王都に忍び寄る影と農園の午後 肆
王都エルデンは、いつ来ても喧騒と活気に満ちていた。
石畳を埋め尽くす人波、軒先から軒先へと飛び交う呼び込みの声、焼きたてのパンと香辛料の匂い、そして商人たちの誇らしげな笑顔。村の畑や農園の静けさに慣れたルークには、いささか眩しすぎる光景である。
「わぁぁ! にぃに、見て見て! あっちのリボン、トマト色だよ!」
「ミーナ、ちょっと落ち着け……! はぐれるだろ!」
手をつなぐ妹の腕が、右へ左へと元気に引っ張るたびに、ルークは苦笑しながら人の流れに揉まれる。
彼の後ろでは、例の猫たちが列をなし、勝手に王都探検を始めていた。
「にゃっ!」
「にゃにゃにゃ!」
白猫のシロが市場の魚屋の台に飛び乗れば、黒猫クロがその隙に干物を狙う。屋台のおじさんが「こらぁぁ!」と叫び声を上げた瞬間には、もう猫たちは煙のように散り、どこかの屋根の上へと姿を消してしまう。
「おい待て! 代金払え! こっち来やがれぇ!」
「ち、違います! うちの猫じゃありません! ……多分!」
ルークは青ざめて必死に弁解する。
ミーナはといえば、パン屋のおばさんに「かわいい子ねぇ」とリボンを結んでもらい、まるで野菜ドレス舞踏会の続きをやっているかのような無邪気さだった。
──だが、そんな賑わいの裏で、不穏な影が蠢いていた。
***
昼下がり、市場の裏路地。
人通りの少ない石壁の影から、か細い声が響いた。
「た、助けて……!」
ルークの耳がぴくりと動く。
ミーナと猫たちはすでにその声の方へ走り出していた。
「待てミーナ! 勝手に走るな!」
「にぃに、誰か泣いてるよ!」
「にゃあ!」
追いついた先で、彼らは見た。
フードを被った二人組が、幼い子供の腕を掴んでいる。
子供は必死に抵抗していたが、男たちの力に抗えるはずもない。
「やめるのですぅぅ!」
ミーナが叫ぶより早く、猫たちが動いた。
シロが男の肩に飛びつき、爪でフードを引っかく。
クロは足元に回り込み、ガツンと頭突き。
残りの猫たちも一斉に飛びかかり、路地は一瞬で大混乱に陥った。
「な、なんだこいつら!」
「猫!? くそっ、離れろ!」
ルークは子供を抱き寄せ、無我夢中で庇った。
ミーナはというと、腰に手を当てて言い放つ。
「悪いことする子は、お野菜抜きだからね!」
「はぁ!?」
犯人たちも、ルークも思わずずっこけそうになる。
だが、その一瞬の隙が決定的だった。
猫たちの攻撃で袋が裂け、中から黒い布切れや小瓶が転がり落ちる。
男たちは顔を覆い隠したまま、罵声を残して路地の奥へと消えていった。
「にぃに、逃げちゃった……」
「……いい、追うな。子供が優先だ」
ルークは怯える子供を抱きしめ、安堵の息をつく。
その足元で、猫たちが得意げに転がった小瓶や布切れを囲んでいた。
***
やがて──。
その場に現れたのは、一人の渋い男だった。
整った髭を湛え、燕尾服に身を包んだ執事。ギャリソンである。
「ギャリソンさん!? ど、どうしてここに!」
驚くルークに、執事は落ち着き払って一礼する。
「……なるほど。クラウス様の言葉どおり、王都でも動きが始まったようですね」
ギャリソンは落ちた布切れを拾い上げ、冷静に観察する。
その目は氷のように鋭く、けれど揺らぎはなかった。
「これは……薬草の匂い。鎮静作用を持つものだ。子供を眠らせて運ぶために用意していたのだろう」
「そんな……じゃあ、やっぱり人攫いってことか」
ルークが唇を噛む。
ミーナは子供の頭を撫でて「大丈夫だよ」と微笑んでいたが、その瞳には珍しく不安が浮かんでいた。
「この件、組織的です。単なる流れ者の仕業ではありません」
ギャリソンの声は低く、確信に満ちていた。
その言葉を裏付けるかのように──背後から重厚な声が響いた。
「……やはりお前たちが巻き込まれたか」
振り向いたルークの前に立つのは、堂々たる体躯の男。
グランフィード家の長兄、クラウスであった。
***
クラウスの眼光は鋭く、ただならぬ気配を放っていた。
ミーナは思わず「おじさま!」と駆け寄る。
クラウスは柔らかく頭を撫でてから、低い声で告げた。
「子供の失踪……これは偶然ではない。背後に、明確な“意志”を感じる」
その一言に、ルークの背筋が凍る。
猫たちでさえ、珍しく鳴き声を潜めていた。