第14話「栄転(という名の厄介払い)と、新たな役職」
アリスが「最高環境責任者(CEO)」としてこの辺境のギルドに君臨してから、およそ一ヶ月が経過していた。
その日の朝、ギルドのロビーは、不気味なほどの静寂と、異常なまでの清浄さに包まれていた。
床の石畳は、顔が映るほどに磨き上げられている。窓ガラスには一切の曇りがなく、朝日が乱反射して神聖な気配すら漂わせていた。これらはすべて、アリスが主導し、ザックが現場監督として徹底した「朝の5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)活動」の賜物であった。
執務室のデスクに座るルークの手には、王都から早馬で届けられた一通の仰々しい書状が握られていた。
最高級の羊皮紙に、王家直属の印章が深々と押されている。
『アリス・フォン・ルンデルハウスを、王都の治安維持省・特別監査局の局長に任命する』
それは、異例中の異例とも言える大抜擢だった。
現場で剣を振るう騎士団ではなく、都市のインフラや治安、法務を統括する文官のトップへの栄転。領主である叔父が、アリスの「CEOとしての都市防衛(という名のゴミ拾いと粗大ゴミ排除)」のマクロな視点を王都に大々的にプレゼンテーションした結果、王室会議が彼女の類稀なる「統治の才能」を認めたのである。
「……信じられない。あの、壁を粉砕することしか知らなかった歩く人間台風が、国の監査局長だと?」
ルークは書状を見つめながら、ポツリと呟いた。
しかし、次の瞬間、彼の口元はピクピクと痙攣し、やがて両手で顔を覆って肩を震わせ始めた。
(やった……! やったぞ!! ついに、あの過剰コンプライアンスの権化とおさらばできる!! これでギルドの修繕費に怯える日々も、いつ斬首されるかわからないクレーマー対応も終わるんだ!!)
ルークの内心は、王都の楽団を呼んで三日三晩のパレードを開催したいほどの歓喜の渦に包まれていた。事なかれ主義のおっさんにとって、これほど喜ばしい「他人の出世」はない。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
「ルーク殿。入ってもよろしいでしょうか」
「……あ、ああ。どうぞ」
ルークは咳払いをして表情筋を総動員し、「優秀な部下を送り出す、少し寂しげで威厳のある上司」の完璧なマスクを顔に貼り付けた。
静かに扉を開けて入ってきたアリスは、いつもの白銀の鎧を身に纏っていたが、その出で立ちは赴任してきた初日とはまるで違っていた。
かつての彼女は、血の匂いを求める狂戦士のような殺気を漂わせていた。しかし今の彼女からは、深い知性と、規律を重んじる為政者としての静かなるオーラが放たれている。
「王都からの辞令、拝見いたしました。……いよいよ、お別れですね」
ルークが穏やかな声で語りかけると、アリスの大きな青い瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ルーク殿……っ! 短い間でしたが、本当にお世話になりました。私は、このギルドに来た日のことを決して忘れません」
アリスは深く頭を下げ、震える声で紡いだ。
「ここに来るまでの私は、ただ剣を振り回すだけの愚か者でした。力で敵をねじ伏せることしか知らず、守るべき市民の本当の生活には見向きもしていなかった。……ですが、ルーク殿は私に教えてくださった」
アリスが顔を上げる。その瞳には、純粋な尊敬と感謝の念が溢れていた。
「真の脅威は魔物だけではないこと。道端のゴミ一つが人の心を荒ませ、経済を衰退させること。そして、剣ではなく『規律』と『予防』こそが、都市を根本から守る最強の盾であるということを……! 貴方が授けてくださった『帝王学』は、私の血肉となりました!」
(いや、お前が怪我しないように安全なゴミ拾いをさせてただけなんだが……)
ルークは内心で冷や汗を流したが、表面上は深く頷いてみせた。
「貴女のその真摯な学ぶ姿勢があったからこそです。王都の治安維持省という巨大な組織でも、貴女なら必ず素晴らしい『システム』を構築できると信じています」
「はい! ルーク殿から学んだ『ホウ・レン・ソウ』と『PDCAサイクル』を王都の騎士たちにも徹底的に叩き込み、一切の不正を許さない鉄の規律を敷いてみせます!」
アリスが涙を拭い、決意に満ちた笑顔を見せる。
(王都の騎士たち、急に変なビジネス用語を押し付けられて過労死しないといいけどな……)と、ルークは遠い王都の空に向けて心の中で合掌した。
