腐蝕の果てに(1/3)
セオ・ノエルド視点の話になります。
鉛のように重い空気を吸い込み、ざらついた息を吐き出す。
頭の芯を締め上げられ、胃の底が何度も裏返ろうともーー姿勢だけは崩さない。
兵士とは、いかなる時でも“正しさ”を示す者だ。
王が望む未来を取りこぼさぬよう、己の全てを捧げ続ける存在だ。
だからこそーーこの身に課した誓いを、もう一度静かに胸奥で結び直す。
ノエルドの家名に誓って。
重力が緩やかに正位置へ戻っていく。
地面の感触を得ると同時に、素早く剣を構える。
五層には枯れ果てた森と、その中心にはただ一つの祭壇があるはずだ。
揺れる視界を振り、周囲を掌握する。
その中で、ひときわ強く光が差し込む一点を捉えた瞬間、全身が強張った。
祭壇。
そして、その上にーー誰かが腰掛けている。
「リサナ王女殿下ッーー!」
抑え込むべき声が、反射のように喉を突いて漏れた。
私の声に反応し、ーー王子殿下が祭壇の上の人物に気づく。
「お前はーーッ!?」
様子を見るに、やはり犯人が化けていたと思われる。
しかし、外見が完全にリサナ王女殿下であるために、剣を握る腕に躊躇いが生じる。
「監禁を宣言してきたオッサン!」
……誰だろう。
その声にリサナ王女殿下は気づき、微笑む。
「……来てくれたのですね。
城下での騒動から間もないというのに……こんなにも早く駆けつけてくださるとは思いませんでした」
ーーリサナ王女殿下そのままの声音と物腰に、胸がざわついた。
王子殿下のお言葉を信じるべきか、迷いが生まれる。
「気がついたときには、このような暗闇のただ中に、一人取り残されておりました。
……“汚染”の気配があまりに強く、どの方向へ歩めば良いのかすら分からず」
言葉を切り、胸元をそっと押さえて俯く。
「……もう、誰にも見つけてもらえないのではなーー」
その声の底で、微かに金属が擦れ合うような音がした。
最初は気のせいかと思うほど小さく。だが、次の瞬間にははっきりと耳に届く。
風を裂く鋭音。
そして、リゼルファ隊士の暗器が王女殿下の頭頂を、容赦なく貫いた。
貫かれた“王女殿下”の身体が、ぐらりと揺れて階段を転げ落ちる。
白い祭壇に、赤い跡が飛び散った。
「リゼルファ隊士!?」
判断の早さに胸が強張り、心臓がきゅっと縮む。
王子殿下も目を見開いている。
リゼルファ隊士は一歩も動かぬまま、淡々と告げた。
「セオ隊士。コイツは黒だ。
リサナ王女殿下は、ネモール王子殿下と同じくーーオルセオン王子殿下を崇敬している。
遠目でも、今の王子殿下に嫌悪を抱いていようとも……見間違えるはずがない」
五層の“汚染”や犯人の力で、本物の王女殿下が正気を失っていたのだとしても、それでも、“偽物だ”と断じ切れたのだろうかーー。
「……"アレ"は王女ではないと断言できるけど、王女の居場所とか色々……。ひ、ひとまず本物の王女を見つけてさっさと脱出しよう」
王子殿下も汚染に耐えるのが厳しいようで頭を抱えている。
「……そうですね。リサナ王女殿下もいつまで持つか分かりませんし」
……しかし、犯人打倒があまりに呆気なく、果たしてこれで終わりなのだろうかと疑わずにはいられなかった。
近づくにつれ"王女殿下"の遺骸がよりはっきり見える。
白く透き通っていたはずの肌はゆっくりと血の気を失い、わずかにくすみ始めている。
頬の紅はほとんど消え、それでも整った造作だけは"美姫"の面影を残している。
祭壇の周囲を見渡しても、本物の王女殿下の姿はどこにもない。
焦りが胸を掠めた、その直後ーー透き通るような声が、不意に耳へ届いた。
「おかしいですね。間違いなく"リサナ王女"に"なっていた"はずなのですが……」
ふわり、と祭壇の陰から“もう一人の王女殿下”が姿を見せる。
足元には、動かぬ遺骸がそのまま横たわっているにもかかわらずーー生前そのままを写したかのような、瓜二つの存在がこちらを微笑んでいた。
「また殺していただいても結構ですが、少しばかりお話をーーなんて。追われている気配があったので、身構えておりましたが完全には看過できていないようですね」
