ルークの未来と、家族の選択
夕暮れの畑に、蝉の声が響いていた。
赤く染まる空の下で、ルークは手を止めて立ち尽くしていた。手には借りてきた本。セレナ嬢が貸してくれた、厚くて固い背表紙の本である。
「……はぁ」
ため息を一つ。
彼は畑に腰を下ろすと、ページをぱらぱらとめくった。書かれているのは農学の基礎理論や作物の病気についての記述だ。だが後半には政治、経済、さらには貴族の義務に関する内容まで含まれていた。
ルークにとって、貴族の義務など雲の上の話だと思っていた。だが――父アベルは元は領地を持つ貴族だった。母レイナは隣国の元王女。そう考えれば「ただの農夫でいいのか?」という問いは、自分の胸にも刺さってくる。
「……にぃに?」
ふいに声がした。振り返ると、妹のミーナが猫を抱えて立っていた。
バオアに頭をすりすりされながら、ミーナは不思議そうに首をかしげる。
「にぃに、畑でおべんきょしてるの?」
「ん……まあ、そんなところ」
「ふーん? でも、ミーナはにぃにがお野菜作ってるほうが似合うと思うな!」
屈託のない笑顔。
ルークは小さく笑い返したが、胸の奥にひっかかる不安は消えない。
夜。食卓に温かなスープの湯気が立ち上る中、ルークは意を決して両親に切り出した。
「父さん、母さん……。俺、ちょっと相談があるんだ」
アベルがスプーンを止め、ルークを見る。レイナもそっと微笑んで耳を傾けた。
「……俺、このままでいいのかなって思ってるんだ。畑仕事は好きだし、これからも続けていきたい。でも、この先……もし家族や村に何かあった時に、俺にできることが畑しかなかったら……守れるのかなって」
言葉を吐き出すようにして、ルークは続ける。
――セレナ嬢に言われたこと。貴族の家の出である父。王族の血を引く母。自分だけ「ただの農夫」でいいのかという不安。
しばしの沈黙の後、アベルが低く口を開いた。
「……なるほどな」
その声には厳しさと同時に、父としての温かさが混じっていた。
「ルーク。俺はな、貴族という立場を捨て、この村に骨を埋める覚悟で農を選んだ。だからこそ“ただの農夫”であることを恥じたことは一度もない」
真っ直ぐに息子を見据える。
アベルの眼差しには、貴族だった頃の威厳がかすかに残っていた。
「だが――お前がその肩書きに不安を覚えるのなら、学ぶのは決して無駄ではない。知識もまた剣や鍬と同じ武器だからな」
レイナも静かに口を添えた。
「ルーク。あなたは優しい子。だからこそ、自分の将来を“誰かを守るため”に考えてしまうのでしょう。でもね――母として言うわ。どんな道を選んでもいい。ただ、その道を歩む覚悟と、自分の幸せを見失わないで」
「……母さん」
ルークは思わず言葉を詰まらせた。
その時、食卓の下で「にゃあ」と声がする。ミケとシロがちゃっかり潜り込み、スープの香りを嗅ぎながら尻尾を揺らしていた。
「ふふ……猫たちも同じ気持ちかしらね。“ルークはルークのままでいい”って」
夕食後、アベルはルークを外へ連れ出した。
月明かりに照らされた畑。土の匂いが濃く漂うその場所で、父と息子は並んで腰を下ろした。
「ルーク。俺はお前に“農を継げ”と言った覚えはない。だが、お前が自分で鍬を握り、種をまく姿を見たとき……誇らしかったよ」
「……」
「お前はもう立派に“この土地を耕す者”だ。だが――それに加えて学ぶ道を選ぶのなら、それもまたお前の自由だ。どちらに転んでも、俺はお前の父として支える」
ルークは拳を握りしめ、胸の奥から溢れる思いを口にした。
「俺は……やっぱり畑が好きだ。でも……父さんや母さん、ミーナを守れるだけの力が欲しい。だから、勉強もしてみたい」
「そうか」
アベルは静かにうなずいた。
そして、にやりと笑う。
「ならばまずは――“鍬を握れる学者”を目指すか?」
「……なんだそれ」
思わず笑いがこぼれる。
だがその言葉には、彼が求めていた答えが詰まっていた。畑を愛しながらも、学びを武器にできる未来。どちらかを捨てるのではなく、両方を抱え込む道。
家に戻ると、レイナが温かなハーブティーを用意して待っていた。
彼女は静かにルークを抱き寄せ、耳元で囁く。
「ルーク。あなたはまだ若いわ。答えを一つに決めなくてもいい。学びながら耕し、耕しながら迷えばいいの。……大切なのは、あなたが自分を誇れること」
「……うん」
その腕の温もりに、ルークは胸のつかえがすっと溶けていくのを感じた。
その頃。居間ではミーナが猫たちと小さな会議を開いていた。
「ねぇねぇ、にぃにね、おべんきょして強くなるんだって!」
「にゃあ!」
「みゃう!」
猫たちが一斉に鳴き、尻尾を振る。
ミーナは机にクレヨンを広げ、「にぃにのかっこいい未来予想図」を描き始めた。
――畑で立派な作物を育てるにぃに。
――大きな本を読んで難しいことを言ってるにぃに。
――剣を持ってミーナを守るにぃに。
全部ごちゃ混ぜの、色とりどりの絵。
猫たちはその紙の上に乗ったり転がったりしながら、「にぃにはにぃにでいい!」と言わんばかりに楽しそうだった。
その夜、ルークは机に向かい直した。
厚い本を開きながら、隣ではミーナが猫たちと眠りこけている。色とりどりの絵がテーブルに広がり、無邪気な寝息が響いていた。
「……俺は俺でいいのかもな」
小さく笑い、ページに目を落とす。
農を愛し、家族を愛し、そして学びを恐れない。そんな未来を歩むために。
――静かな夜に、少年の決意だけが確かに芽吹いていた。