10
フレデリックがローラと密かに会っている。
聖女である彼女につけた監視が、思いもよらないそんな情報を持ってきた。
ミシェルは、すぐにキャシーを呼び出した。
「夏季休暇中、彼らが会うのは三回だけって言っていたけれど、三回どころではないようなの。なぜかしら?」
サロンでは何でも注文していい、という条件で、忙しいところを駆けつけて来たキャシーは、メニューから目を離さない。
それでも、こちらの話はしっかり聞いているらしい。
彼女はこういう、複数のことを並行して考えるのが得意だと思う。
ひとつのことをじっくり考えるミシェルとは、対極だ。
「それはもちろん、お嬢様が原因でしょう」
「私が? どうして?」
「本来なら、お嬢様は夏季休暇中もフレデリック様を追い掛け回し、振り回し、連れ回しますからね。
でも、このキャシーがいる世界では、暴動事件のために奔走なさって大変に忙しいですからね。
結果、フリーになったフレデリック様は、空いた時間を有効にお使いになった、ということでしょう」
むう、と唸ってしまう。
フレデリックを取り戻すための計画が、逆にローラとの仲を深めさせてしまっているということか。
やはり自分は、並行した思考が苦手なのかもしれない。
「まあ今更どうしようもありませんよ。
お嬢様の実家が襲われるのは、来週でしたね。しかしまあ、聖女が暴動を計画しているなんて……」
「ジョシュアが監視をつけてくれなければ、確かに思いもよらなかったわ。
それにしても、あなたにも分からないことはあったのね」
「言われてみれば、恋愛部分以外は割りと適当に端折った書かれ方だったんですよね……。
暴動が聖女の幼馴染の起こすものだってところは、同じなんですけどね」
「幼馴染、か」
「少しずつ変化しているのかもしれないですね」
ミシェルが首をかしげると、キャシーはちらりとこちらを見た。
が、すぐにまたメニューに目を落とす。
「お嬢様の行動が変わりフレデリック様の行動が変わる。それによって聖女の行動が変わる」
「ああ、そうかもしれないわね。
人は、人との関係で行動を変えていくものだわ」
「はい。ですから、結末も大いに変わることでしょう」
聖女が主犯となれば、当然、フレデリックも彼女の見方を変え、そして行動が変わる。
結末とやらは、もう、間もなくだ。
「これから領地に行くの」
「暴動に立ち会うのでしたね。第三王子殿下とは打ち合わせ済みなのですよね? 無茶なことはしないでくださいね?」
「ジョシュアにも同じことを言われたわ。大丈夫、私は表には出ないもの。
では、私はもう行くわ」
まだメニューを吟味していたキャシーが、あら、と残念そうにするので、菓子は包んで持たせることにした。
すぐにでも出発しなければ、間に合わないだろう。
ほくほくと荷物を抱えたキャシーは、別れ際に言った。
「いいですか、聖女が断罪されたら、すぐにフレデリック様を慰めてさしあげるんです。
すぐですよ。
とっても傷心でしょうから、その時こそ、お心を取り戻すチャンスってわけですから」
それは、元メイドの最後の忠告だった。
◇ ◇ ◇
「手帳……?」
フレデリックの心臓が、どくりと鳴る。
二人の間で手帳と言えば、それはフレデリックの持っている手帳に他ならない。
しかし、フレデリックには記憶がなかった。
果たして、ローラとの計画を、書き留めたか、否か。
いや、記憶にないということは、書き留めていないのではないか。
だが。
しかし。
「手帳があるんだね?」
「はい、殿下。彼はいつも小さな手帳を持ち歩き、なんでもそこに書き留めます」
「ではフレデリック、その手帳を提出願いたい」
動けなかった。
はっきりと書き留めていないと言い切れない。
しかし、そうやって逡巡している間に、ジョシュアの指示で騎士が近づいてきた。
そして、無意識のわずかな抵抗もむなしく、胸元の手帳が抜き取られる。
