戦場の聖女(2/3)
夜明け前に補給拠点を発ったのに、昼を過ぎても次の目的地はまだ遠かった。
本来なら、ここまで手間取る道ではない。だが今回は前線が近すぎた。
街道は進むほどに戦の痕を濃くしていく。
土の道はあちこちが抉れ、泥濘み、深い轍と何かを引きずった血の跡が幾重にも刻まれていた。道脇の林ももう林ではなかった。焼け、裂け、へし折られた幹が無造作に倒れ、踏み荒らされた草地の土からは、人の腕が半ば露出していた。
先頭の斥候が止まれば全体が止まり、左右の林に目を走らせては気配の出所を探る。物音ひとつ、鳥の飛び立つ向きひとつにも気を配っているのが分かった。
《帰標》を広く散らせば、黙獣の群れや何かの一団が通る反応が返ってくる。
エリック師の言っていた会敵は脅しでもない。
そのことだけが、嫌でも腹に落ちた。
だから、補給拠点の柵と見張り台が見えた時には、安心するより先に膝から力が抜けた。
無事に着いたというより、まだ死んでない、という感覚の方が近い。
中へ入っても、空気は緩まなかった。
人は多いのに、聞こえるのは要点だけを切り出す声ばかりだ。荷の確認、門の見張り、負傷者の移送。どれも短い。誰も余計なことを話さない。
そして、その緊張の理由は、嫌でもすぐ分かった。
――ドン、と。
腹の底を拳で打たれたみたいな鈍い音が、遠くから響く。遅れて地面がわずかに震え、積まれた空箱がかたかたと鳴る。
反射的に音のした方を見る。
見通しの悪い森の向こう。
低い丘を越えたあたりから、太い黒煙が立ち昇った。続いて、いくつもの黒い柱が空を埋めつくす。
近すぎる。
その事実だけで、空気が急に薄く感じた。
「殿下、大丈夫ですか」
唖然と立ち尽くしていた俺に、横からセオが声をかける。
「あ、ああ……うん、ちょっと疲れて」
突然の声かけに、取り繕うのを忘れた感想が出てしまった。
「ここは我々が対応しますので、その辺りで腰掛けてお休みください。何かあればお呼びいただければ」
「ありがとう。落ち着いたらすぐ手伝いに戻るから……」
「はは、これも修行だ。誓神力を鍛えるのに、これほど都合のいい場所はない。そう思えば気が楽になるさ」
(それは感覚が麻痺してるだけでは……)
エリック師の軽口を訝しみつつ、二人の背中を見送る。
ただ、セオは早々に他の兵に絡まれてしまった。
見覚えがある。闘技場で捕らわれていた人だ。そうか、セオがスカウトして兵士になったのか。
会話は聞こえないが、苛立っているのは見て取れる。
前線近くへ回された不満でもぶつけているのだろう。
「ちょっと! 何をぼさっとしているんですか!」
突然、迫力のない怒った声を浴びせられる。
顔を向けると、そこには同じく捕らわれていた――確か、ヒョロガリって呼ばれてた人が俺を睨みつけていた。
「えっ?」
「え、じゃありませんよ! その紋章、オーレシア国の兵士でしょう。しかも、僕より若いんですから、きっと下っ端ですよね!? 仕事が遅れる分、こんな危険な場所で過ごす時間が長くなるって解らないんですか!?」
言い返す隙もなく腕を引かれる。
動きやすい服に着替えてはいるが、王族だと分かる程度には派手なはずだ。なのに、この人は気づいていないらしい。
「さあ、早く動いて! 先ほど物資が届いたでしょう。遠い置き場へ運ぶ荷から先に片づけてください。手前に積むと、後の荷が通れなくなるんです!」
問答無用で小箱を腕へ積まれていく。
案外、王子扱いされずに動いた方が気は紛れるかもしれない。
そう思った、次の瞬間だった。
甲高い警鐘が、短く、切羽詰まった調子で連打される。
「東門から離れろ!! 敵兵誓術を確認!」
なっ、東ってここじゃ――。
理解が追いつくよりも早く、門を巨大な土槍が突き破った。
厚い板材も、補強の縄も、まるで薄紙みたいに裂きながら、茶色い巨塊が拠点の内側へと食い込んでくる。
