王都の怪火と猫たちの夜
王都エルデンの夜は、いつもなら穏やかである。
酒場の明かりが通りを照らし、パン屋の余熱が漂い、猫たちが屋根を軽やかに渡っていく。
――だが、その夜は違った。
青白い炎が、突如として路地の奥にぼうっと立ち上がったのだ。
声を上げた下町の人々は驚き、十字を切る者、子どもを抱えて逃げる者。誰もが「怪火だ!」と騒ぎ立てた。
「ふむ……またか」
その知らせを受け、重々しい足取りで王都の裏通りへと向かう男がいた。
黒の燕尾服を身にまとい、白髪交じりの髭をきちんと整えた執事。――ギャリソンである。
ギャリソンは外套の裾を翻し、静かに歩いていた。
黒百合商会の一件が終わり、王都には安堵の空気が広がった――少なくとも、表面上は。だが彼の眼は鋭い。闇は、必ず別の影を孕んでいるものだからだ。
彼は街灯の光に浮かぶ路地を静かに歩きながら、眉間に皺を寄せた。
「火事ではないが……自然の炎でもない。これは、誰かが意図して起こしている“現象”だな」
低く呟くその声音に、通りの人々は妙な安心感を覚える。
誰もが噂する。「あれはレーヴェンクロイツ家の執事様だ」と。
頼れる大人が現れただけで、不思議と群衆の心が落ち着いていった。
そして――。
ギャリソンが夜の調査へ赴くと聞きつけた存在がいた。
そう、ミーナの愛猫たちである。
「にゃっ(ご主人様がいないときこそ、我らの出番!)」
「ふふん、猫の手を借りたい時が来たようだな!」
「いやいや、勝手について行くだけでしょ……」
そんなわけで、ぞろぞろと十数匹の猫たちがギャリソンの後をつけてゆく。
ギャリソンは背後の気配に気づきつつも、特に振り返ることはしない。
「……まったく。静かにしていれば分からぬと思っているのだろうが」
小さくため息を吐く。
だが、その口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
路地裏の怪火
怪火が出没すると噂されるのは、下町の古い倉庫街だった。
石畳の隙間から草が伸び、壁はひび割れ、誰も寄りつかぬ朽ちた建物が並んでいる。
そこで――。
「ぼわっ」
突如、青白い炎が宙に浮かび上がった。
人の背丈ほどもある炎が、壁を舐めるように漂い、やがてふっと消える。
「ぅわ、出た!」
「やっぱり怪火だ、呪いだぁ!」
見物していた下町の若者たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
ギャリソンは目を細めた。
炎を恐れる素振りもなく、逆に一歩、また一歩と近づいていく。
「……火傷の気配はない。温度も感じぬ。では、これは“光”か?」
冷静に現象を観察する執事。
一方で猫たちは――。
「うにゃっ! 追え追えっ!」
「右へ消えたにゃ! こっちだにゃ!」
炎がふっと消えるや否や、猫たちは一斉に飛び出した。
屋根を駆け、塀を越え、尻尾をぴんと立てて炎の残滓を追いかけていく。
ギャリソンもその後を追い、闇の路地を抜ける。
猫たちの追跡
「にゃーっ!(発見! 発見!)」
とある倉庫の裏口で、猫の一匹が叫んだ。
そこには、淡く光る石片が転がっていた。
猫たちはそれを取り囲み、ひっかき、転がし、最後には咥えてギャリソンのもとへ持ってくる。
「……ふむ」
ギャリソンは手袋越しにそれを受け取った。
石は青白く淡く光り、時折、火花のように“揺らめく炎”を生んでいる。
「魔導石……。どうやら、未熟な術者が実験でもしていたか」
執事の冷静な分析に対し、猫たちはきょとんとしている。
「にゃ? つまり、これは……火事じゃないの?」
「……にゃんだ、驚かせやがって」
「でもおもしろい石だにゃ、ひっかくと光るにゃ!」
石を巡って大騒ぎする猫たち。
ギャリソンは額に手を当てて小さくため息をついた。
実験の真相
その時、物音がした。
倉庫の扉がきぃ、と開き、若い魔導師風の青年が顔を覗かせた。
目の下には隈、手には同じような石を持っている。
「な、なんで猫がこんなに……!? あっ、その石は!」
青年は青ざめ、石を取り返そうと駆け寄る。
だが――十数匹の猫に一斉に飛びかかられ、あっという間に転がされてしまった。
「にゃーっ!(悪いことしてるにゃ!)」
「かつあげは許さないにゃ!」
「石は没収にゃ!」
「ちょ、ちょっと待っ……うぎゃあああ!」
青年は必死に猫たちを振りほどこうとするが、猫パンチと尻尾攻撃の集中砲火に完全に押されていた。
ギャリソンはその光景を静かに見つめ、腕を組む。
「……なるほど。噂の“怪火”はお前の実験の産物か」
「ち、違うんです! 人を驚かすつもりじゃなくて、ただ、魔導石を安定させたかっただけで……!」
青年は涙目で弁解した。
ギャリソンは彼を鋭く見据え、しばし沈黙――。
やがて、深々と溜息を吐いた。
「……王都の夜を騒がせたのは事実だ。だが、悪意はなさそうだな。
……後始末はこちらで引き取ろう。二度と同じ過ちは繰り返すな」
青年は何度も頭を下げ、猫に噛まれた袖を直しながら逃げ去っていった。
夜明け前
倉庫の外に出ると、東の空がかすかに白み始めていた。
猫たちは勝利の凱歌を上げるように「にゃー!にゃー!」と鳴き交わす。
「……我々の勝利にゃ!」
「怪火退治成功にゃ!」
「次はおやつの時間にゃ!」
ギャリソンは猫たちの大合唱を背に、静かに歩を進める。
その背中は夜の闇を払い、確かな威厳を宿していた。
屋敷へ戻る前、彼はふと立ち止まり、夜空を見上げて呟く。
「……こんな夜もあるのだ」
冷たい風が通り過ぎ、猫たちの尻尾がふわりと揺れた。