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王都レーヴェンクロイツ家の午後 ― イザベル嬢の退屈とギャリソンの受難

 王都のレーヴェンクロイツ邸は、真夏の日差しを受けてもなお涼やかに保たれていた。石造りの屋敷は分家とはいえ広く、庭園にはバラとハーブが整然と咲き誇っている。

 その広間の奥――重厚なカーテンに遮られた一室で、ひとりの少女が頬杖をついていた。


「……退屈だわ」


 紅茶のカップに手を伸ばすこともなく、イザベル・フォン・レーヴェンクロイツはテーブルに突っ伏すようにして長いため息をついた。

 涼やかな亜麻色の髪が肩から滑り落ち、光を受けてきらりと揺れる。王都でも指折りの美少女と称される容姿をしていながら、その顔には今や退屈と不満が張り付いていた。


「……お嬢様、ただいま戻りました」


 扉が静かに開き、長身の壮年が一礼した。

 黒の燕尾服に身を包み、どこかの劇場に立つ役者のように隙のない立ち姿――執事、ギャリソンである。


「あら。ギャリソン。セレナの方は、もういいのかしら?」


 伏せた顔を上げたイザベル嬢が、にこりともせず問いかける。


「はい。あちらもやっと落ち着いてまいりましたので」


 低く澄んだ声で答えるギャリソン。その声音には、長い日々を思い返すようなわずかな疲労がにじんでいた。


「……いいわねぇ。あなたは」


 イザベルがわざとらしく目を細める。


「……はい?」


「“いいわね”って言ってるの。なんだか楽しそうだったじゃない。セレナのところで。あたしはずっと王都でお行儀よくしてたのに」


「……楽しい、ですか」


 ギャリソンは苦笑をこらえた。思い返すのは、例の村での数々の騒動――見たこともない野菜が次々現れ、畑では子どもたちが大騒ぎ、猫は正座させられ、そして令嬢セレナまでが巻き込まれる珍事件の数々。

 とても「楽しい」などと呼べる状況ではなかった。命を削るほどに神経を使った記憶ばかりだ。


「……とても“楽しい”などとは……」


「でも、退屈じゃなかったんでしょう?」


 イザベルが唇を尖らせ、指でテーブルをとんとんと叩く。


「退屈……それは、まあ……」


「ほら!」


 ばーん!とテーブルに額を打ちつけるほどの勢いでイザベルが突っ伏した。

 次の瞬間、ぱちりと顔を上げ、宝石のような瞳でギャリソンをじっとにらみつける。


「あたしもなにか楽しいことがしたいのっ!」


「……」


「ギャリソン。考えてちょうだい!」


「……さあ、どうしたものか……」


 執事ギャリソンは心の中で深いため息をついた。

 ――結局、また始まったのだ。



「楽しいこと、ですか」


 ギャリソンは控えめに問い返す。


「そうよ! 退屈を吹き飛ばすような、思い切ったこと!」


「ですがお嬢様、王都のご令嬢が“思い切ったこと”など……」


「いいの! どうせセレナだって田舎で畑だの農園だのと遊んでいるのでしょう?」


「……あれを“遊び”と呼ぶのはどうかと」


 ギャリソンの額にじわりと汗が浮いた。

 王都で社交を学び、舞踏会で輝きを放つべき令嬢が「畑遊び」と口にしている――そんな状況を誰が想像するだろう。


「いいえ、決めたわ」


 イザベルが勢いよく椅子から立ち上がった。


「わたしも! 何かを見つけるの! 新しい楽しみを!」


「……お嬢様」


「で、ギャリソン。手はずを整えてちょうだい」


「……はぁ」


 結局のところ、イザベル嬢の退屈はギャリソンの受難として降りかかる。

 分かってはいたが――逃げられない運命であった。



 こうして始まったイザベル嬢の「退屈しのぎ計画」。

 まず庭園の散歩、しかし数分で「飽きた」と言い出す。

 次にお菓子作りを提案すれば「粉まみれなんていや」と顔をしかめる。

 楽団を呼べば「眠くなる」と文句を言い、馬車での散策を提案すれば「日焼けがいや」と却下。


 ギャリソンの忍耐は徐々に限界に近づいていた。


(セレナ様のお手伝いをしていた頃より……厄介では?)


 心の中で嘆きながらも、執事の仮面を崩さずに立ち続ける。

 イザベル嬢はといえば、ひとつひとつ却下するたびに、ますます不満げに頬を膨らませていくのだった。


「ギャリソン。あなた、ほんとはあたしを退屈させたいんじゃないの?」


「そんな馬鹿な」


「だって! なにひとつ面白くないじゃない!」


 ぱん、と両手をテーブルに叩きつけて立ち上がる。


「――もう決めたわ」


「……はい?」


「こうなったら、あたしも村に行く!」


「……はぁ!?」


 ギャリソンは思わず声を荒げた。


「セレナのところへよ! あの村、なんだかんだで事件ばっかりなんでしょう? 退屈なんて絶対しなさそうじゃない!」


「……」


「決まり! 準備しておいて!」


「お嬢様、それは……」


 だが、イザベル嬢は聞く耳を持たなかった。

 彼女の頬は紅潮し、瞳は期待にきらめいている。

 退屈な日常を抜け出し、何か未知の刺激を求める少女の決意は、誰にも止められなかった。


 ――結局、ギャリソンは深いため息とともに頭を垂れた。


「……かしこまりました」


 こうしてまた、執事ギャリソンの苦労と受難に満ちた日々が幕を開けるのだった。


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