すぐさま、それはジョシュアに届けられた。
彼はぺらぺらとそれをめくり、あるページで止まる。
そしてそのページをこちらに突き出した。
「ここ」
『第一の暴動は新月。その六日後に第二の暴動、エッセル領。
ローラは予言を遅らせ、第二の暴動三日前にエッセル家に直接来訪のこと』
「書き留めて……いたのか、私は」
決定的な証拠だった。
もう、言い逃れる術はない。
「その後にはおそらく、私がエイケン商会におつかいを頼んだ記述があることと思います。
彼が私に会いに来たのは、第一の暴動の当日。
すなわち、彼は、少なくとも最低限、カートランド領の暴動当日以前に、そのことを把握していたということになります」
そうか、と納得した。
ミシェルは我儘だったが、それはあくまで婚約者同士の交流に関してだけだった。
あのように、フレデリックを使用人のようにお使いをさせるなど、今までなかったのだ。
あれは、日時をはっきりとさせ、証拠をより明確にするためだったのだ。
思わず問いかける。
「なぜだミシェル。自分でも記憶になかったのに、なぜ、書き留めたと言い切れたのだ。こんな、国王の前で」
彼女は少しばかり目を閉じた。
そして、目を開けたのち、しっかりとフレデリックを見た。
「それはもちろん、私があなたを大切に思っていたからです。
幼いころからあなたと家族になるのだと、そのために努力は惜しまないと決めていました。
だから私には分かるのです。
あなたが、大事だと思ったことはもう意識もしないほど習慣的に、その秘密の手帳に書き留めるはずだと」
それは、まるで愛の告白だった。
なのに、彼女の目は、非情なほどに冷めているのだ。
「だったらなぜ……なぜ、私を告発など」
「簡単なことです。あなたが、カートランド家にふさわしい人間ではなくなったから」
「……っ、そのような、物言いをするものじゃない、ミシェル。
私は確かに、ローラに心を奪われたが、格下の公爵家にふさわしくないなどという言われようをする覚えはない」
ミシェルは、すっと目を細めた。
なんだか見覚えがある。
そう、ジョシュアの仕草にそっくりだ。
「先ほどから私を名前でお呼びですが、失礼ながら控えていただけますか、エッセル公爵令息」
「嫌味な言い方をするな。君を名前で呼んで何が悪い」
「よろしくありません。なぜなら、私達はもう、無関係な間柄ですので」
「なんだって?」
思わず、父の方を見た。
壇上ばかり見ていた父も、このときばかり、ちらりとこちらを見た。
当然、ミシェルの言葉を否定するものと思ったが、父の口から出たのは、真逆の言葉だった。
「ミシェル嬢の言うことは本当だ。すでにお前との婚約は破棄された」
「は……破棄? なぜ!」
「彼女の言った通りだ。お前が、公爵家にふさわしくない人間だからだ」
「父上までそのような。ミシェル、どういうつもりだ。なぜ婚約破棄など」
ミシェルは、見たことのない顔をしていた。
無表情とも違う。
そこに浮かんでいたのは、軽蔑だった。
そしてそこから発せられた声もまた、隠しきれない嫌悪感を滲ませている。
「あなたが、我が領の民達のみならず、自領の民まで巻き込み、罰せられるよう仕向けたからです!」
はっとする。
暴動は、領民たちが起こすから意味がある。
フレデリックは、魔術師たちが扇動することなど知らなかった。
初めから、領民たちが起こすものと、きちんと認識していた。
「自分が聖女と結ばれるためだけに、暴動が起こると知っていながら、それを事前に止めることもせず、自らの手柄にしようとした。
私兵を動かし、領民たちを捕えさせたあと、彼らがどうなるか知らないとは言わせません」
「あ……」
「あなたは、欲望のために民の命を犠牲にしようとした。
貴族にあるまじき思想、ましてや最高位である公爵家にあり、領地を健やかに保つ手本となるべき人間がすることではありません」
