禍祈廊(1/2)
ーー握った拳から血が滲み、落ちる。
手を覆う金属が歪み、骨が軋むほどに力を込めても、それでも足りないとでも言うように肩が震えていた。
彼の放つ狂気に森は沈黙していた。
風も、虫の声も、今は何ひとつ響かない。
やがて、セオは腕の中の兵をそっと地へ横たえた。
土に返すように、兵の乱れた髪を撫でてやり、血の滲む目に一瞬だけ触れる。
その仕草には、戦友としての最後の敬意が宿っていた。
次の瞬間、彼の体がぬらりと揺れる。
立ち上がる動きは、まるで別のものに操られているかのように滑らかで、重い怒気だけが空気を押しのけて広がっていく。
鎧が擦れ、軋む音が耳を刺す。
セオの目が、禍祈廊を真っすぐに射抜いている。
身体からは青い光が燃え立つように揺めき、呼吸すら惜しむように、その全身が「今にも走り出す」瞬間を待っていた。
「ーーま、待ってくれ! セオ!」
慌てて俺はセオの動きを制する。
横目で俺を捕らえ、話が終わるのを待ち構えている。
その異様さに恐怖を覚えながらも、唾を飲み込み声を絞り出す。
「この状況から犯人と王女が禍祈廊にいるのは間違いない」
「……で?」
低く短い声。あまりの迫力に言葉を失いそうになる。
「ーー精鋭の近衛騎士団ですらこの有様なんだ。俺たちだけで何とかできるわけがない! 応援を呼ぶか、騎士団本隊に任せるべきだ!」
俺は間違ったことは言っていない。
つい数日前まで一般人だった俺が、死地に出向いて二度も生き残れるほど、この世界は甘くない。そう痛感しているのだ。
「いやーー」「ッ、何も考えていなーー」
リゼルファとセオが同時に声を上げる。
セオは、はっと我に返るも胸の奥に渦巻く怒りを完全には抑えきれず、震える手をリゼルファに差し出し、無言で発言を譲るのだった。
リゼルファは軽く息を吐き、鋭く言葉を紡いだ。
「……我らだけで解決せねばならぬ理由を、はっきりさせておこう」
「理由は主に四つある。
一つ目。殿下の話を誰が信用・承認するのか、分かるか?」
その声音は冷たいほどに理路整然としていた。
「兵を動かすには、それ相応の証拠が要る。殿下の話は状況証拠に過ぎず、検証も難しい。
そして、出兵の許可を下すのは国王陛下、並びに――今はネモール王子殿下だ」
その名を聞いた瞬間、俺は息を詰めた。
……そうだ。
この時点で、俺の提案は不可能だったのだ。
リゼルファはなおも続ける。
「二つ目。今回の犯人の能力を考えると、少数かつ対抗できる者がいる構成でなければならない。
……敵味方区別が出来なくなる状況下で大勢の兵を動かせば、被害の拡大は防げない。そして現在、犯人の能力を看過してかつ、細やかな連携が取れるのは我々しかいない」
「三つ目。これは前二つの理由とも重なるが、王女殿下が無事でいられるのはこの瞬間しかない。
犯人が禍祈廊に逃げ込んだのは、つい先ほどのはずだ。戻る時間などありはしない」
「最後、四つ目だ。犯人は王女殿下を誘拐するためだけに、完全犯罪を企てている。
だが裏を返せば、“それが露見しなければ”見過ごす可能性が高い――つまり、何もなかったことにすれば……な」
最後に告げられた理由。それは、リサナ王女の救出を諦める代わりに、俺――オルセオン王子の生存を最優先する、という意味だった。
(いくら王命とはいえ、そんな割り切れるものなのか……!?)