王女殿下は上目遣いで首を傾げ、こちらを伺う。
咄嗟に剣へ手が伸びる。が、やはり確証がなく抜くことはできない。
束の間、"それ"はパチンと手を叩く。
「ああ、あの時の転生病の方ですか! その節はどうも。
……なるほど、それで私の姿が"彼"に見えるのですね。
それでも納得はできませんが……。
ーーしかし、オルセオン王子には相応しくない物言いですね。転生病、侮れません」
"それ"は踊るように退くと、舞踏礼ーーボウ・アンド・スクレープの姿勢を取って静止した。
「ともあれ、ここまでたどり着いた方へは礼儀が必要ですね」
高音と低音が混じった不可思議な響きが、短く、鋭く空気を震わせる。
“それ”の身体が揺らぎ、像が幾重にも重なったかと思うとーー。
そこにいた“王女殿下”は、いつの間にか長身の男へと姿を変えていた。
そして足元の遺骸までもが、その男の姿へと書き換わった状態で横たわっていた。
その男の手足は、枝のように細く長い。
肌は血の気を完全に失ったように白く、触れれば崩れそうなほど脆く見えた。
首元の“王冠のような飾り”を突き破って頭が生えているかのようで、縮れた髪は球状に張りつき、そこから異様に尖った耳が覗いている。
左目の瞼は腐り落ちたように欠け、乾いた眼球が露出していた。
さらに顔には白粉を雑に塗り重ねたような色斑があり、
左右の頬には涙と星の模様が描き込まれている。
身につけた衣服は貴族風ではあったが、
身体に合っておらずーー袖も裾もひどく短い。
まるで別人の服を無理やり纏ったかのようだった。
ーー道化のような風貌はともかく、この身体の特徴は……。
「誓精霊ッ……!」
リゼルファ隊士の低く押し殺した声が耳を打つ。
因縁のある種族と対峙して、普段は動じない彼女の表情に、はっきりと憎悪が浮かんでいた。
ーー神の寵愛を受けている存在が、今回の犯人……?
とてもではないが、信じたくない。
「ええ、ワタクシ誓精霊にございます。
そしてーー名はアスフォリオ・アガペイ。
奉身の誓環士を務めさせていただいております」
その自己紹介に思わず息を呑む。
その様子を感じ取った男は人形じみた笑顔のまま、観客を煽る役者のように両手を叩き拍手するのだった。
「おっと、黙精霊もいらっしゃいましたか。黙王の気配に紛れて気づきませんでした。ウフッ!」
侮蔑と嘲笑を、悪意を隠しもせずに振りまく声。
事件を起こしたことも、その態度も、到底許しがたい。
ーーだが、目の前の男は、かつて黙王を封じた“勇者”でもある。
"ただの兵士"が軽々しく剣を向けていい相手ではない。
「お前がどれほど偉かろうがどうでもいい!
リサナ王女を返せ、今すぐに!」
オルセオン王子殿下の叫びに我に返る。
そうだ……王女殿下を取り戻しさえすればいい。
犯行の是非や裁きについてはーーそれは、もはや王政の領分だ……。
「オホゥッ! なんと尊き家族愛! 妹君がご心配でたまりませんよねぇ……」
その声を合図にしたかのように、突如として金管楽器の甲高いファンファーレが鳴り響いた。
祭壇へ降り注ぐ光の筋の中を、リサナ王女殿下とーーその両脇を抱えた、白い羽を背に生やした裸のアスフォリオ二人が現れる。
彼らは楽器を吹き鳴らしながら、光の粒子を撒き散らし、ゆっくりと舞い降り……そして空中に留まった。
まるで狂った劇の一幕だ。
気色悪いどころの話ではない。……これも、幻覚なのか。
「オーレシア王国の姫君はこちらに……しかし、お返しする訳にはいかないのです」
「何故ッ……!?」
焦りが喉の奥から迸る。
アスフォリオは、まるでその反応を待っていたかのように目を細めると、身体をそこに置き去りにしたかのように、もう一人の身体が剥がれ祭壇を駆け上がる。
置き去りにされた身体も一つの生命体として、変わりなく動いている。
まったく同じ表情、同じ息遣い。
どちらが幻覚かなど区別が不可能だった。
「さて……みんなはどこまで知っているのかな?