なんとか、なんとか弁明を。
そう思ったが、口から出たのは彼女を責める言葉だった。
「それは、カートランドも同じことではないか。君も事前に知っていた。
そのうえで、領民が扇動されるままにした」
「一緒にしないでくださらない? あれは、『代役』です」
「なんだって?」
「領民たちではない、うちの私兵を集めて平民の恰好をさせ、魔術師たちの扇動に乗るよう指示したのです。
領民たちには、日没以降決して外に出てはいけないと言い含めて。
あれは、扇動者たち、すなわち聖女とあなたがた三人の男性を騙すための、お芝居の役者のようなものでした」
ミシェルは、さらに一歩、フレデリックから遠ざかった。
「私は確かに、あなたを大切に思っていました。公爵家同士で交わした約束を守るべく、すべての貴族の手本として、あなたとの未来を目指してきました。
けれど、それももうおしまいにいたします。
だって、あなたは、私にふさわしくありませんから」
言い訳も何も、出てこなかった。
彼女の意志が強いことは明白で、そのにじみ出る軽蔑を覆せるようなものを、フレデリックはもう持っていない。
父が、粛々と言った。
「エッセル領に王宮騎士を送るため、カートランド家の転移陣を借りた。
その見返りとして、お前との婚約破棄を検討するという条件を吞んだのだ。
勘違いをするなよ、見返りに破棄を要求されたのではない、検討を条件にされたのだ。
そして私は全てを聞いた。
第三王子殿下も交えてな。
そして検討し、お前を、カートランド家に入れるわけにはいかないと決定した」
もう、フレデリックが何か言えることはなかった。
ただ、思わずすがるようにミシェルを見た。
しかし、彼女の視線がこちらを向くことは二度となかった。
誰もが無言になったところで、宰相が国王に全ての書類を差し出した。
国王は、それに署名をする。
「提出された罪状を全て認定とする。量刑は、さらなる調査の後に決定するものである」
重々しい王の結論が告げられ、フレデリックは床に崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
「ごきげんよう、キャシー」
「お招きありがとうございます、お嬢様」
座って、とミシェルが言うと、キャシーはテーブルの上を眺め渡しながら着席した。
「今日は一番、豪華ですねぇ」
「そうよ。慰労会ですもの」
王城での断罪劇から、一か月が経っていた。
あれからミシェルは、暴動事件からすっかり手を引いていた。
そもそも、関わったのはフレデリックとの婚姻を成立させるためだった。
その目的がなくなった以上、もうそれほどの興味がない。
「フレデリック様は、修道院にお入りになるとか。――表向きは」
「ええ。だから貴族籍ははく奪されたの、なんならあなたのほうが身分は上よ、キャシー」
犯人たちがあれを『革命』と呼称していた以上、罪としてはかなり重いものになるのが通例だ。
しかし、今回は刑罰の判断が非常に難しかったと、父が言っていた。
なにしろ、平民たちの『革命』ではない。
そこには公爵家の次男や、魔術師たちの長などという国の重要人物のみならず、聖女までもが関わっていた。
いや、関わるどころか主犯である。
全員に極刑を言い渡すだけなら簡単だが、その後の影響ははかりしれない。
公爵家の人間が、王家に反乱を起こそうとした。
真の目的はもちろん、聖女という立場からの解放であったと判明している。
だからといって、公爵家と王家の見かけ上の対立構造が薄まるわけではない。
それは、国の仕組みをゆるがす価値観の崩壊に繋がりかねない。
「身分といえば……やっぱり平民というのは、価値が軽いんですねぇ」
「ミルコという男のことね。そう……仕方のないことだわ」
王家は結局、今回の件を隠ぺいすることにした。
