王都での評判編 ギャリソンの暗躍(後編)
◆静かなる仕掛け人
ギャリソンは、夜明け前の静かな王都の通りを一人歩いていた。
黒いマントに身を包み、手には小さな木箱。中には、あの“黒い香りの飲み物”の試作品──
ルークが焼いた豆を丁寧に挽き、ネルで淹れた液体を瓶に詰めたものが数本入っている。
「さて。次は王宮の厨房ですな」
セレナ嬢の要請を受け、グランフィード家に興味を持った高位貴族はすでに数名。
だが、ギャリソンの狙いはその上──王宮そのものだった。
王都における“噂”を確かな評判へと変えるため、最上の舞台へ供する必要がある。
それも、時間をかけずに。
◆王宮の厨房にて
「お、お前は……ギャリソン殿!? いったい何のご用で?」
王宮厨房長・ロドリゲスはギャリソンの姿を見るなり驚いた。
それもそのはず。貴族の館の使用人が、朝もやの中に王宮厨房へ姿を現すなど、前代未聞の事態である。
「差し入れでございます。お疲れのところに、一杯の“目覚め”を」
そう言って差し出された琥珀色の液体。
鼻を近づけた瞬間、ロドリゲスの目が見開かれる。
「……なんだ、この香りは……?」
香ばしさ、苦み、そしてふわりと抜ける酸味。
ギャリソンは微笑む。「それは、“コーヒー”という飲み物です」
慎重に口へ運ぶロドリゲス。
ごくり、と一口含んだその瞬間──
「……こ、これは……! 眠気が、一瞬で……ッ!?」
厨房内の他の料理人たちも興味津々で集まってくる。
試飲が始まると、あっという間に瓶は空になった。
「……これは王宮の朝にこそふさわしい。王子殿下にお出ししても?」
「もちろん、問題ありません。製法と豆は、“グランフィード家”のルーク殿のものですが……」
「聞いたことがある。あの、妙におかしな農家だな」
「ええ、妙に……と言えば妙ですが、腕は確かです」
ロドリゲスはしばらく悩んだ末、大きくうなずいた。
「……ならば、明朝の王子殿下の朝食に。最高の焼き立てパンとともに、これをお出ししよう」
ギャリソンは軽く一礼し、その場を後にした。
「王都の朝は、“香り”から変わります」
◆そして王子殿下の御前で
翌朝。
エルデン王国第二王子・クラウス殿下は、ゆったりとした朝食の席にいた。
黄金の皿に並ぶバタークロワッサン、ハムのグリル、そして──
「……これは、例の“コーヒー”ですね。王都で評判の飲み物だと聞いています」
侍女の勧めで一口含むクラウス。
芳醇な香りとまろやかな苦味に、軽く目を細めた。
「なるほど……こういう味わいが朝の活力になるのか」
「お味はいかがですか?」
「申し分ない。これから毎朝の楽しみになりそうだ」
その一言が、王都に新たな波を呼んだ。
◆「グランフィード」の名が
貴族街のサロンでは、コーヒーの名前とともに語られる農家の存在が話題となった。
「グランフィード家、というのですって。辺境の農家とは思えない洗練」
「ふふ、猫たちがいるというのも気になるわね。ミーナちゃんという妹も可愛いらしいの」
「なんと、猫が案山子を作って空を飛ばしたとか──」
「その話は別の……いや、どちらも信じ難いですわ!」
真偽不明な噂も混じりつつ、グランフィードの名は王都に広がっていく。
一方、噂を聞きつけたセレナは「まったくもう、知らぬ間に進みすぎですわ」と苦笑しながらも、満更でもなさそうだった。
◆帰還の準備とルークのため息
そのころ、ギャリソンは帰路の馬車の中でそっと呟いた。
「──さて、次は正式な依頼状と共に、おそらくお嬢様も向かわれることでしょうな。あの農家へ」
彼の眼差しには、どこか“次の布石”を思わせる光があった。
◆そして、グランフィード家
「……は? 王都の誰かが、“豆をもっと仕入れたい”? なんの冗談だ」
ルークは、ギャリソンからの報告を見て、盛大にコーヒーを噴いた。
「やれやれ、ついに……始まってしまったのですね」
横で、ふわふわと優雅に紅茶を飲んでいたセレナが微笑む。
「これからが本番ですわ、ルーク様。あなたの“情熱”、本物かどうか──問われますわよ?」
「……おいおい、俺はただ、自分でうまいコーヒーが飲みたかっただけなのに……」
そんなルークの肩の上では、しろ(猫)がごろごろと満足げに喉を鳴らしていた。
庭では、ミーナが案山子に帽子をかぶせながらくるくる回っている。
「にぃにぃー! ねこ案山子、もっと作るのですー!!」
「ちょ、おい! 今は真面目な話──うわっ、やめろ! 帽子飛ぶっ!」
農家の朝はいつも通り、にぎやかで香ばしい。
だが、この地の片隅から始まった一杯の香りが、いずれ王都の文化をも変えていく──
その第一歩が、今しるされたのだった。