3話
「遅かったな」
山間は日照時間が短いというが、本当にあっという間に日が暮れてしまう。矢傷の手当てを済ませた俺は、冷え込む前にどうにか暖を取り服を乾かす為、火起こしに苦心していた。
そんな俺の苦労をよそに、アル•コールは開口一番から俺に対する質問責めだった。
「さっきの悲鳴はなんだ?!妹は、ウルはどこだ?!妹に何をした!!殺したのか?!!」
雨に濡れた木材はいくら燃やそうとしても煙が出るばかりで、寒さと濡れた下着が俺を苛立たせる。
「まとめて答えるぞ。1、悲鳴はあんたの妹だ。2、居場所は分からんが近くにはいる。3、最弱強度で拷問の魔法をかけた。4、『不殺の縛り』持ちだぞ?俺は」
尿と吐瀉物と、鉄が混ざった匂い。地面に刺した松明に照らされた『それ』は、半ば人の形をしていなかった。
「おあえり にいちゃ」
ごぽごぽと血泡を吹きながら、片方しか残らない両腕で、兄の体をぎゅっと抱きしめる。顔もう残っていないが、心なしか喜んでいるように見える。
「まだ喋るし、原型も止めてる。程度で済んでよかったな」
「な、な……」
流石に言葉が出ないようだ。
「妹さんあえて言わなかったみたいだけど、俺は元拷問官。肉体と精神に苦痛を与えて要求を通す。得意な事をやらせてもらった」
「なにがしたいんだ。あんた。僕が……僕の妹があんたに何をしたって言うんだ!」
「何度でも言うが、金が欲しいだけだ。お前らに恨みも、興味もない」
いや、興味があるないと言えば嘘になる。そのアルコールって名前は本当に偶然付けられたものなのか?
父親が狙ったんじゃないのか?異世界風のキラキラネームではないのか??
「恨みもないのにこんな酷いことができるか!こんな…妹をこんな……!『不殺に縛り』は嘘なのか?!」
「どうだろうな。ただ妹が生きてるのは『縛り』の影響とだけ言っておこう」
岩壁に打ち付けて頭の1/3は抉れ、右前腕部より先は粗雑に切断されている。それでもウルが絶命しないのは、『縛り』によって死が許されていないからだ。
「でもあれは殺人を抑制するものだろう?!」
「そうだ、事実今も抑制しているじゃないか。俺のせいで妹が自殺するのを」
『不殺の縛り』の本質は、殺人ができないとこではなく、自身は殺人者になれない。というものだ。
実践から得た知識を総括した縛りの発動条件は主に3つ。
① 直接対象の殺傷を目的とした行動
相手を殺傷しうる攻撃や魔術を行使する場合、縛りはその行動自体を抑止する。
「まず、殺意をもった行動ができない」
② 間接的に対象を死に至らしめる行動
殺人教唆、対象の死に繋がる情報の伝播など、攻撃以外で対象の死に直結する行為を起こす場合、縛りはその行動自体を抑止する。
「次に、他者の死に直結する行動もできない」
③ 結果的に対象を死に至らしめる殺意なき行動
①と②によって抑止されない行動の最中、外的要因や対象の自由意志によって発生する『死』そのものが縛りによって抑止される。
「そして、上述の二つ条件に当てはまらない俺の行動によって、誰も死には至れない」
では何故対象を死に至らしめるほどの『痛み』という情報を伝播させる《ペイン》は『縛り』を発動させないのか。
「苦痛を与えることに特化した『拷問官』の魔術やスキルはこの縛りと相性がいい。非殺傷が大前提だからな」
《ペイン》の実態は複合型の強化魔術であり、バフの部類に入る。
疼痛緩和の為分泌される脳内麻薬に対する『解毒』。
極度のストレスによる失神を防ぐ『沈静化』。
そして痛みを感じる為の触覚と神経伝達の『強化』。
こうして最大限の苦痛を感じられるコンディションを整えることこそ魔術の本質である。
そして当然、上記を強化を殺意を持たずに発動するだけでは、『縛り』のトリガーにはなり得ない。
「……。所望する物は渡します。だからもう、妹を楽にして下さい」