暴動は、あの平民であるミルコという男の企みであり、狙いは男爵令嬢であるローラへの許されない懸想である、とした。
「幼馴染のローラを愛していたのに、貴族になって簡単に会えなくなった。
けれど彼女は、教会への慰問をしていると知る。
暴動を起こせばきっと彼女が慰問にくるだろうから、偽の革命を企んだ――なんだか人間心理として妙に説得力のあるところが、ちょっと嫌ですねぇ」
さすがにあまりに可哀想だと思ったのかどうか、彼は極刑ではなく、終身労働刑となった。
死ぬまで肉体労働を課せられるわけだ。
それってどちらが本人にとって『軽い』のかしら、とミシェルは少々疑問ではある。
では、残りの人物が無罪かといえば、さすがにそれはなかった。
王家としても放置はできないし、あの男爵令嬢をこのまま聖女としてお披露目するわけにもいかなかった。
「結局、ローラは重病で療養のため学園を退学、フレデリック様は落馬による怪我で同じく療養のため退学、と世間的には公表されましたね。
でも貴族なら気づいているでしょう。
病気なんて、謹慎の別名だって」
実際、ローラは現在、特別牢で監禁状態だ。
腐っても聖女であることから、王家は彼女を秘密裏にでも処分することをためらった。
ゆえに、療養の名目で世間から隔離し、後は生涯、牢の中で過ごしてもらうそうだ。
予言をすれば刑期が短くなると伝えて。
「300年の刑期が、予言ひとつで数年短くなったところで、生きている間に出られるわけもありませんけど」
「聖女様は刑期を知らされていないのですって。
だから、希望を持って、予言を懸命になさるでしょうね」
キャシーは、嫌な顔をした。
「ろくでもない女ですけど、末路は結構、エグめ」
「えぐ……?」
「なかなか残酷ですね、ってことです」
「そう? 王家、つまり国家に反逆を企てた主犯にしては、かなり優遇されていると思うけれど」
そう言うと、またまた彼女は嫌な顔をした。
この時代の人権の軽さ、ヤバめ、などと呟いている。
「じゃあ、フレデリック様は、実際どうなっているんです?
落馬の怪我が原因で神に仕える気持ちが芽生え、修道士になったなんて対外的には発表されるそうですが。
落馬なんかしてないし、怪我もしてないから、健康体ですよね?」
「ええ。彼は……公爵家の離れで一生を過ごすことになったわ」
「それは……ほぼ無罪放免という意味では?」
ミシェルはゆっくりと首を振った。
不意に、幼いころのフレデリックの記憶がよみがえる。
無口で、しかし、ミシェルの我侭を優しくきいてくれた日々のことだ。
時間とは、残酷なものだ。
その最たるものが、戻れない、という点に尽きる。
ミシェルとフレデリック、二人の未来が明るく希望に満ちていた日々には、もう絶対に戻れない。
「離れは、窓もなく、使用人は最低限の通い。食事も母屋から日に二度運ばれるだけ。
誰とも会えず、一生そこから出られない。
それが、これからの彼の生活よ」
「あー」
キャシーは、得心した顔をする。
「いわゆる座敷牢と同じってことですね。はいはい、納得しました」
彼女の前世とやらにも、同じような施設があったのだろう。
うんうんと頷いている。
「そんなのはつまり……生きているとは言えない生活ですね」
「王家に対して犯罪を企てるということは、そういうことよ。
フレデリックはそのことを、教育されて知っていたはずだわ。
けれど、なぜかしらね、愛の前には王さえ寛容になると思ったみたい。
そんなはず、ないのにね」
王家とエッセル公爵の交渉で決まったその処分に、フレデリックは大いに抵抗したそうだ。
挙句の果てに、せめてミシェルの面会だけは許してほしいと願ったとか。
ミシェルの父に打診がくる前に、関係者全員で却下したらしい。
許可されれば、ミシェルは会いに行くと思ったのだろうか。
思ったのだろう。
そうでなければ言い出さないことだ。