そこへ、部屋の隅でずっと鼻をすすっていた男が進み出た。ザックである。
元チンピラで、かつては冒険者たちから小銭を巻き上げていた男は今、アイロンの効いた清潔な服を着て、アリスの前で直立不動の姿勢をとっていた。
「ア、アリス様……! 俺も、アンタの強靭な『精神』と、絶対に妥協しない『実行力』には、数え切れないほど学ばせてもらいました……!」
ザックがボロボロと涙をこぼす。
アリスは優しく微笑み、ずっと背中に背負っていた「一本の古びたほうき」を両手で持ち、ザックへと差し出した。
それは、彼女が「CEO」としてこの一ヶ月間、毎日狂ったように街の石畳を磨き上げ、時には不法投棄する盗賊を物理的に叩きのめしてきた、愛用の清掃用具だった。
「ザック。貴方はもう立派な監査担当です。この『都市環境を正すための杖』を、貴方に託します。……私が去った後も、このギルドの5Sを維持し、ルーク殿の右腕として働きなさい」
「うおおぉぉッ! アリス様ァ! 誓います! このほうきにかけて、俺が絶対にこの街のコンプライアンス(環境美化)を守り抜いてみせます!!」
聖剣を授けられた円卓の騎士のごとく、ザックはほうきを押し戴き、床に膝をついて号泣した。
(ただの使い古したほうきが、完全に聖遺物扱いされてる……)
ルークはもはやツッコミを入れる気力すらなく、ただ静かにその光景を見守った。
やがて、出発の時間が訪れた。
ギルドの外には、王都から迎えに来た豪奢な馬車と、重武装の近衛騎士たちが控えていた。彼らは、アリスから放たれる「エリート官僚の覇気」に圧倒され、冷や汗を流しながら直立している。
さらに馬車の周囲には、街の住人たちが大勢詰めかけていた。
「白銀の清掃騎士様! 行かないでくれー!」
「CEOのおかげで、街からスリもゴミも消えたんだ! 本当にありがとう!」
市民たちが口々に感謝の言葉を叫び、花束を掲げている。最初は恐れられていた彼女の過剰な正義感も、街を綺麗にし、悪徳商人を一掃したことで、いつしか市民の熱烈な支持を得ていたのだ。
アリスは市民たちに力強く手を振り、最後に振り返って、ギルドの入り口に立つルークに深く一礼した。
「ルーク殿は、私の生涯の恩師です! いつか必ず、貴方が安心して暮らせるような完璧な国を創り上げ、王都へとお招きいたしますからね!」
馬車の扉が閉まり、御者が鞭を入れる。
パカラッ、パカラッという蹄の音が、歓声とともに少しずつ遠ざかり、やがて朝の光の中へと消えていった。
馬車が完全に見えなくなるまで手を振っていたルークは、ゆっくりと踵を返し、誰もいなくなった自分の執務室へと戻った。
バタン、と重厚な木の扉を閉める。
カチャリ、と鍵をかける。
執務室には、朝の静寂だけが残されていた。
突然壁が壊される心配も、理不尽な正義の鉄槌が下される心配も、血生臭い戦闘の報告を聞かされる心配もない。
ルークは自らのデスクに向かい、長年愛用している椅子に深く腰を沈めた。
「……静かだ」
彼は引き出しから、お気に入りの「ルーク印」を取り出した。
そして、机の上に積まれていた未処理の経費伝票を一枚手に取り、朱肉をつけて、所定の欄にゆっくりと、そして極めて正確にハンコを押した。
トスッ。
完璧な角度。完璧な印影。
誰にも邪魔されない、圧倒的な事務作業の平穏。
「……よし。これでようやく、完全な『事なかれ主義』の日常に戻れる」
ルークは深く息を吐き出し、温かいお茶を一口すすって、至福の笑みを浮かべた。
しかし、彼は知らなかった。
栄転したアリスが、到着した王都の治安維持省の就任演説にて、高官たちを前に堂々とこう宣言することを。
『私が用いる防衛理論は、すべて辺境のギルドに身を隠す稀代の軍師、ルーク様より授かったものです! 彼は一人で国家予算規模の経済を回し、敵の心をシステムで折る本物の天才です!』
意味不明なビジネス用語(PDCA、コンプライアンス)を完璧に使いこなし、既存の法制度を次々と論理的に破壊して新たな規律を敷いていくアリスの姿に、王国の重鎮たちは震え上がった。
『そのルークという男……一体何者なのだ。直ちに王室情報機関の特A級エージェントを派遣し、その男の身辺を洗え! 万が一、国家に牙を剥くつもりなら……!』
事なかれ主義のおっさんの愛する平穏な日々は、彼が望めば望むほど、世界の中心という名の巨大な渦へと巻き込まれていくのであった。
アリスの成長劇(?)と栄転までの4エピソードでしたー
ルークの意に反して彼自身の評価が国レベルにまで上がってしまいましたね。




