イザベル嬢の午後の疲れと執事ギャリソンの憂鬱 〜紅茶三杯目は心の休息〜
秋風が吹き抜ける、レーヴェンクロイツ分家の館。
重厚なカーテン越しに差し込む午後の日差しは、まるで淡い金糸のように床を照らし、空気そのものを柔らかく染め上げていた。
しかし、その静謐な雰囲気とは裏腹に、広間には“ぐったり”と椅子に身を投げ出した少女の姿があった。
「……ギャリソン……もう、今日はダメですわ……この世に疲れた顔って、今のわたくしのことを言うのよ……」
「はい、お嬢様。ご覧の通り、鏡に映るお顔は気怠さと不満が三割、退屈が四割、そして残りの三割は……食後の眠気かと」
「うるさいですわ、ギャリソン」
その少女――イザベル・フォン・レーヴェンクロイツ。分家筋の令嬢にして、優雅な微笑みと高飛車な態度を併せ持つ才女。
だが今の彼女は、かつてないほどの“午後の無気力感”に包まれていた。
「午前の勉学……午後の礼法……読書と記録簿の整理、それに来月のサロンの下準備……。わたくし、何のために生きているのかしら……」
「それは伯爵家の名誉のためであり、そして将来お迎えになる旦那様のため……」
「結婚願望など一欠片もありませんのっ!!」
イザベルは急に立ち上がると、バラの香りがふんわりと広がった。
「わたくしが欲しているのはっ、もっとこう……情熱と、自由と、冒険ですわ!」
「はあ……また“文学熱”が再燃されたようですね……」
ギャリソンは手帳を開き、静かに“午後:暴走の気配あり”と記録した。
◆午後三時の決壊
「お紅茶をどうぞ、お嬢様。カモミールとラベンダーのブレンドでございます」
「……どうせなら、カカオの粒と灼熱のスパイスでも混ぜた方が、冒険的で面白いのではなくて?」
「お腹を壊されるだけかと」
「人生も時には壊れてみるのが良いのですわ」
「やめてくださいませ、お嬢様。人生と胃腸は代替が利きません」
そうして、ギャリソンがささっと差し出した焼き菓子に手を伸ばしたイザベルだったが――
「……あら、これは? わたくしの好物のレモンビスケットじゃありませんの」
「はい、本日は“南方風のココナッツサブレ”をお試しいただこうかと」
「……この裏切り者」
「お言葉ですが、お嬢様。昨日までの“お気に入り”が、本日の“忌み嫌う存在”になることは珍しくございません」
「だから女心は儚くて美しいのですわ」
「さようでございますな(心底、疲れますな)」
◆無意味な優雅さの追求
「ねえギャリソン。わたくしは、何を目指して生きているのでしょう……」
「“世に美と教養を示す誇り高きご令嬢”だったかと」
「それが今は、疲れ果てて紅茶にアイスを浮かべたい気分なのです……」
「それは既に紅茶ではなく、“抹茶ラテ”のような代物でございます」
「お砂糖の代わりに詩をひとさじ加えるのも、素敵ではなくて?」
「詩を飲んで下痢をされた例を、私は存じ上げません」
「……つまらない男ですわ、あなた」
「誉め言葉と受け取っておきましょう」
イザベルは膨れた頬をふくらませながら、窓辺へと歩いた。
外では、庭師の青年が草を刈っている。彼が何気なくこちらに目を向けると、イザベルはふわりと微笑んで手を振った。
「……にこっ」
「……」
「ギャリソン、あの方に紅茶を差し入れて差し上げなさい」
「ええと……職務に集中していただくために、あまり交流は……」
「嫌とは言わせません」
「……かしこまりました、戦場に赴く気分でございます」
◆イザベルの午後とギャリソンの疲労
午後四時。紅茶三杯目に突入したイザベルは、少し落ち着きを取り戻しつつあった。
「……やっぱり、わたくしにはこういう穏やかな時間も必要ですわね」
「それを最初からお認めいただければ、私の胃も助かります」
「ギャリソン。今度、猫カフェを開きましょう」
「……は?」
「屋敷の一室を猫仕様にして、近所の子猫たちを招いて……紅茶とお菓子でおもてなしをするのですわ」
「それはカフェではなく、“保護施設”に近い気がいたします」
「お代は詩で良しとしましょう」
「通貨として認められるのは、せいぜい童話の国だけでございます」
「素敵ですわね、その国。引っ越しましょう、ギャリソン」
「私が辞職願を提出する未来が見えてまいりました」
イザベルは、そんなギャリソンの心労をまるで意に介さぬまま、カップをくるりと回して香りを嗅いだ。
「でも、あなたがそばにいるから、わたくしはこうして暴走できるのですわ」
「……たいへん名誉なことかと」
「ふふっ、冗談ですわ。少しだけ」
「……少し、とは」
「五割です」
◆夕暮れの微笑み
日が傾き、空が淡い橙に染まってきたころ。
イザベルはようやくソファに背を預け、長くため息をついた。
「……はあ、今日はよく頑張りましたわ、わたくし」
「午前の勉学、午後の暴走、そして猫カフェの妄想……実に充実しておりましたな」
「ギャリソン」
「はい」
「明日は、なにして遊びましょう?」
「……お手柔らかに願います」
イザベルはくすくすと笑い、ひと口、紅茶を啜った。
紅茶の温度はもうぬるく、日の光も傾き始めていた。けれど、静かな満足が胸の奥に広がっていく。
午後の疲れは、無駄ではなかった。
それを、執事と分け合うことができたなら。
「……でもほんとに猫カフェ、いいと思いますのよ?」
「せめて、もう一杯紅茶を飲んでからにしていただけませんか」
そして、また明日も、この小さな劇場は開幕する。
イザベル嬢の気まぐれと、ギャリソンの苦労と共に。
――紅茶の香りとともに、静かに幕が下りた。