ミシェルはとても不思議だった。
なぜ、婚約者でもないのに会いに行くと思っているのか。
破棄、という言葉の重みを、彼は本当には理解していないのかもしれない。
「それにしても、とんだとばっちりなのはお嬢様ですね。
学園のみならず、貴族の間で静かに広がっていたフレデリック様とローラの噂、そこから間を置かずして二人まとめて人前から姿を消した。
複雑な貴族の慣習をふまえて、あの二人の間にとんだスキャンダルがあったと想像されるのは当たり前です」
「そうね」
「後に残されたのは、婚約者に浮気されたという噂と、それが蔓延する世界に取り残されたお嬢様、ってことですからね」
まさにその通りだ。
「当面は、私も傷心を装って、屋敷に引きこもって暮らすしかないわね」
「装って、ですか」
キャシーは、ミシェルの言葉を繰り返してニヤリとした。
「いいですね。つまり実際は、特に傷心してなどいないってことですね」
「どうかしら」
口当たりの良いカップで、紅茶を一口飲む。
いい香りだ。
「幼馴染が幽閉同然の罰を受けることになった、と思えば、心が痛むわ。
もともと無口な人だけれど、誰かと接することが嫌いな人ではなかったから。
けれど……婚約者として身も世もなく嘆く、という気にはならないの」
「面白いですね」
その物言いに、侍女がピクリと不快な顔をしたが、ミシェルはむしろ興味が湧いた。
「何が面白いの?」
「フレデリック様が、浮気者でしかも言うべきこともきちんと言えない口下手野郎だった時は、冷めて然るべき恋心は燃え続けていたというのに」
その言い方に、思わずふふっと笑ってしまう。
「浮気を成就させるために民を巻き込もうとしたら、恋心は鎮火どころか氷漬けになってしまった」
「氷漬けはいいわね」
「私はね、お嬢様――あなた様が、貴族としてフレデリック様との婚姻をなんとしても結ぶのだと聞いた時、正直、お嬢様の人生終わったなって思いましたよ。
けれど最終的に、その貴族的矜持こそが、フレデリック様を斬り捨てる判断をすることになった。
ね、面白いですよね」
ミシェルは自分の心の中を覗いてみる。
確かに、彼への恋心はもう残っていない。
けれど、彼女が言うほど、きっぱりそれを切り捨ててしまった訳でもない。
むしろ今だからこそ、フレデリックの裏切りが心に痛い。
絶対に婚姻を結ぶのだと決意していた頃は、その痛みを封じていた。
目的のためなら、そんなことに煩わされている場合ではなかったからだ。
だから目的を失った今、心の防波堤はなくなり、まっこうからミシェルを苦しめる。
だからこそ。
「ごきげんよう、皆さま!」
部屋の扉がノックされたと思うと、返事を待たずに一人の令嬢が入ってくる。
ミシェルの侍女は目を丸くしているが、キャシーは興味津々の顔をしていた。
「ふふ。ようこそ、アンジェラ様」
「ええ、お招きありがとう。楽しそうだと思って来たのよ。
あなたの婚約破棄記念ですもの」
入ってきたのは、アンジェラ・エイケンだ。
今日のお茶会には、キャシーと彼女の二人を招待した。
理由は、二人が『歯に衣着せぬ』タイプだからだ。
忠告をひとつもきかないミシェルに、それでも何度も、言葉を尽くしてくれた。
「まあ、いいお茶ね」
「ええ、いただきものだけれど」
アンジェラは、カップに口をつけながら、ちらりとキャシーを見た。
「ねえ、こちらがもしかして、例の元メイド?」
「ええ。ご紹介するわ。キャシー・アイビー男爵夫人です」
「お初にお目にかかります」
「アンジェラ様。彼女は元平民で、私がお願いして気軽な口調で話してもらっているの。
あなたもそれで構わないかしら?」
「かまわなくってよ」
それより、と、彼女はミシェルに向き直った。
「ねえ、私の言った通りでしたでしょう? エッセル公爵令息はやめたほうがいい、って」
「結果的にはね」