銀貨の輝きが漏れるポーチを懐から取り出した青年は、項垂れたまま、ただ無気力にそれを差し出した。
「それは無理だ」
「……は?」
「《ペイン》を解除して欲しいんだろ?そうすれば縛りが解けて妹は死ねると」
それなりに頭がキレる彼のことだ、わざわざ説明をせずとも答えにたどり着けるだろう。
「死という結果が明らかである以上、あんたの意思による術の解除は『殺意をもった行動』」
そういうことだ、察しのいい奴との会話は楽でいい。
(さてと)
先ほどのポーチの中身を確認する。確か通行料は金貨1枚、銀貨換算で100枚か。
「まあ、いいだろう」
この暗がりの中、コインの枚数を一々数えるのは正直面倒である。銅貨も混じっているので計量による精算も難しい。
確認する術はないが、あの状況で出し惜しみが出来るほどの強かさをアルコール氏が持ち合わせているとは思えない。
「残りの分はどこだ」
答えが返ってくる気配はないので振り返ると、長髪の青年はただ一点を見つめてぶつぶつとうわ言を繰り返していた。
「何をすれば……殺せたんだ」
戦い方と喋り方、それと妹の態度から推察するに、こいつはそれなりに真っ当な生き方をしていたであろう。誰かに愛されて、護りたいものがあり、帰る場所もあった。
「もっと、上手くやれたはずなんだ」
そして何らかの切っ掛けで道を踏み外した先、俺に出会ってしまった。
「最善は、妹を見捨てて逃げることだな。君の予想通り俺の話も作戦もは全部お前らを誘き寄せるためのブラフだ。ボーロの話を含めて、な」
この街でまともな医療の技術を持っているのは街外れに住む薬師と教会に常駐しているボーロの二人だけ。そして布施を貰うのは当然後者だ。
「そもそも拷問官は戦闘向けの『天賦』ではない。追跡能力も無い等しい。だからあれだけ苦労して罠を仕掛けたし、誘き寄せる為矢もあえて受けた」
戦利品を背嚢に仕舞い込むついでに、帆布と保存食を取り出す。街から遠くはないとはいえこの暗がりの中で移動するリスクは小さくない。一泊して体力を回復してから……
ーー ヒュン ーー
ーー ガキィンッ ーー
薄皮一枚で矢を避け、直後に襲いかかるの剣撃をかろうじてクラブで受け止める。やはり、まだ折れてはいなかった。
だが板金で補強しただけの棍棒すら断ち切れないとは、 弓はともかく剣の腕はイマイチのようだ。
「この辺は夜でも大してモンスターは出ない、今から隠した分の金取ってこい」
咥えた干し肉を齧りながら、再び闘志の灯火が燻り始めた瞳の青年を見上げる。
「ほざけっ、せめて敵だけでも取ってみせる!!」
手数で押し切るつもりだろうが、青年一撃はあまりにも軽い。連撃を真っ向から受けつつ立ち上がり、ガラ空きの脇腹に蹴りを入れる。
鎧で衝撃を逃がしたのかあまり手応えはないが、怯んだ隙をついて背中の弓を奪い取る。
「くっ、今のもブラフかっ!」
『拷問官』は確かに戦闘向けの天賦ではない。だが天賦だけで量れるほど、人間というのは単純に出来ていない。
「敵の言葉は鵜呑みにしないことだな」
上等とは言えない代物だが、よく使い込まれた弓だ。売ればそれなりにはなるだろうが、奪い返されると厄介だ。
弓幹を踏み砕きながら、アル•コールに向き直る。
「その元気は妹のために使え。そっちが金を持ってくる間に妹は直しておく」
さっきから咀嚼を続けている肉の味がするボロ雑巾をどうにか飲み込み、武器を納める。
「治せるのか?!」
治療という意味の治すではない。どちらかと言えば機械修理の方の直すだ。
「直せないとは一言も言ってない。そもそも『助けてくれ』の前に『楽にしてくれ』と頼んだのはそっちだ」
「すぐ戻る!!」
こちらの返事も待たずに、脱兎の如き速さで暗い森の奥へと消えた兄を見送ると、俺は魔術の準備を開始した。
*
《ペイン》は魔力供給が途絶えなければ永続する魔術である。『拷問官』固有のスキル『永遠の責問』によって軽減された魔力消費量は、俺の貧弱な魔力回復量と拮抗する程度である。
