2022年2月23日(木)伊藤蓮 後編
春風高校のまわりは伊藤にとって魅力のない田舎だった。
通学路の周りどころか地平線の先まで田んぼがあり、片側二車線の平坦な道はどこまでも続いていた。道路には車に轢かれたカエルやカメを見かけることもよくあった。
平坦な道を自転車で行けば映画館もコンビニも本屋もネットカフェもボーリング場もカラオケ店もあったが、伊藤たちにとってはないものの方が多かった。そもそもすべてのお店は自分たちのような高校生に向けられていない古くさいものなので、若々しさとは縁遠く、つまらないと感じるものばかりだった。
そんな町から南海電鉄に三十分乗るだけで難波にたどりつける。
難波はJR大阪駅周辺からは少し南に離れた場所にある。大阪ミナミとも呼ばれている。そこは大阪駅のように高層ビルに囲まれているわけではないが、商業ビル群が建ち並び、人々の往来は常に多く活気にあふれている。そして道頓堀川に近づくと特徴的な建物がいくつも現れる。
高層ビルから砂時計の形をくりぬいたような建物であるなんばヒップスや、松竹座の建物があり、その近くには道頓堀川が流れている。
道頓堀エリアに入っていくと、様々な食べ物屋が見え、よしもと新喜劇と関わりのある劇場などが見えてくる。笑いと食のエリアだ。川を渡る橋は広く、そこからはグリコの看板が見える。その場所は野球チームの勝利のお祝いに飛び込む人が後を絶たない場所としても有名だ。
伊藤と渡辺はこの難波が好きで平日も通っていた。大阪駅周辺も魅力的だったが、大半のことはここで済んだ。
ここには自分たちの世代でも楽しめるものがたくさんあった。甘いものから脂ぎったものまで、美味いものを食べるだけでも満足感があり、近くのアメリカ村にまで足を運べばオシャレな服も十分にそろえることができた。
「ベタだけどたこ焼きやっぱ美味しいな」
伊藤が満足そうに腹を軽く叩いた。ただ膨れてはおらず細身のままだ。
「冷凍のやつより百倍は美味かったな」
「千倍ぐらい美味いだろ……あ、ついでにグリ下のぞいていかね?」
渡辺の返答を待つまえに伊藤はグリコの看板の下、通称グリ下まで足を運んだ。
道頓堀川にかけられた橋には両側に下へと降りるための階段があり、降りるとそこには道頓堀川に沿った遊歩道がある。そこではアイドルイベントが開催されていることもあるが、何もなければ橋の下やグリコ看板の下に若者がたむろしている。
通称、グリ下と呼ばれる。そこでは東京のトー横と同じく、行き場のない若者たちが集まって談笑、あるいは死なないための活力を蓄える場となって荒れていた。
「伊藤か」
声をかけてきたのは水色のパーカーを着て、少し腰の曲がった若い男だった。本名は分からないがDJササキと呼ばれている。ただDJをしている姿を伊藤は見たことがない。
「おう、ササキ。元気そうだな」
「元気なものか、そっちは動画投稿で有名人になったらしいな」
「さて、俺は出てねえから分からないな」
「あの金髪のやつとは仲がいいんだろ? まえに一緒に来てたじゃないか」
「仲は良いけど、あの動画に関しては知らないな」
「ふうん、まあそう隠すならもう聞かないさ。面白くもなさそうだしな」
「どうも。で、なんでササキは元気ないんだ? DJらしく元気だしてくれよ」
「元気出そうにも面倒なことが色々あったんだ。ここもトー横同様、児童買春とか薬物売買とかオーバードーズとかの場所になってしまってること、お前も知ってるだろ?」
「まあな。それがどうかしたか?」
「それが犯罪の温床になったとか何とか言われて、グリ下も警察の巡回がすげーウザくなったんだ。はっきりいって薬物の密売人っぽいやつがいなくなったのは良いんだが、俺とか関係もないのに補導されそうになる。そうなると証明が面倒なんだよな。免許とか作ってないし、保険証どっかいったし」
「保険証、家にあるんじゃない?」
「お前、分かってて言ってるだろ。家なんか帰りたくねえ。あいつらが死んだら帰ってもいい。そしたら残った金は全部俺がもらうけどな」
ササキの言うあいつらはササキの両親のことだ。伊藤は詳しく聞く気もなかったが、暴力的な親か、言葉も通じなくなるほど気が変になった親のどちらかなんだろうと思っていた。
