……!」
ルークの凄まじい「絶対に働きたくない」という気迫に圧され、二人は生唾を飲み込んで頷くしかなかった。
(ふう……危ないところだった。知らぬ存ぜぬを突き通せば、私の平和なぬるま湯は守られる)
ルークは安堵の息を吐き、再び安眠チェアに腰を下ろしてコーヒーカップに手を伸ばした。
彼自身の手で、広がりゆく世界への扉を、分厚い帳簿という名の「事なかれ主義」で強引に塞いだのだ。
しかし、彼はまだ知る由もなかった。
この時起動した宝珠のホログラムが、単なる地図の投影だけでなく、遥か西の大陸に向けて「我々はここにいる」という微弱な魔力信号を発信してしまっていたことを。
見なかったことにすれば、問題が消え去るわけではない。
事なかれ主義の事務長が愛する平穏な日々は、彼が「文鎮」の下に隠した真実によって、やがて海を越えた巨大な歯車を回し始めようとしていた。




