──白い靄──
──白い靄──
白い靄が視界を覆い尽くし、先ほどまで感じていた温泉のぬくもりや賑わいが、少しずつ、しかし確かに遠のいていった。まるで夢から覚めるように、音も匂いも、霧の向こうに溶けていく。
足元には、湯気のような柔らかな光が漂い、まるで宙を歩いているかのような錯覚すら覚える。空気はしっとりと温かく、ほのかに硫黄の香りを残していたが、それすらも風にさらわれるように消えていった。
どれほどの時間が過ぎたのか、わからない。だが、ふと、やさしい風が頬を撫でた瞬間——世界がまた、静かに息を吹き返すように動き出した。
「おにぃ……どこ、ここ?」
ミーナの小さな声が、霧の中にぽつりと響く。
「どこって……森、だろ……」
ルークが答えるが、その声には戸惑いが混じっていた。
森は森だった。しかし、さっきまで確かにそこにあったはずの温泉の建物も、ユメツヅリの湯の看板も、すっかり影も形もなくなっていた。そして何より、亮と美月の姿も見えない。
「……いない…な。ミーナと俺と、猫たちだけか」
猫たちは足元をのそのそと歩き回り、一匹は苔むした石の上でゴロンと寝転がり、もう一匹は葉の陰に身を潜めてあくびをしている。
ミーナは小さな手でルークの袖をきゅっと掴み、心細げに体を寄せてきた。その大きな瞳には、ぽつぽつと涙の粒が浮かびはじめていた。
「亮と美月、いなくなっちゃったなぁ……」
「うん、いないね……」
森はしん……と静まりかえり、木々のざわめきさえも遠く感じられる。まるで時間そのものが止まってしまったかのような静けさだった。
「あぁ、あいつら……来たときも突然だったけど、帰るときもいきなりだな」
「かえっちゃったのぉぉ……」
「たぶんな、うん」
「ばいばいしてなぁぁぁいぃぃ……」
ぽろぽろと大粒の涙がミーナの頬を伝って落ちる。鼻をすすりながら、ミーナはくしゃくしゃの顔でルークを見上げる。
ルークはしゃがんで目線を合わせ、そっと頭をなでた。
「泣くなって、ミーナ。きっと、また会えるさ」
「ほんとぉ……?」
「きっとな。いろんな世界に行ってるって言ってたから、また突然やってくるかもしれない。忘れたころに、ふらっと」
ルークが笑って肩をすくめると、ミーナはぐしゅぐしゅの目をこすりながら、少しずつ笑顔を取り戻していく。
「うんっ……じゃあ、また来たときのために……ミーナ、もっともっとお野菜作るぅ!」
「ああ、あいつら、野菜の育て方とか全然知らなかったからな」
「ミーナが教えるぅ! おいしいのの見つけ方とかぁ、にんじんさんの甘くする方法とかぁ……!」
「猫たちも手伝うか?」
「もちろんぅぅ!」
にゃあと、まるで「任せろ」と言うかのように鳴く猫たち。ぷるぷると体をふるってから、しっぽをぴんと立てて、先を歩き出した。
霧はもうすっかり晴れ、太陽の光が木々の隙間からこぼれ落ちる。鳥のさえずりが戻り、風が葉を揺らす音が耳に心地よく響いた。
遠くに、あの見慣れた丘が見えてきた。畑の小道、風に揺れる作物たち、そして小さな家——ふたりと猫たちの、いつもの日常がそこにある。
「じゃあ、帰ろっか」
「うんっ。ミーナ、お野菜いっぱい育てるよ! また、会うために!」
ミーナはルークの手をぎゅっと握りしめ、小さく、けれどまっすぐに前を見ていた。
その瞳には、もう涙はなかった。
──霧は晴れた。
そして、また新しい一日が始まる。




