──霧の奥へ──
──霧の奥へ──
「……見つけた、か?」
誰かがそう呟いたような気がした。だがその声は、霧の中へと溶け、静かに森の奥へと消えていった。
靄は徐々に晴れ、風の流れが変わるにつれて、鼻をくすぐるような硫黄の匂いが微かに漂い始める。足元の草が湿気を含み、肌にまとわりつくようなぬるりとした空気が森を満たしていた。
やがて、霧が完全に晴れると、そこには古びた木造の建物が姿を現した。苔むした丸太で組まれた湯治場のような小屋。手彫りの看板が軒先に下がっており、「ユメツヅリの湯」と墨字で記されていた。
屋根の隙間からは、白い湯けむりがゆらゆらと立ち上っている。
「やっとですよ!!」
美月が歓声を上げ、両手を天に向けて伸ばす。その動きに反応して、朝の光を反射した霧の粒が彼女の周囲でキラキラと舞い踊る。
「ああ、今回はちょっと不思議だったが……やっと来れたな、温泉」
亮は深く息を吸い込み、目を細めてしみじみと言った。
「すげー、ほんとにあったよ。温泉……ほんとにあったんだ。……ミーナは嘘つきじゃなかった……っ」
ルークが感極まったようにミーナの頭を優しくぽんぽんと撫でる。
「なにこの子、パズーみたいなセリフ言ってるんでしょうね!? ラピュタ目指してんの?(笑)」
美月が吹き出して突っ込むと、亮も苦笑しながら肩をすくめた。
「お前が言うのか(笑)」
「ねぇねぇ、おにぃ……ここなぁに……?」
ミーナが不安げにルークの袖をきゅっ、と掴む。瞳はぱちぱちと揺れ、頬にはわずかに紅が差していた。
猫たちも、ミーナの足元にぴったり寄り添い、耳を伏せたまま辺りを警戒している。しっぽはぼわっと膨らんで、今にもフウーッと唸りそうだった。
「ああ……ここはな、亮たちが探してた温泉……のはずだ」
ルークがそう言いながらも、視線は霧の奥へと注がれていた。その眼差しには、まだわずかな不安が宿っている。
「あれ……? あのばあさん、どこ行ったんだ……?」
亮が周囲を見回す。つい先ほどまで彼らを案内していた老婆の姿は、いつのまにか消えていた。
「え、いない!? え、消えた!? まさか、ミーナの幻覚? 幻獣召喚!? ……わたし、何か召喚しちゃった!?」
ミーナが一人で大げさに慌て、顔を真っ赤にしながら、両手をぶんぶん振り回した。猫たちも驚いたようにミーナの後ろに隠れる。
「うわぁぁ、ミーナちゃんが壊れた!? 硝子さぁぁん!!家入○子さぁん~」
「ミーナ、落ち着け……可愛いから許す」
ルークは思わず顔を覆いながらも、デレた。
──その時だった。
湯けむりの向こうから、ふわぁっと音もなくぬるりと人影が現れた。
「お待ちしておりました。『ユメツヅリの湯』の温泉の女将でございます」
艶やかな黒髪を高く結い上げ、異国風の和装に身を包んだ女性が、静かに微笑んでいた。その動きはあまりに滑らかで、まるで湯の流れそのもののようだった。
「出たよ、出た出た(笑)」
亮が肩をすくめる。
「ぬるっときましたねぇ、今回も」
美月もおかしそうに笑いながら、丁寧に一礼する。
「うわぁぁぁ……」
ルークはぽかんと口を開けたまま、後ずさるしかできなかった。
「ひゃっ!!!」
ミーナはぴたりと硬直し、ピンクのほっぺたをぷくぅっと膨らませて震え出した。
猫たちは一斉に「ケケケッ」と警戒音を鳴らし、全員のしっぽが爆発したように丸くなっていた。
「驚かせてしまったようで、申し訳ありません」
女将は穏やかに一礼した。その所作は、まるで空気すら揺らがない静謐さを纏っていた。
「本日は……あら、可愛いお子様もお連れで?」
優しく微笑む女将の視線がミーナに注がれると、ミーナはさらにぷくぅっと頬を膨らませて、こくりと一度だけうなずいた。
「……この子、爆発寸前ですね……」
美月が小声で亮に囁き、亮が「……いや、すでに何かしら弾けてる」と返した。
「ああ、今回はこの二人に色々とお世話になったんだ」
亮が女将に事情を説明する。
「でしたら、ご一緒にどうですか? どうぞこちらへ」
女将はゆっくりと振り返り、音もなく歩き始めた。その足元には草一本揺れず、代わりにふわりと温かな湯けむりが流れていくばかりだった。
「さあ──」
その先に広がる異世界の温泉体験が、静かに幕を開けようとしていた。




