盤上の王子
「説明のために縄を解きますが、私が良いと言うまで動かないよう"言うことを聞いて"くださいね」
その言葉で再度、俺の四肢は固まる。それでも、爪を剥がされた小指だけは脈打っていた。
もう頭がおかしくなりそうだった。
吐き気が込み上げてくる。
あの誓環士を前に、一人で向き合う。そんな状況、命がいくつあっても足りない。
エウラリアは俺の苦悶なんて見えていないみたいな顔で、縄をナイフで切り、左腕の包帯の端を容赦なく摘まんだ。
「もう勘弁してくれよ……」
「嫌です」
即答だった。
そして、戦場で手当てされた時から巻かれていた左腕の包帯が解けていく。
ただの応急処置じゃない気はしていた。
丁寧すぎたし、俺の腕に触っていた時間も不自然に長かった。
警戒したのに、自分の詰めの甘さに涙が出そうになる。
「これが、私から貴方へ授けた“手柄になる情報”ですわ」
露わになった前腕へ、布切れがぴたりと貼り付いていた。
そこには、巻かれた時には見えなかった、黒い線と小さな記号がびっしりと埋め尽くされている。
地図だ。
「貴方の腕に、敵国側の補給路を仕込みました」
敵国。
補給路。
頭の中で二つの単語が遅れて噛み合う。
「……は?」
「正確には、補給路とその拠点の位置情報ですけどね」
「どうしてそんなものが俺の腕にある」
「優しくして差し上げる。そう申し上げたでしょう?」
エウラリアは、俺が理解し切るのを待つつもりもなく、口を開く。
「勝者である貴方の手札には正しく加えて差し上げませんと。知らなければ、駒は意図した形では動けませんから」
知らなければ、動けない。
その言葉で理解が一気に繋がった。
そんなものを手元に持ち、しかも今この局面で俺へ渡せる時点で、偶然なわけがない。
補給路を食い破るように押してきた今の戦況まで重ねれば、答えは一つだった。
「お前っ、お前がエリソン国の補給路と拠点を漏らしたのか!?」
「ええそうです、頭が冴えてきましたね! もっとも、ポロステニア王国への情報は小出しに、虚偽も含めていますがね」
ぞっとするほど嬉しそうに、エウラリアはそう言った。
「クソが! お前のせいで人が死んでるんだぞ! 命を何だと思ってる!」
「そう! 急がねば、日常が崩れてしまいます! 人どころか国までも! ――と、いうわけで殿下。ここからが本番です」
わざとらしく切られた言葉の端から狂気が滲み出す。
「ここ敵地ど真ん中から見事生還してみせてください。その地図を届ければ、貴方は英雄に、戦況はひっくり返るでしょう。
失敗すれば、貴方は死に、エリソン国も滅ぶでしょう。私の見立てでは持ってあと三日――」
「勝手に話を進めるな! 何の権限があって他人の人生を弄ぶ!?」
「そんなもの、私が『翻弄』を冠する覚悟を決めているからに決まっているでしょう?」
当然のように告げられた意思には、まるで温度を感じない冷たさがあった。
端から会話が成り立つことを期待するのが間違っていた。
「……私は今の貴方の覚悟も知りたい。ですので、帰り着くまでに"二人"殺してきてください。
できれば、より多くを救う力を貴方に。
できなければ、とらわれている貴方のお仲間を殺します」
罵倒が喉までせり上がる。
だが、その最後の一言だけが別の意味で引っかかった。
とらわれている……?
エリック師も、セオも別れた後で捕えるなんて不可能だ。
まさか。
「リゼルファ……!」
「そうですよね。黙精霊の方が心配ですよね。
でしたら、早く帰らねばなりませんね」
そこまで言うと、彼女は背を向けて歩き出す。
白い礼装が夜気へ溶け、輪郭が闇と混ざり始めた。
「だからこそ、真っ直ぐ帰ってきてくださいね。
次に会う時、貴方がまだ“王子”でいられることを祈っています」
しばらく、身体だけがその場に縫い留められた。
やがてすっと硬直が解ける。
それに合わせるみたいに、胸元の黙獣も動き出し、左手小指へと覆い被さった。
「お前……俺の血が好きなのね」
ため息を吐きつつ乱暴に椅子から立ち上がる。
もう居ないと分かってはいるものの、急ぎエウラリアが消えていった細い道の先に進む。
道を抜けた先は、低い岩肌の丘だった。
そこから見えた夜景に、思わず足が止まる。
遠くに赤い灯がいくつも瞬いていた。落ち着きのない、燃え広がる前の火のように蠢く。さらにその上では、黒い煙が幾筋も空へ伸びて、星明かりを食うように棚引いている。
遅れて、腹の底に低い音が微かに響いた。
それだけで戦場はまだ眠っていないのだと知る。
「……どうしろってんだよ」
思わず口に出た。
見たままの敵地ど真ん中。しかも腕には敵国の致命情報。
生きて帰るだけで敵国が死ぬ。
生きて帰るだけですら、祝福なしなら、難易度設定は狂ってる。
縋る思いで、周囲の敵兵を探るべく《帰標》を広げる。
うまく動作した、と安堵した次の瞬間驚愕する。
「俺から安全な導線が出てる……!?」
線は、森を抜けて山を越えて、見たことある地形……エリソン国へと伸びていた。
俺自身の帰る方角や安全な導線は、霧散するばかりだったのにどうして……。
その時、小指を舐めていた黙獣がするりと地に落ち――《帰標》もそのまま追従する。
「いや、お前かよ。黙獣なのに何で動線が出るんだ?」
持ち上げて、改めてよく見る。
ぬめる質感はそのままに、形は前より少し大きい。
ただ膨らんだだけじゃない。中心の脳みそみたいな部分が、前よりも明らかに育っていた。内側では血管のような筋が走り、左右には小さな目が二つ。じっとこちらを見つめ返していた。
気味が悪い。
気味が悪いのに、今はこいつが何よりも頼りだ。
「……黙獣じゃなくなったか?」
疑問は尽きないが後回しだ。
それよりも考えなければ。アイツに従って、誰かを殺すのか? 帰って敵国を滅ぼすのか?
虚言の可能性は……低いだろうな。左手小指が主張する。
逡巡したまま立ち尽くす。
エリソン国王夫婦を苦しめる相手に、容赦が必要なのかと問われれば答えられない。
でも、国に属している大半には罪はないはずだ。
「……進みながら考えるしかない」
俺は、左腕の地図と、黙獣が示す方角と、遠くで燃え続ける戦場の灯を見比べる。
残された時間はあと三日。
なんとか全部を捨てずに帰る方法を見つけたい。
そして俺は、敵地へ向かって一歩を踏み出した。
戻れなくなると分かっていても、もう立ち止まる方が怖かった。