「塞き止めろ、《グランダス》!!」
エリック師の怒声と同時に、槍の進行方向へ厚い土壁が競り上がる。
真正面からぶつかった二つの塊が、耳障りな破砕音を立てて砕け散った。だが、止まりきらない。衝撃に引っ張られ、門脇の高い柵がまとめて割れ、柵を補強する縄は風を裂くように千切れる。
「セオ! オル坊を守れ! あと、そっちは任せた!」
ぐらり、と視界いっぱいに柵が傾ぐ。
高い。太い。近い。
「うわああああああああああ」
離れようと足を踏み出した隣で、痩せた男が悲鳴を上げながら足をもつらせて転ぶ。
彼を掴んで離脱は? 間に合わない。
柵を受け止める? 物理的に無理。
見捨てる? それは――。
何も決まらないまま身体だけが硬直した。
「動かないで!」
セオが、落ちてくる柵のあいだへ滑り込む。
盾を斜めに立て、受け流す。城下で見たあの巨大な盾が、倒れてくる柵を受け止め、横へ逸らす。
激突音が何度も重なった。
盾の内側で硬いものが噛み砕かれるような音が連続し、それでも柵は逸らされ、横倒しに地を打った。
悲鳴と土煙で、皆の意識が門へ引きずられた。
その時だった。
門から離れた側柵の隙間から、数人の敵兵が低く身を屈めて入り込んできていた。エリック師だけが気づいて、駆けていた。
「お前らの剣少し借りるぞ!」
周囲の兵たちの鞘から、数本の剣がひとりでに抜けた。
宙へ浮いた刃が一瞬だけ静止し、次の瞬間、矢より速く敵へ走る。
射られた剣は肩口を穿ち、腕の形ごと持っていった。
腿を、首を弾き飛ばす。
何が地面に転がったのか、理解したくないのに目だけが先に見てしまった。
けれど一人だけ、低く身を沈めてそれを躱した。
土煙を裂いて、一直線にエリック師へ踏み込む。
「度胸は認めるが、戦場では臆病じゃないとな!」
エリック師が敵兵遥か手前で剣を振るう。
何が起きたのか理解が追いつかなかった。
敵兵の鎧を留めていた革紐が音もなく解け、続いて腰の鞘金具が地へ跳ねる。
踏み込んでいた敵兵の身体が、胸から下でずるりと噛み合わなくなる。そこでようやく、血が噴いた。
遅れて、断たれた身体の上下が別々の向きへ崩れ落ちた。
「……終わったみたいですね。こちらも追撃がなくて良かった」
セオが胸を撫で下ろしながら姿勢を正す。
方や俺は一連の騒動に頭が追いつかず、へたり込んでしまった。
「おーい、セオ坊。そっちはどうだ?」
「"軍滅卿"を見て退いたようです。しばらくは襲撃されないでしょう」
「はは、オレの二つ名もまだ戦場に残ってたな……ってオル坊、腕怪我したのか」
言われて初めて気づく。
倒れてきた柵の割れた縁か、飛び散った破片か。左前腕の外側がざっくり裂け、どろりと血が垂れていた。
「そうみたいですね。それよりも荷車が――」
視線の先では、命からがら運んできた荷車のうち二台が、倒れた柵の下敷きになっていた。車輪は歪み、荷台は割れている。
「殿下、申し訳ございません……私がついていながら再び不甲斐ない結果に……」
その言葉で痩せた男は、俺が王子だと気づいたのだろう、青ざめていた。彼が率先して動いたように、皆で素早く荷下ろししていれば、あるいは。
「荷車は潰れたが、中身までは全部やられてないだろ。三台は無事なんだし、人的被害も――」
そこでエリック師の声が止まる。
視線の先には、最初の土槍で押し倒された兵たちがいた。
うめき声がいくつも重なり、地面には鮮血が飛び散っている。
「……足りるかどうか、だな」
「それにしても拠点の場所が割れてるなんて――」
「戦争終結も早いかもな」
一拍置いて、エリック師が吐き捨てるように続けた。
「敗戦で、な」
【2026/03/18】ヒョロガリのセリフと描写修正
【2026/03/19】ヒョロガリのセリフを修正
【2026/03/28】漢字間違いを修正