つまり現在の対象にかかったペインを解除しない限り、俺は延々と魔力を浪費し続け、魔力を回復できない状況に陥るのだ。
「おーい、妹ぉ。出てこーい、お兄ちゃんだぞー」
茂みの中からふらふらと歩み出るシルエットは、一目でウルのそれだと判別できた。
「にいちゃ あい」
臭いに集まった羽虫が妹にたかり始めている。遠目から見たら完全にゾンビである。
『不殺の縛り』が続く限りウルの魂はこの肉塊に縛り付けられ、朽ちても動き続けるだろう。
「そこでじっとしてろよ?」
生命として認識されない肉体に治癒の魔術は効かない。故に使用するのは『治癒』ではなくて『時間』の魔術。
一枚岩に描いた魔術陣の中心にウルを立たせ、詠唱を開始する。
「閉じぬ円環 綻ぶ御影石の百合 動かぬ九つの秒針 鳴らぬ七つの弔鐘時流止めし堰堤の裂溝汲むは逆巻 《リワインド》」
この《リワインド》という魔術はかつて勇者が常用していたもので、知名度は高い。効果は至ってシンプル。対象生物の時間を巻き戻す、ただそれだけである。
魔術行使に使用される代償は対象と同種の生物の時間、つまり寿命である。人間の場合は1分間を巻き戻すごと10年の寿命を代償として費やす必要があり、気軽に手が出せる魔術ではない。
「これだけ豪勢に使えるのは俺と勇者くらいだろうな」
《リワインド》を使用できるは、今手に握っている小石のおかげである。
『不殺の縛り』を代価に得たこの遺物は1日に一度、あらゆる魔術の代償の代替品として機能する効果を持つ。そして今回は600年分の寿命の代替として使用させて貰った。
便宜上『賢者の石』と呼んでいるが、河川敷に落としたら探すのを諦める程に、ただの石ころにしか見えないのが玉に瑕のアイテムである。
(しかしいつ見ても奇妙な場面だな)
「あぎっ お゛っゔっ」
特に派手な光や音は出ない。
ただ動画の逆再生のように、飛散した肉片や歯が元の主の方へと吸い寄せられ、パズルのように接合していく。
服などは流石に修復されないが、上下両方隠れてるのだからよしとしよう。
「んおっ ぐえっ」
潰れたカエルのような声を出しているのは本人の意思ではない。詳しくは分からないが、修復の過程で気道から押し出された空気が原因なのだという。
ーー ベキボキッ グリッ ーー
やがて骨格の修復も完了し、気付けば見目麗しい長髪の盗賊女が陣の中央に立っていた。
代償として使用された賢者の石はあいもかわらず路傍の石そのものだが、鑑定や感知系スキルを持っている人からすれば、変わって見えるのだろうか。
「ウル!」
担いでいた泥だらけの布袋を放り投げ、肩で息をしながらアルコール兄ちゃんが、新品同然の妹に抱きつく。
「一回離れたほうがいいぞ」
俺はこの後、何が起こるかをよく知っている。
「うゔっ」
「良かった、は、はははは!本当に良かっ」
「うぉ゛えぇえぇぇぇっ!」
《リワインド》の過程自体は無痛だが、巻き戻されるものの一部が対象に精神的苦痛を与えることは多々ある。
1時間前から現在までの間、体外に排出した内容物の全てが、出た場所からそのまま戻されていく感覚を味わうのだ。汗、涙、血液、唾液、体毛、吐瀉物や排泄物も含めて、全てが出した所に詰め戻されていく感覚を。
「まあ、吐かずにはいられないよな」
麻袋の中身を確認する。
僅かに銀貨も混ざっているが、その殆どは銅貨であった。これが、ミアの生涯かけて稼いだ、人生を変えるための金。それが実の姉に奪われ、山賊に騙し取られ、俺の目前へと巡ってきた。スポットライトが当たらないだけで、こんな小さな悲劇は多分そこら中で起きているのだろう。
(重いが街に運べなくはない。腰をやらないように気をつけないと)
ーー ガチンッ ーー
背後からの装填音。油断した。妹のクロスボウの所在を確認していなかった。
