第16話「暗号解読(エクセル)と、完全なる監視社会」
スパイすらも書類の不備とエクセル(の概念)で撃退する展開にいたしました。
「ピンポーン。番号札45番でお待ちの方、二番窓口へどうぞ」
気の抜けたような魔法の音声が響いた。
ノワールは覚悟を決め、心臓を早鐘のように打たせながらカウンターへと歩み寄った。
そこには、無精髭を生やし、死んだ魚のような目をした中年男が座っていた。
彼こそが標的、ルークだ。
(この男が……アリス局長を洗脳し、この鉄の規律を支配する黒幕……! まったく魔力を感じない。完全に気配を隠蔽している……恐るべき実力者だ!)
実際には、昨夜遅くまで領主府に提出する月次報告書を作っていたため、ルークは純粋に疲労困憊して気配が消えかかっているだけだった。
「……えーと、新規の登録希望ですね。ノーマンさん。こちらの申請書に……」
ルークは気怠げにノワールの提出した偽造の身分証と申請書を受け取った。
ノワールは息を潜めた。この偽造身分証は王室情報局の最高技術で作られたものだ。絶対に見破られるはずがない。
「ノーマンさん。これ、不備がありますね」
「なっ!?」
ノワールは驚愕した。見破られたのか!?
ルークは赤いインクのペン(赤ペン)をくるくると回しながら、書類の空欄をトントンと叩いた。
「ここ。『緊急連絡先』と『前職の源泉徴収……じゃなかった、前所属ギルドでの納税証明』が書かれていません。これがないと、当ギルドではコンプライアンス上、受理できないんですよ」
「き、緊急連絡先……? 納税……?」
暗殺者に緊急連絡先などあるはずがない。
「我々はね、所属する人員のバックグラウンドチェック(身元調査)を徹底してるんです。どこぞの馬の骨ともわからない人間を現場に出して、もしものことがあったら、こっちの責任(始末書)になりますからね」
ルークの「(俺が)面倒な責任を負いたくない」という心の叫びだったが、ノワールの耳には「お前の素性など、すでに我々の情報網で完全に把握している。隠し事は無駄だ」という死の宣告に聞こえた。
さらに、ノワールの視線が、ルークのデスクの脇に置かれた巨大なバインダーに釘付けになった。
バインダーが開かれており、そこにはびっしりと謎の記号と数字が、縦横のマス目に沿って幾何学的に配置されていた。
(な、なんだあの複雑怪奇な暗号書は……! 王国の最新暗号すら児戯に等しい、圧倒的な情報量! 左側と右側で完璧に数字が一致している……これはまさか、王都の軍事配置図と、各都市への侵略ルートを同時に計算している魔法陣か!?)
それはただの「複式簿記の貸借対照表」だったが、ノワールの目には世界征服の設計図に見えていた。
ルークはノワールの視線に気づき、バインダーをパタンと閉じた。
「ああ、見られちゃいました? ギルドの『情報』は、こうやってすべて一元管理して、相互に監視し合えるシステムになってるんです。だから、不正(経費の誤魔化しなど)は絶対にバレますよ。……逃げられると思わないことです」
ルークは「領収書を誤魔化すなよ」という意味で釘を刺しただけだった。
しかし。
「ヒッ……!!」
ノワールは、魂が凍りつくような恐怖を覚えた。
自分は完全に読まれている。この男は、自分が王都の密偵であることも、どんな訓練を受けてきたかも全て知った上で、弄んでいるのだ。あの恐るべき暗号書の計算式の掌の上で!
「も、申し訳ありませんでしたァッ!!」
ノワールは悲鳴を上げ、書きかけの申請書をひったくると、脱兎のごとくギルドから逃げ出していった。
「……なんだあいつ。最近の若い奴は、緊急連絡先を聞かれただけで逃げ出すのか。まあいい、これで処理する書類が一つ減った」
ルークはあくびを一つすると、温くなったお茶をすすり、再び平和なデスクワークに戻るのだった。
一方、王都に逃げ帰ったノワールによって「辺境のギルド事務長は、神の如き情報網と暗号技術を持つ化け物」という報告がなされ、王室情報局が完全に白旗を揚げることになるのだが、ルークがそれを知る由もない。




