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現れる敵

 オルセオン視点になります。


 息を殺し、VIP席の陰で身を縮める。

 視界の先、手すり越しに伸びた戦いの影が揺れ動く。


 外気を遮るものもなく、石造りのはずなのに、ここはとても暖かくて心地いい。


 けれど、身体が覚えているのは、さっきまで登ってきた廃棄孔の湿り気だ。

 脂と酒と、甘ったるい煙。貴族の残り物が腐って混ざった臭さが、服に染みついて離れない。



 臭いと共に、リゼルファの作戦を思い出す。



『貴賓席にゴミは残せない。廃棄孔(はいきこう)が必ずある。そこから上り出て、ドルバン王子の付き人だけを見ていろ。

 あいつが帳簿を管理しているはずだ。あの手合いは手札を最後まで残すだろう。こちらの応援を呼び、現場を丸ごと押さえる。殿下は逃げるのだけ阻止しろ』



 あいつが帳簿を燃やさず持ち逃げする保証も、応援が来る保証もない。

 けれど、その言葉を信じて俺は今、豪華さの中に紛れている。



 金の縁取りの寝椅子。絹の垂れ幕。酒器の並んだ小卓。

 薄暗さで特別感を演出しているのも相まって、ドルバン王子たちを探すのは苦労したが、同時に身を隠すには好都合だった。



 ドルバン王子は偉そうな見た目の奴を立たせたまま会話を楽しんでいて、付き人は無表情でその後ろに控えている。



 時折り歓声に混ざって聞こえる悲鳴に、上手く事が進んでいるのかと気を揉む。

 歓声が一段跳ねたその直後、ぞわり、と皮膚の上を粘ついた冷たさが這った。禍祈廊の中層で感じた、あの不快感。芯のある頭痛と、呼吸のたび肺に鉛を注がれるような錯覚。


 この辛さは味わったことがない者が大半だろう。目に見える範囲の貴族たちは身震いしている。



 そして間を置いて、王女を救ったあの日に見た、明滅する光の柱が闘技場中央に向かって降り注いだ。


(応援……呼んだんだよな!? 禍祈廊に似た汚染も作戦のうちなのか?)



 俺の疑問を肯定するかのように、付き人はドルバン王子から早足で離れる。

 付き人は棚に手を伸ばし、扉を開き、さらに内側の金庫へ指をかけた。

 ダイヤルが回る。短い、乾いた音が規則正しく続く。


「おいっ! 何やってる!?」


 付き人に浴びせられた、ドルバン王子の怒声で我に帰る。

 慌てて《帰標(きひょう)》を発動すると、付き人の導線は屋上へと伸びていた。



(ヤバい、持ってかれる! 止め……るにはどうしたら良いんだ?)



 黙獣は、見た目こそ動物に近しいが、悪いものだし意思疎通もできないから暴力を振るえた。

 でも人間はそうじゃない。



 《環式(かんしき)》で、どれくらいの力を使えば死なせずに済むのかも分からない。

 人なんて殴ったことないから尚更だ。



 自分の想像力の無さを後悔しながら、走り出した付き人の後ろを追いかける。

 さらにその後ろをドルバン王子が続く音が聞こえる。



「お、お前! ッヒュー……お前が白誓院のォ! 回し者だってのは分かった上で――ンだからな! 逃げられるトオ!」


 威勢の良い言葉は階段に落ちて、転がっていく。


 あの体型とこの汚染だ。よく持った方だと褒めるべきだ。

 ドルバン王子は、長い階段の中腹でへたり込んで脱落した。



 構わず階段を駆け上がり、俺は付き人の背を追って屋上へ飛び出す。


 冷たい夜風が顔を殴る。

 吹き込んだ風は、闘技場の土と酒の匂いを屋上にまで運び込み、いくつも並んだ飛行船の帆布(はんぷ)の影を揺らす。



 そこでようやく付き人の導線が飛行船に伸びていることに気づく。


(最初からそうすりゃ良かった!)


 《環式(かんしき)》を開く。

 床を蹴り、柵を踏み、屋上の縁から斜め前縁へと身を投げる。

 足元の向こうに、闘技場の舞台が一瞬だけ映る。

 風が腹を持ち上げ、落下の恐怖と共に胃が浮かぶ。



 危険を犯した甲斐があった。狙い通り、付き人より先に飛行船へとたどり着き、翼状の梁へと足をかけた。



 そして迷わず、張られた帆布を剣で切り裂く。

 船体が傾き、わずかにきしむ。



 ここまでやってようやく付き人が顔を歪めた。無表情が割れ、怒りが出る。



「さっきから貴方は何なんですか!? こんな事しても何の利もないでしょう!」


(あ、そうか。認識阻害のスカーフで、俺が誰か分かってないのか)


 だとしても名乗る必要はない。

 あとは作戦通り、本職に任せて俺は足止めに徹しよう――そう腹を括った、その瞬間だった。



 闘技場屋上の縁。すぐ近くへと雷鳴が落ちた。

 音が内臓を揺らし、空気が爆ぜる。飛行船の金具が細く鳴る。


 眩光(げんこう)が目の奥を焼き、遅れて渦巻く煙が視界を埋める。

 俺たちの足は完全に止まっていた。


 煙が割れて、闇が戻る。

 そこに立っていたのは――羊のような角と、毛に覆われた柔らかな輪郭の女性だった。

 だが手にした槍がその柔らかさを否定するように、先が星明かりを冷たく弾いて光る。



 異質。

 その一言に尽きる。



 そこにいるだけで、喉が乾き、背中の汗が一斉に冷えるのを感じる。



 付き人は顔を青くし、唇を小さく震える。

 俺と同じ感覚を味わっていた。



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