「ここでお前を殺さない理由があるなら言えよ」
小さく舌打ちをする。
(感傷に浸る時間もくれないとは野暮な奴だ)
確かに、あの実妹のゲロ被ったまま弩をこちらに向けてるアルコールロン毛バカが俺を殺さない理由はもうない。
奴からしたら俺は母親の命に関わる金を奪い、妹を拷問し、さらにこれから教会に自分たちの事を告発するかも知れない脅威だ。感情論から来る復讐というだけではない。
「一発だ」
「……」
「一発で仕留めろ」
ボルトは、未だ未だ放たれず。
「外せば、必ず捕まえる」
立ち上がり、緩慢とすら言える動作で、振り返る。
「これは脅しだが」
一歩、堂々と踏み出す。
「『拷問官の拷問は、死ぬほどきついぞ」
更に一歩。引き金を絞る兄の指に、力が入る。
「お前の妹は、それを知っている」
狙いを定めるアルの首筋に、冷たい匕首が当たる。
震えた手で握られたそれは、兄の命を刈り取る準備をしていた。
「な……何を」
震えるその手に気付いたアルは、妹の行動を理解することができなかった。
やっと掴めた逆転のチャンス。それを何故、自分の最たる理解者にして、二人しか残らぬ肉親が妨害しようとするか。
「お、おねがい。兄貴、やめ……めて」
《リワインド》は、肉体が受けた痛苦の記憶をも抹消する。だが魂に刻まれた痛みの記憶は、決して消えることはない。
「何やってんだ!こいつをヤらなきゃ母さんが、それに僕たちだって!」
妹は混乱しているのだ。これだけ色んなことをされて、正気でいられる方がおかしいのだ。あるいは魔術をかけられているのかもしれない。
焦りを感じつつも、それでも標的からは一度たりとも目を逸さぬアルの背後。妹は兄の覚悟など意にも介さず、妄言を放つ。
「い、いいじゃないか。死ぬくらい」
「その手を退けてくれ!この一発で、終わらせる!」
「兄貴のこと、信用してるよ」
「なら!!」
「でもね?万が一、矢が外れて……あいつが、あの地獄がもう一度、ひっ、ひひひひひっ」
引き笑いと同時に、震える刃の鋒が、アルの首を掠める。
「いっ!」
どうにか現状を打開せんとボルトに魔力を込めるアル。
使い慣れた弓ではない、魔術による補正があれば決して外しはしない。妹の狼狽を目にして、決意は更に固まった。
妹にこの命を差し出してでも、目の前の邪悪は、今滅ぼさなければならない。
「やめろって言ってんだよ!!!クソ兄貴ィ!!!」
極限まで追い詰められた妹が泣き叫ぶ。兄の命を狙っていた匕首はいつのまにか、自分の喉元に、その鋒を埋めようとしていた。
「あんたはいいよな……知らないんだから!あれを、アレを知らないから!!!」
幸か不幸か、絶望の淵に追いやられ、全力で回転したウルの脳は、痛みから逃れるための最適解に辿り着いていた。
「本気だから、あたし」
声は、震えていた。自分の命を交渉材料に、唯一の肉親を脅す。それでもダメなら、命を絶ってでもあの『痛み』から逃れてみせる。
「金を置いて、逃げよ?あたし達なら、ここじゃない何処かでも、うまくやっていける」
できる限りの優しい声で、大好きな兄を説得する。もう、身体がいうことを聞かない。迫る恐怖から逃れようと匕首を押し込むべく、痛みを直に経験した右腕がひとりでに動き出す。
「待っ!待て!!ウル落ち着け!」
また一歩。足をはやした地獄が、迫ってくる。兄がクロスボウを下げる気配は、未だにない。
「へへ、やっぱり、母さんには敵わないか」
恐怖に身を任せたウルは、僅かに微笑んだ。あと少し力をこめるだけで、2度とあの痛みを味わう事がなくなる。もう少しで、逃げ切れる。
この男からも、あの痛みからも。
「やめろおおおおおおおおお!」
ーー パキィン ーー
放たれたボルトが見事匕首を砕き、そして共に放たれた風圧が、ウルを吹き飛ばす。
安心している暇はない。クロスボウの装填にはもう間に合わない。剣を抜き、振り返りざまに斬り払う。
ーー キンッ ーー