どこから“お話”を始めましょうか?」
祭壇上のアスフォリオが、観客に語りかけるように楽しげに問いかける。
「まずは……“世界の腐敗”から始めるべきでしょうね?」
目の前のアスフォリオが応じる。
声も仕草も、寸分の狂いなく同じだった。
「ええ、それがーーよろしいッ!」
祭壇上のアスフォリオが誇張された動作で腕を広げる。
「黙王を封じてもなお!
誓いは神へ捧ぐのではなく、己の欲を満たすために使われ……!
民草共は“祈り”すら汚し続けているッ!
さあーー耳を取り出して、よくお聞きなさい!」
そう叫ぶと同時に、祭壇上のアスフォリオは自らの耳を引きちぎり、高々と掲げた。
血は水滴のように流れるも、まるで舞台小物のように誇示される。
「世界の秩序は“王の血筋”が保っている。
だが、その王が腐れば……?」
「世界の腐敗!」
二人の声が完全なハーモニーで重なり、響き渡る。
「腐敗した世界を、どう洗い清めるか」
「“核”を壊さねば……何も始まりません!」
祭壇下のアスフォリオは誇張した身振りで手を広げ、舞台を走る役者のように祭壇の周囲を軽やかに駆け回る。
「王家の血脈は、神がこの地に残した“均衡点”!」
「ゆえに、それを“腐蝕”すれば秩序は崩れ……!」
「新たな秩序が芽吹く……! さすれば、世界は必ず息を吹き返す!」
二人のアスフォリオは同時に立ち止まり、
リサナ王女殿下を指さしながら、高らかに歌い上げた。
「神にもっとも近いこのーー禍祈廊。
この地で“美しき核”を腐らせ、誓いを捧げる……!」
「それこそが、我らーー奉身の誓環士に与えられた」
「“正しき献身”ッ!」
その言葉はどこか美しい旋律に乗って響くように聞こえてしまう錯覚があった。
だがーー。
「狂っている……」
素直な感想が口をついた。
「欺瞞だな。
奉身と名乗りながら、捧げるのは“自分”ではなく“他人”とは」
リゼルファ隊士が冷たく言い放つ。
怒りではなく、徹底した侮蔑の声だった。
「それに……その奉身。
神には、まったく届いていないようだ。
数十年おきに王族が消える事件ーーすべてお前の仕業だな?」
アスフォリオの頬が、わずかに痙攣する。
「何ひとつ変わらず。
何ひとつ芽吹かず。
神からの啓示が無ければ、ひとつの結果も出せない。
……“自分では何も生み出せない”奉身など、献身の名を騙るだけの空虚だ」
凍るような視線で、リゼルファ隊士は言い切った。
「そんなことのために、大勢の命を巻き込んだのかよ!?
城下町の人も、村の人も……お前の歪んだ思想のために生きてきたんじゃないッ!」
王子殿下の叫びが、アスフォリオの笑顔に初めて影を落とした。
二人のアスフォリオは同時に肩を震わせ、かすかな痙攣を見せる。
「“狂っている”……?」
「“献身が空虚”……?」
「“そんなこと”……?」
空気が重く変質し、胸の奥がざわりと震えた。
剣を反射的に抜き払う。
「アァッーーハハァーー!
根拠もなく中傷できる方は、自意識だけがやけに大きいッ!」
「“自分はすべて理解している”、そう仰りたい浅ましさ……よ〜〜く分かりますとも!」
嘲笑が重なり、ふいに声色が冷える。
「……本当に、私ひとりが“これ”を仕組んだとお思いで?」
思考が一瞬止まる。
まさか、王女殿下の拉致がアスフォリオ単独の犯行ではない……?
「歪んだ自意識を省みることです、皆さま」
「ーーですが、よろしいッ! もう一度、“学ぶ機会”を差し上げます。
……ええ、とびきり“献身的”に、ね」
その瞬間、空間が音もなく歪み、
祭壇の周囲にアスフォリオたちが次々と“湧き上がった”。
まるで舞台の幕の裏から、役者が無限に飛び出してくるかのように。
【2025/12/31】一話改稿後の整合