そして俺の方へ向き直り、冷ややかに言い放つ。
「……理解と覚悟は出来たな? ーー往くぞ」
全然覚悟なんかしてない……。もう、どうにでもなれ。
俺は重い足を引きずるように上げ、二人の背を追う。
セオは変わらず険しい表情のままだが、この会話の中で少し冷静になったようで、先ほどより呼吸は整っている。
俺は進む先ーー禍祈廊を見据える。
……最近話題になったSF映画を思い出す。
ブラックホールのように宙空にぽっかりと、背丈ほどの大きさの穴が楕円状に開き、その周囲を光の粒子が輪のように漂う。
入れば二度と出てこれない、そんな物々しさがある。
禍祈廊を中心に、正面を除く三方は巨大な石壁で閉ざされており、黙獣の流出は一方向に制限されている。
黙王によって汚染されているとはいえ、神への祈りを捧げる祭壇であるなら、見た目はきっと神殿のようなものーーそう思い込んでいた分、目にした光景に面食らう。
「入った瞬間、黙獣に襲われる可能性もある。我々が先行するので、王子殿下は一定の間を置いて、中に入ってこい……セオ隊士!」
二人は短く頷き合い、ほぼ同時に穴へ飛び込む。
穴の大きさ的に互いの頭をぶつける距離感だったが、音もなく二人は吸い込まれていく。
「いや、具体的に何秒待てとか言ってくれ……あと飛び込んだ先に何があるとかさぁ」
悪態をつきながら、言われた通り待ってみる。
生者が俺しかいないこの場に、生温い風が吹き込む。
まるで獣の息遣いのように俺の頬を撫で、緊張感を逆撫でする。
堪え切れなくなった俺は、大きく息を吸い込み穴に向かって飛び込む。
「飛び込んだ先が水中じゃありませんように!」
俺の頭が穴に触れた瞬間、頭の先から爪先までローラーで引き伸ばされたかのような感覚を刻み込まれる。
引き伸ばされた身体は捻れ、どこが自分の頭だったか分からなくなった頃――急に視界が開け、俺は地面に叩きつけられた。
慌てて立ち上がり、周囲を見渡す。
そこには、雲ひとつない青空が広がっていた。
爽やかな風が草を揺らし、どこまでも続く草原――本当に、何もない。
外は夜のはずだった。だというのに、ここは昼のように明るい。
まるで、どこか別の世界に転移してしまったかのようだ。
少し離れた場所に、二人の姿を見つけて胸を撫で下ろす。
だが、二人の表情には張り詰めた緊張が滲んでいた。
……黙獣の姿が見えないことに、警戒を抱いているようだ。
「……来たか。安全は確保できている。ただし――黙獣の姿がまるでない。
普段なら、遠くからでも駆けつけて襲いかかってくるはずだ。なのに、ここでは気配すら感じない……静かすぎる」
すると、セオが口を開いた。
「……最近続いていた黙獣の流出。突拍子もない話ですが、ここにいた黙獣がすべて外へ出ていったのかもしれません。
この状況を説明できるのはそれしかありません。――そしてそれは、犯人が意図的に仕組んだのだ、と」
「いや、私も同意見だ。禍祈廊〈ここ〉で犯人は何らかの目的を果たそうと黙獣を追い出し、王女殿下を連れ込んだ……そう考えている」
「もしそうであるなら、我々にとっても黙獣がいないのは好都合。罠あれど、踏み越えるしかありません。急いで次の層に向かいましょう」
そうして迷いのない足取りで、ある方向へと進んでいく。
遅れまいと俺も後を追う。
すると、セオが背中越しに話しかけてきた。
「殿下、先ほどは大変申し訳ございませんでした。
一時の怒りに我を忘れ、兵としてあるまじき態度を取ったこと、深く恥じる思いです」
……正直、このまま進んで上手く連携が取れるか不安だった。
だがセオが兵士らしく気持ちを素早く切り替えてくれたこと、そして今まで通りに接してくれたことが、心底うれしかった。
俺にとってこの二人は、この世界で唯一の味方なのだから。
「……気にしてないよ。どちらかと言うと、これまでのことをリゼルファに謝ってもらいたいくらいだし」
「ム……?」
リゼルファが、心当たりのなさそうな困惑した表情を浮かべる。
その様子に、場の空気がほんのわずか柔らかくなった気がした。
軽口なんて、昔からの悪い癖だと思っていた。
この世界に来ても相変わらずだったが――どうやら、悪いことばかりでもないらしい。
少し、そう思えた。
「殿下。本来であれば突入前に共有すべきだったのですがーー」
セオが申し訳なさそうな素振りを見せて口を開いた。
「いや、ほんとに。次は冷静に」
俺はすかさず釘を刺した。
「……申し訳ございません。ーー禍祈廊では時間の流れが緩やかになっており、層を移るほどより顕著になっていきます。
そして、もうひとつ厄介なのが“汚染”です。現在の層では大したことありませんが、深部は黙王の影響が濃く、人の身では長く耐えられません」
言われてみれば、何となく不快感があるような?
