それぞれが刻む今
天幕を離れ、どこへ向かえばいいのかも分からないまま、駐屯地内をあてもなく歩く。
気づけば、足だけが断崖の上をさまよっていた。
断崖を吹き上がる冷たい風が、まだ冷めきらない頭の熱をさらっていく。
遠くの見張り台の灯りだけが揺らめき、人の気配を失った駐屯地を、かろうじて「生きている場所」に見せかけていた。
リゼルファの姿を探していたはずなのに、いつの間にか足は、先ほど通った一角で止まっていた。
整然と並べられた外套や鎧、名札のついた生活用品たち。
丁寧に畳まれているのに、持ち主の気配だけがどこにもない遺品の列が、暗がりの中で白々しく目に刺さる。
ここには「帰る場所」だけが揃っている――この世界の不条理は形を変えて何度でも突き付けてくる。
そう思ったとき、すぐ脇から聞き慣れた声がした。
「……殿下。こんなところで、どうされたのですか?」
振り向くと、灯りの落ちた詰所の陰で、セオが鎧紐を締め直していた。
応援を待つ合間、ここで装備を整えていたのだろう。
最初からすぐそばにいたのに、まるで気づかなかった。
「あ、あぁ……ちょっとリゼルファを探していて。
リサナ王女の介抱が必要になったんだ」
「なるほど……禍祈廊の汚染は、鍛えた兵でも容易に耐えられるものではありませんからね。
――あちらの見張り台の灯りの下に、リゼルファ隊士がおります」
セオは遠くの灯りを指差した。
「殿下は天幕にはお戻りにならないご様子でしたので――お手数ですが、呼んできていただけますか」
「あぁ、元々そのつもりだったから良いよ。ーーあのさ、セオ。少しだけ、話したいというか」
「はい、殿下」
だが、肝心の言葉は続かなかった。
どこから話せばいいのか分からず、喉の奥で言葉がからまった。
その沈黙を、セオは別の意味に受け取ったらしい。
「……第一遊撃隊のことですね」
「え?」
「皆が帰って来られなかったことを、殿下が気に病む必要はありません」
セオは静かに続ける。
「皆、兵士として自分の最期は覚悟しています。
そして、その無念を晴らす機会を残してくれた、あの“誓環士”にすら感謝するでしょう」
セオは気遣うように、静かに微笑んだ。
「私は、“元”第一遊撃隊の一人ですからね……殿下が転生病を患っておられなければ、私も皆と共に、誓い半ばで倒れていたでしょう。
……貴方の存在が私を生かしてくれたのです」
セオが今ここで息をしているのは、結局"オルセオン王子"の采配のおかげだ。
俺という存在は、その結果にぶら下がっているに過ぎない。
それでも――セオのその言葉は、ずっと欲しかった何かの形に、限りなく近い気がした。
「……そっか。ありがとう」
ようやくそれだけを絞り出す。
本当は、自分がどこの誰だったのかを話したかった。
“王子”ではなく、自分自身を知ってほしかった。
でも今は、その溝を無理に埋めなくてもいいのかもしれない。
「じゃあ、リゼルファ呼んでくるよ。王女をこれ以上一人にしておくわけにもいかないし」
「ええ、お願いいたします。殿下」
軽く頭を下げるセオに背を向け、俺は見張り台の灯りへと歩き出した。
ーー
断崖の縁近くに据えられた見張り台は、簡素な木の櫓だった。
柱に吊された角灯が風にあおられてゆらゆらと揺れ、その淡い光が、周囲の闇をわずかに押し返している。
リゼルファは、その灯りの淵に立っていた。
背筋をまっすぐ伸ばし、外套の裾を夜風になびかせながら、じっと東の果てを見つめている。
こちらに背を向けたまま、微動だにしない。
まるで闇の向こうにいる誰かを睨んでいるかのようだ。
「リゼルファ?」
名前を呼んで、ようやく彼女の肩が小さく揺れる。
俺の接近には、本当に気づいていなかったらしい。
「……どうした?」
振り返った声色は、いつものリゼルファのものだった。
「リサナ王女の介抱が必要になったんだけど……」
「承知した。すぐに向かう」
「あ、俺、天幕には戻れなくて。でも寒いし……どこにいれば」
俺が言い終わるより先に、リゼルファが西を指差す。
その先には、灯を掲げた一団の影が、こちらへ近づいてきていた。
「もう少し待てば、じきに応援が着く。それまで我慢しろ」
それだけを言い残し、踵を返して闇の中へ消えていった。
「ブレないなぁ……」
相変わらずすぎて、思わず苦笑する。
けれど、そういうところが妙に頼もしくもあった。
目に見えて近づいてくる灯りを眺めていると、不思議と待ち時間は苦にならないもので、ほどなくして応援部隊が到着した。
王女は侍女数名に支えられながら馬車へと乗り込み、そのまま先に出発していった。
続いて、こちらも状況を簡潔に報告し、我々も馬車で王都へ戻ることになったーーのだが。
「私は村の様子を見てきます。
明日の昼には国王陛下との謁見があるはずですので、それまでには必ず戻ります」
禍祈廊を出た時点で、騎士団・近衛騎士団の姿は"元に戻っていた"らしく、村の被害状況も改めて確認できるだろう、とのことだった。
そして、セオは顔を近づけ、小声で付け加える。
「当日は、おそらく会話を交わす余裕はないと思いますので、先に一つだけ。
クレイソス国王陛下の御前では、感情を表に出されませんよう……くれぐれもご注意ください」
そう言い終えると、馬車の扉が閉められる。
セオに見送られながら、俺たちは第一遊撃隊の駐屯地を後にした。
ーー
馬車に乗るのはこれが初めてだったが、創作物でよく言われるようなお尻の痛みは、思っていたほど感じなかった。
王族用だからなのか、この世界の馬車の技術水準が違うのか――そんなことをぼんやり考えていると、ふと物憂げに窓の外を眺めるリゼルファの横顔が目に入る。
先ほど声をかけるまで接近に気づかなかったこと。
それに、アスフォリオに侮辱されたときの、あの反応。
らしくない様子が重なって、妙に胸に引っかかっていた。
少しでも、彼女のことを知る手がかりになればと思い、俺は≪帰標≫を彼女に向けて、そっと発動する。
――だが、示された方角は、俺のときと同じように四方へとばらけていた。
リゼルファにも、「帰るべき場所」は定まっていないのだと突きつけられた気がした。
胸のどこかがきゅっと掴まれる。
さっきまで黙って東の果てを睨んでいた横顔を思い出し、気づけば口が動いていた。
「リゼルファ。聞いちゃいけなかったら、すぐやめるから言ってほしいんだけど……黙精霊って、黙王とどう関係があるんだ?