「馬鹿ね、あの男爵令嬢にうつつを抜かし始めた時点で、結果は出ていたのよ。
あなたの間違った価値観が、目を曇らせていただけのこと」
はしたなかったが、思わず声を出して笑ってしまった。
ミシェルの心は、今頃になってフレデリックの裏切りに苦しめられている。
それを吹き飛ばしてくれるのは、言葉を選ばず、けれど本心を惜しみなく伝えてくれる二人の友人たちだけだ。
「怪我をして療養ですって? まあ嘘でしょうけど。
何があったか知らないけど、学園からいなくなったってことは、もう社交界に顔を出すことはない、ってことでしょう?」
まさか生涯監禁生活とは予想も出来ないだろうが、本質は捉えている。
「ええ。もう二度と」
「二度と? そう。思ったより随分なことをやらかしたのね。
それも、あの男爵令嬢と二人で」
うんうん、とアンジェラは一人で頷いた。
「ほら! ね? 私の言った通り、で合ってたではないの。感謝なさい!」
とうとう、キャシーも笑いだした。
そして、身を乗り出す。
「残念ですけれどね、私の方が先に忠告しておりましたから、感謝していただくなら私が先ですから」
「あら。そういえば、そんなことをミシェル様がおっしゃっていましたわね。
ふうん。いいわ。その見る目に免じて、一番は譲って差し上げましょう」
「ですってよ、お嬢さ……ま……」
快活に話す、二人の姿が、いつの間にか滲んで見えた。
手に持ったままだったカップに、ぽたぽたとしずくが落ちる。
「え」
「ちょ」
ミシェルは、ゆっくりと、頭を下げた。
瞼の熱はおさまらず、またいくつもしずくが紅茶の表面を揺らした。
「あり、がとう。二人とも、本当に。今日この日に、ここにいてくれて、ありがとう……」
みるみるうちに二人は慌てだし、交互に話し出す。
「ちょちょちょちょっと泣かないでよ!」
「私たちが泣かせたみたいじゃないですか!」
「そうよ、そ、そう、な、なか、泣かないでよぉ……」
「あっ、なんでアンジェラ様まで……」
なぜか、つられたようにアンジェラも涙をこぼしている。
しばらく慌てていたキャシーは、やがて母親のような顔で、やれやれと呟いた。
ミシェルとアンジェラは、キャシーの合図でそれぞれの侍女から差し出されたハンカチで、そっと頬を押さえる。
「まさかお嬢様、未練がある訳じゃないですよね?」
おそるおそる聞かれたが、ミシェルの答えは、否だ。
首を振ると、ほっとしたような顔をされる。
「自分の心を殺しているつもりはなかったの。彼と結ばれることが、本当に正しいことだと私は信じていた」
「そう育てられたからでしょう?」
「誤解しないでほしいのだけど、家族の誰も、私にそれを強要してはいないのよ。
でもほら私……我儘だから」
ふ、とキャシーが笑う。
「自分が正しいと思った道は、突き進まないと気が済まないの。
キャシーはさっき、私自身の価値が下がることをとばっちりと言ったけれど、これは私の我侭が招いた、私の自業自得なのよ」
「ええ、ええ。私が思っていたのとは、全然違う方向の我侭でしたけどね」
笑い合う。
「家のためという目的を失った今だから、私は正直に言うわね」
「はい?」
「フレデリックは、ただの浮気者でしたわ!」
ミシェルが大声をあげると、キャシーが手を叩いた。
アンジェラは、あらあら、と目を丸くしている。
「そうだそうだ! あの男は、クズだ! 結局やってることは、私の前世の夫と一緒だ!」
「クズ、っていい言葉ね。私の中にはない言葉だわ」
「使っていいですよ!」
「フレデリックは……クズだ!」
「そうだ!」
今思えば、フレデリックは『無口』なのではない。
お互いに未来に向かって関係を作ってゆく、その努力を怠るばかりの怠け者だったのだ。
ミシェルの一方的な好意を、ただただ享受するだけで、むしろ我儘を快く聞いてやっていると言わんばかりだった。
