クラウスとアベルとレイナと──夜の小さな語らい
グランフィード家の離れ、その縁側には、静かな夜風が吹いていた。
昼間の賑やかな“ミーナと猫たちとのかくれんぼ”が嘘のように、あたりは虫の音に包まれている。
「……昔と変わらぬ、静かな夜だな」
クラウス=グランフィードは、湯呑みにそっと口をつけた。
村に訪れて三日目の夜。今日は、弟のアベルとその妻レイナと、久々に三人きりの夜だった。
「それにしても……本当に、君は変わらんな。アベル」
「お前に言われるとは思わなかったよ、兄さん」
アベルは苦笑しながら、傍らに控える妻レイナを一瞥した。
彼女はにこやかに湯を注ぎ、椅子に腰掛ける。
「変わらないって、いいことよ。家族が、ここにあるって意味でしょう?」
「……そうだな」
クラウスは小さくうなずき、三人の間にあたたかな静寂が流れた。
◆王都の責務、そして兄としての想い
「王都では、野菜の評判が思った以上に大きくなっていてな。ルークとミーナの野菜が、“王妃の食卓に昇る”ほどだ」
「……そこまで?」
アベルは、やや驚いた顔で眉をひそめた。
「まったく、王妃エリザベート様にまで届くとはね。ミーナはそのこと、知らないのでは?」
「むろんだ。ミーナに知らせれば、“では王宮にも野菜を届けに参ります!”などと言いかねん」
「言うでしょうね……絶対に」
三人は同時に笑った。
「……私の子だけれど、あの子の真っすぐさには時折びっくりするわ。よく育ってくれたけれど……」
レイナがぽつりと呟くと、アベルがそっと彼女の手を握った。
「育てたのは君と……そして村だ。俺は耕していただけさ」
「それが大事なのですよ、弟よ」
クラウスはふっと笑い、湯呑みを持ち上げた。
「お前が耕し、レイナ殿が支え、ルークが根を張った。そしてミーナが花を咲かせた。
……グランフィードの名は、田畑にこそあると、そう思えてきたよ」
◆兄弟のすれ違い、そして
「……それでも、兄さんは王都で“名”を守っている」
アベルの声には、どこか遠慮があった。
「王の命令、宮廷の駆け引き、貴族たちの牽制……俺には耐えられなかった。あの場所で生きるなんて、到底無理だった」
「それでいい。俺も、たぶん、向いてなどおらん」
クラウスは、一瞬だけ眼差しを伏せた。
月明かりが、三人の影を縁側に落とす。
「父上が亡くなったとき、お前にだけは言いたかった。
……俺も、本当は逃げ出したかった。だが、誰かが“あの名”を守らねばならなかった」
「兄さん……」
「わかってる。お前を恨んではいない。……ただ、少し、羨ましくなったことはあるよ」
レイナがそっと、お茶を二人に注ぎ直した。
「兄さん……私たちも、あなたに感謝しています。あなたが都に残ってくれたから、私たちはここで生きられた。
そして今、あなたがこうして“家族”として来てくれることが、何より嬉しいの」
クラウスは目を閉じて、ゆっくりとうなずいた。
「……ミーナに“おじさま!遊んでくれてありがとう”と、言われた。
……あれは反則だな。あれは……ずるい」
レイナは吹き出し、アベルは肩を揺らして笑った。
◆夜は更けて
やがて、月は高く、空気も冷たくなってきた。
「そろそろ……寝る時間かもしれんな」
レイナが立ち上がり、二人に会釈する。
「では私は先に。明日もミーナが早起きするでしょうから……ふふ。クラウスさん、来てくれてありがとう」
「いや……こちらこそ、ありがとう」
レイナが去ったあと、アベルはしばし沈黙したまま、縁側の空を見上げた。
「兄さん。……もし、王都で本当に困ったら、俺に言ってくれ。何でもはできないが、村での支えくらいにはなる」
「……ああ。だが、困っていなくても、また来てよいか?」
アベルは目を細めた。
「ミーナのことか?」
「うむ」
「……やれやれ」
二人はふっと笑い合い、静かに肩を並べて月を見上げていた。
王都と村。
背負うものも、歩む道も違えど──
グランフィードの兄弟は、今もなお、確かに“家族”であった。