アスフォリオがやたら黙王に絡めて侮辱してたのが、正直意味が分からなくて……」
問いかけに、リゼルファはわずかに眉を動かしただけだった。
しばしの沈黙のあと、淡々とした声が落ちてくる。
「私も免許は持っているから史書を語ることは可能だが……主観も混ざるがそれでも良いか?」
「ああ、リゼルファの言葉で教えてほしい」
短く息を吐く気配がした。諦めとも、覚悟ともつかない溜息だ。
「ーーでは、簡略に」
リゼルファは視線を窓の外に向けたまま、いつもの抑揚の少ない口調で語り始める。
「誓精霊というのは、『形取られし者』。
つまり、最初に地に下ろされた、神の誓いにもっとも近い“王”だ」
淡い角灯の光が、彼女の横顔の輪郭だけを浮かび上がらせる。
「そこまでは吟士の語っていた通りだ。
黙王との関わりは、その先にある」
ほんの少しだけ、声が低くなった。
「誓精霊の誕生から千年後、黙王の息が世界を蝕み始めたとき、その息に触れた誓精霊のいくつかが“歪んだ”。
神の誓いから外れ、黙王の沈黙に同調し始めた。
そして、それは黙精霊と呼ばれるようになった」
「……“裏切り者”みたいな扱い、ってことか」
「そうだ。誓環経典では、黙精霊は『沈黙の毒』と記されている。
黙王の力を今なお地上に広げる“毒”だとな」
リゼルファは自分の耳朶を指先で軽く叩く。
「禍祈廊での問いに今答えよう。
黙誓術ーーあれは黙王由来の誓術だ。
黙徒も同じく使える。だから、黙精霊は黙王と“同じ側”にいると見なされている」
「でも、リゼルファたちは黙王の味方ってわけじゃないんだろ?」
「……さあな。少なくとも、そうは思われていないのが実情だ」
「黙王の脅威は、それほどまでに人の心を折った。
黙王の影に怯えた人々は、“芽を摘む”という名目で黙精霊を狩り始めた。
先頭に立ったのは、他ならぬ誓精霊だ」
言葉に熱がこもるのが伝わる。
「迫害、監禁、実験、処分。
史書に載っているのは、その一部にすぎない。
この国は相当に穏当な方だ。“保護”という建前のもとで、檻を用意してくれるんだからな。
……だから私は、ここで“飼われている”」
リゼルファは小さく息を吐き、こめかみに指先をあてがう。
「ーー最後の一言については余計だったな。黙王と黙精霊の関係については以上だ」
そこでようやく、リゼルファは俺の方を見た。
灯りが金色の細い線を描いて、瞳の中で揺れている。
飼われているーーその言葉だけが、やけにくっきりと胸に刺さった。
そんな悲しい生き方を、否定したかったのかもしれない。
それが慰めにもならないことくらい、分かっていても、口を開かずにはいられなかった。
「……でも、過去に何があったとしても、今のリゼルファはちゃんと信頼されてるから、"オルセオン王子"が護衛に抜擢してるわけだし。
その……過去のことは、少しずつでもーー」
リゼルファの目が、真正面から俺を射抜き、続く言葉を凍らせる。
さっきまでの淡々とした光が消え、底の見えない暗さがその奥に沈んでいた。
「ーー"過去"か」
膝の上に置かれたリゼルファの指が、きつく握り込まれる。
その指の付け根から、薄く黒い燼がじわりと滲んだ。
光ではなく影のような“炎”が指の上を這い、小さな華を咲かせ、空気を微かに焦がす。
≪燼華≫が、呼んでもいないのに顔を覗かせたのだと、直感で分かった。
「ーー前も言ったが黙精霊は長命種でな、普通にしていれば八百年は生きる。
そして、黙王封印後からまだ千五百年"しか"経っていない……分かるか?
迫害は、三世≪スリュアン≫に渡って起こっていることで、決して"過去"なんかじゃない」
「ごめん、悪かった。この話はやめよう」
「謝る必要はない。"ただの"史実の勉強なのだからな」
リゼルファは、感情を一つも滲ませぬまま、視線だけを窓の外へ滑らせた。
それきり、会話は途切れた。
指から滲んでいた黒い燼は、いつの間にか消えていた。
代わりに、車内にはいつもの柑橘の香りだけが薄く残っている。
俺は、リゼルファのことをもっと知りたい――。
ただ、それだけのつもりでいた。
けれど今思えば、自分自身のことを彼女に重ねて見ていただけなのかもしれない。
黙精霊としての彼女の重さを、何も知らないくせに。
馬車の揺れと車輪の音だけが続き、しばらくのあいだ、俺たちはそれぞれの沈黙に閉じこもった。