キャシーによれば、ミシェルはそんなフレデリックのために嫉妬に狂い、聖女を毒殺しようとまでする可能性があったらしい。
けれど、その未来は消滅した。
罰せられることを恐れず忠告してくれたキャシーと、そのキャシーの話をきちんと検討し――おそらく教育方針を変えたカートランド家の人々によって。
それでもまだ、甘いけれど。
もっと何もかも許されていた人生が、多少は軌道修正されたと言えよう。
盛り上がる二人に、アンジェラが割って入る。
「ちょちょちょ、前世って何?」
「あら」
「あら」
「うっかり言ってしまいましたが、内緒です」
「内緒ですって」
「はぁ?」
目を怒らせるアンジェラに、まあまあ、という仕草をしながら、キャシーがティーカップを持ち上げる。
「こちら、売り出し中のカップ。なかなかの硬度ですが」
「秘密なら教えないわよ!」
「ふふ。それどころが、もっと硬度をあげ、薄く丈夫な磁器を作る方法をお教えしましょうか?」
「冗談言わないで、あなたごときがそんな知識を持っているはずないでしょう!」
「ほほほほ、マシューズ商会で次々と新商品が開発されている裏には、この私がいるのですよ?」
すっかり商人の顔になった二人が、楽しそうに腹の探り合いをしているのを見て、ミシェルの涙はようやく止まった。
きっともう、フレデリックのことで泣くことは、二度とないだろう。
全ては終わったのだ。
先のことは分からない。
これからゆっくり考えればいいと父親も言っていた。
しばらくは、社交界から離れて過ごすのもいいかもしれない。
ふと気づくと、二人の友人がじっとミシェルを見ていた。
思わず、目をぱちぱちさせる。
「なあに?」
「ねえ、私が気づかないとでも思って?」
「え?」
「商会で働く私も、すぐ気づきますよ」
「ええ?」
二人はそろって、カップを指さした。
思わず、目を逸らす。
「あーっ、目が泳いだ!」
「やっぱり……! この香り、この色……王室のみに卸される、専用茶園の茶葉でしょう!」
「誰にもらったんです? あーあー、いえ、言わなくても分かります」
「届いたの? 直接もらったの? 言いなさいよ!」
迫力に気圧されて、つい、口走ってしまった。
「お、一昨日、急に訪ねてきて」
きゃーっという悲鳴が上がり、その後、二人はにやにやとしながらミシェルを見ている。
随分と仲良くなったようだ。
訪ねてきた王室関係者とは、ジョシュアのことだ。
先ぶれもなしに、と驚いたが、どうやら父親が許したようだった。
第三王子が、父親の許しを得て、個人的に訪ねてくる。
それは、勝手な行動が許されない王家において、重要な意味を持っているのだ。
案の定、彼は、ミシェルの好きな紅茶を持参し、さらに、長い付き合いで初めて、一緒に花を手渡してきた。
これは王家の意向か、とミシェルは聞いた。
すると、彼は答えた。
『まず私の意志があり、それが王家の意向になった』と。
その時のことを思い出すと、ミシェルの顔は少しだけ赤くなる。
とはいえ、さすがに今すぐ何かを決める気にはなれない。
同時に、五大公爵家の跡継ぎとして、必要にして十分な伴侶を早急に決めてしまわなければならないことも理解していた。
待つ、とジョシュアは言った。
ありがとう、とミシェルは答えた。
だから、二人のこれからはまだ何も決まっていないし、そう、二人がこんなに盛り上がるほどのことではない。
きっと。
多分。
「殿方はこういうとき、乾杯をするそうですよ」
「あら、じゃあ私達もするべきね」
三人は、特別な紅茶の入ったカップを掲げた。
「破滅を回避した奇跡に」
「不幸な婚約が破棄された奇跡に」
「……思いがけず得られた友情に」
三つのカップが静かに掲げられた。
睨みをきかせていた侍女も思わず微笑み、新たな菓子を運ぶよう、そっとメイドに指示した。
女たちの茶会は、まだもう少し、続くだろうから。
読んで下さってありがとうございました。