壁にでもぶち当たったように、刃が弾かれる。
いや、例えではない。迫り来る、視界の全てを覆うほどの、鈍色の壁面。それはおそらく、タワーシールド。
ーー ドゴッ ーー
衝撃。次に鈍痛。身体は宙を舞い、岩場に叩き付けられる。
息をしようにも、肺には空気が入らない。
せめて妹を。ウルを逃さなきゃ。
あと少し、強い身体があれば。もう少し、マシな『天賦』に生まれていたなら……
アル•コールは、おそらく生まれて初めて、自分の運命を呪った。
*
ウルは、先代当主ラヴ•コールと使用人の間にできた子である。『商人』の天賦を持って生まれた彼女は、コール家の後継、アル•コールの付き人として、幼少の頃から共に育てられた。
名家らしからぬ『醸造家』という天賦のハンデをものともせず日々成長するアルを、ウルは実兄のように慕い、その感情はコール家が没落した後でも変わりはしなかった。
冒険者に身をやつし、生きる為必死で足掻いた日々は、二人の絆をさらに強固なものにした。そして気がつく頃には、二人の関係は主従を超え、兄妹となった。
しかしそんな二人で過ごす冒険の日々は、アルと母親の再会によって、いとも簡単に終わりを告げた。難病に侵された母の最後の願いは、コール家の再興であった。
ウルにとって、アルの母の存在は息子を追い詰める呪いでしかなかった。領地を買い戻す為の資金と母の薬代を調達する為、アルはゆっくりと、しかし着々と道を踏み外していった。
ギルドからの依頼では母のための布施を賄えず、やがてアルは隠し酒場で仕事を探すようになった。そこでも実入の良い仕事が見つからないと、ついには山賊の真似事までするようになった。
母さんのため、家のためと言って日に日にやつれていく兄を、それでも黙々と妹は支え続けていた。
拷問官と名乗る男に、出会うその時まで。
*
「ゆるして下さい。ゆるしてください。許してください」
右手を庇いながら、ウルは地面に頭を擦り付けて何度も同じ言葉を繰り返していた。
「許して下さい許して下さい許して下さい許して下さい」
何故自分が謝らなきゃいけないのか。分からない。
兄貴があんなことするから。兄貴があんな母親でも見捨てないから。兄貴が……優しいから。
「許して下さい許して下さい許して下さい許して下さい許して下さい許して下さい」
兄貴は、この痛みを知らないでいい。知っちゃいけない。知ったら壊れちゃう。
「まっままぁ まって。まってください」
自分の横を通り過ぎようとする泥だらかのブーツに、なりふり構わずしがみ付く。
見上げることの恐怖。あの言葉を囁かれる恐怖。あの怪物に自ら抱きついているという恐怖。それに晒された自分がどんな顔をしているかなんて、もうどうだっていい。
「ああの、わた…が わわたっ わたしが」
私が代わりに罰を受けます、だから兄を見逃して下さい。
ーー ズキッ ーー
経験していない筈の痛みが、出かかった言葉を無理やり飲み込ませる。
右手から徐々に広がっていく、ある筈のない痛みの記憶。それに晒された体は、脳の指示にした従わない。
ーー ずるっ ーー
力の入らない両手では、目の前を怪物を止められない。
「ウッ ウワ゛ア゛ア゛!!」
泣き叫ぶ。
這いずりながら兄貴の体に覆い被さる。暖かい。鼓動を感じる。まだ生きてる。
涙が滲んだ目では、男の姿は見えない。感じるのは、突き刺すような冷たい視線と、べちゃり、べちゃりと湿った土を踏み鳴らす靴音。
「アア!アアァア!! ウアア!!!ウア゛ア゛ア゛ア゛!!」
最後の最後、搾りかすのような、腹の底に残っていた僅かな勇気を、ウルは握り拳に込めた。
兄を守るため、泣き叫びながら駄々を捏ねる子供みたいにそれを振り回す姿を、男はただ静かに見下ろしていた。
「参ったな。これじゃあ俺が悪者みたいじゃないか」
思ったより嫌な話になってしまいました。
あまり陽気なものが書けず申し訳ない。