これがキツくなってくるのか。
「そうなると、犯人が最深部に到達済みだと、それなりに時間は経ってるし、王女の命も危ないということか……。あと何層あるの?」
「残り四層です。ーーこれは推測が混じった話になるのですが、深部では上位五群の黙獣が待ち構えていると思われます」
「……え、待ち構えてるって、ボス戦があるの?」
思わず口をついて出た言葉に、リゼルファが怪訝な顔を向ける。
通じていないのを察したが、俺としてはここははっきりさせておきたいところだ。
町で戦った黙獣〈バルグロス〉より上位の存在と、犯人の前に戦うなんて――無理が過ぎる。
「禍祈廊では、いなくなった黙獣と同種の個体が、不定期に自然発生します。
制圧作戦でも、この禍祈廊に生息する同種が確認されましたが……上位の黙獣だけは、いまだ報告がありません」
「見逃した可能性というのは……」
「ないな。黙獣の脅威度は〈上・中・下〉に区分され、それぞれ昇順に一から五までの階位で評価される。
今回の個体は〈上位五群〉だ――都市一つを滅ぼす危険域にある。そんなものを見逃すはずがない」
リゼルファが、当然だと言わんばかりに断じた。
「……まあ、不安になる気持ちは分かる。だが確認された黙獣ということは、既に対処法も確立されている、ということだ」
(都市一つを滅ぼすレベルの黙獣と、本気で戦って勝つつもりなのか、この人たち……)
「今回の黙獣の外見や祝福、そして対処法については、次の層で移動しながら説明します。――遅れずついて来てください!」
気づけば、進む先に禍祈廊へ入った時と同じような穴が浮かんでいた。
会話の途中だというのに、セオとリゼルファはためらいもなくその中へ吸い込まれていく。
「か、帰りてえ……」
そう呟きながらも、俺は遅れまいとその穴へ飛び込んだ。
次の層に進むと、そこは左右対称の薄暗い回廊――荘厳な雰囲気を湛え、まるで王城の廊下のようだった。
一歩進むたびに、足音が石壁に反響し、まるで侵入者をあぶり出そうとしているかのようだ。
壁に並ぶ松明の炎が揺れ、俺たち以外の影を壁に浮かび上がらせる。
過去にここを侵攻した騎士団の残滓だろうか。
剣を振り抜き、苛烈な戦いの最中にあるかのような姿が、光の揺らめきの中で見え隠れする――。
幾度も廊下を曲がり、方向感覚を失いかけた頃、ようやく次の“穴”にたどり着いた。
続く三層は、古代都市が崩れ落ち、互いに折り重なった“騙し絵”のような空間だった。
階段は上下左右へと伸び、常識では辿り着けないような場所へと繋がっている。
驚くべきことに、垂直に立つ階段ですら、そのまま登ることができた。
ふと、もしこのまま上へ跳ねたらどうなるのだろう――そんな考えがよぎり、空を見上げる。
灰色に覆われた天蓋の中では、光の霧がゆらゆらと漂い、その奥を暗黒の雲が蠢いていた。
まるで巨大な生物が、世界の外側で息づいているかのようだった。
(やっぱ禍祈廊ってヤバいわ……黙王の力ってどんだけだよ)
思考を切り替え、二人の背を追う。
すると、道の脇にキラキラと宙に浮かぶ“裂け目”がいくつも漂っていた。
「……なんだ、これ?」
思わず声が漏れる。
機敏に振り返った二人は、俺の視線の先を確かめて――ほんの一瞬、肩の力を抜いた。
「ああ、それは近年になって禍祈廊内で観測されるようになった〈時空の裂け目〉ですね。
異界の様子が見えるだけで、干渉できません。無視して結構です」
セオがまるで街角の石ころでも説明するかのように言い捨て、背を向け歩き出す。
だが、俺の目にはとても“無視できないもの”が映っていた。
前の世界で見慣れていた景色ーー空には飛行機、街中を走る車、自転車、そして人……アジア人も見える。
慌てて他の裂け目を見る。
しかし、他の裂け目は全くの別世界だった。
水中を気泡のように漂う都市、異形の生物が洞窟を跋扈する様子、そして――黒い空を裂きながら、山ほどもある白鯨が宙を泳いでいた。
その鯨が叫ぶかのように口を開き、無数の光を放つと、見ていた裂け目が軋み、粉々に割れて消えてしまった。
その光景を見て、俺は最初に見た裂け目へと駆け出す。
ーー早く、割れる前に飛び込まなければ!
元の世界に帰れるかもしれない――!
一縷の望みをかけて、足を止めずにその光へ身を投じた。
……分かっていた。
分かっていたはずなのに、虚無感が押し寄せてくる。
時空の裂け目は、身体が触れた瞬間、飴細工のように繊細な音を立てて――虚しく砕け散った。
軽い絶望を抱えたまま、俺は空を仰ぐ。
異様な空の色を見つめながら現実を飲み込み、視線を地へ戻す。
腕を組み、壁にもたれて俺の様子を眺めていたリゼルファと目が合った。
「……何事も試すことは大切だよな。――いけるか?」
子を諭すような、穏やかで優しい声色だった。
その響きに、思わず涙が込み上げそうになる。
「あぁ、大丈夫だ。」
遠くで待ってくれていたセオに足早に駆け寄る。
次は、いよいよ四層目だ。