ただ同情はしない。
伊藤も親との絡みで家に帰る気がないからだ。父親は日常的に暴力を振るう親で、小学生のころに何度も顔を殴られた。そんな父を殴り返したい気持ちで鍛えていたら勝手に蒸発した。それ以降、母親は体と心を壊す寸前まで働いている。その空気が嫌になり学校から直接家へ帰ることが少なくなった。
「それにしても平日の昼間のグリ下は、なんというか平和でいいな。動画撮影してる連中もいない」
伊藤は視線を下に移す。座り込んで膝のあいだに顔をうずめている少女が視界に入った。顔は見えないがゴスロリの格好から同じ年齢ぐらいなんだろうと想像する。
「これは?」
伊藤は少女を指さす。
「パキったわけじゃないらしいぞ。未成年のくせに夜遊びしてたから寝たいんだとよ」
「ふーん、ホテルで誰かと寝ればいいのに」
「交渉に失敗したんだろ。男と寝るには要求が多くしすぎたか。それとも一緒に泊まる仲間とSNSでモメたか。まあいつものことだ」
パキるとは市販薬の過剰摂取でキマることだ。伊藤が住む土地で一切聞くことのない言葉だったがここに通ううちに覚えてしまっていた。もちろん市販薬でパキる程度であれば警察も薬物取引としては強く取り締まれない。
ゴスロリでおそらく地雷系を自称していそうなこの少女は、今はそうでなくてもそういったことを日常的に繰り返し、ササキと同じく行き場をなくしている。誰かと寝ることでしか生活がもうできない。
伊藤はササキのようなグリ下にいる人間との付き合いは好きだったが、心身を衰弱しきってまでグリ下に依存している人間は好きではなかった。ああはなるまい、という憐みの感情しか持てなかった。
「そういやここで薬の売人がいなくなったってことは、なんか別の場所で売られるようになったのか?」
渡辺が聞いた。
「渡辺は薬が欲しいのか?」
ササキは眉根を寄せて顔を険しくした。
「いや、正直いらない。気になっただけだ。その手の商売が監視強化ごときで諦めるとは思えなかったんだ」
「なるほど。とはいえ俺も薬を買っているわけじゃないから詳しくは知らない。ただ噂で聞くのはこの道頓堀のビルのなかの空き室、そこを利用して薬物を受け取ってる人間がいるということだ。いくら賑わってても上手くいかない商売はある。メイン通りであっても建物ごと取り壊す予定のものもあるぐらいだ。
まあ郵便配達の不在連絡票を上手く使って上手く密輸入とかしてる連中もいるらしいけどな」
「随分と詳しいな」
「最近の流行りの売買方法ぐらいネットを見ればわかるだろう。肝心な売人の話とか、場所とか、そういう具体的な情報は知らないから詳しくないと言っただけだ。まあ、この辺の空き室なんて入れ替わりが激しいから、そう簡単に空き室を指定場所にできるとは思えないんだがな」
南海電鉄のなかで伊藤と渡辺は黙々とスマホをいじる。
「川崎たちも連れていけばよかった」
伊藤がスマホに視線を落としながら言う。スマホではラインではなくソシャゲのモンストが映っている。
「どうして?」
「男としか喋ってない。というか女と喋りたくなってきた」
「電話でもすればいいだろ」
「電話と本物は全然ちがうだろ」
はやく大人になってホテルが使えればもっと自由になれるのだろうか、などと悶々と考える。田舎のホテルは年齢確認が厳しいため使いにくいし、お互いの家が使えるとはとても思えない。
難波からはなれ、いつも見ている町並みが視界に広がった。
相変わらず何も面白みのない町並みに見えた。炎上動画とか作ったところで、そもそも何も話題にならない気すらした。
電車から降りて改札口から出る。
「あ」
伊藤から出た声ではなかった。伊藤は彼のことを見てわざわざ反応をするような人ではなかった。
声を出したのは同じ春風高校一年B組の天城大智だった。その隣には彼女の吉田美月がいる。
伊藤は天城のことをよく知らない。友人でもなく、シャー芯発火のような悪ふざけのときに混ざって騒ぐようなことは決してない。スポーツができ、なおかつ体つきも出来ているにも関わらず帰宅部ということだけは知っている。天城の彼女については興味がない。他人の彼女であることからタイプでもない。
そもそも天城も自分のことを知らないだろう、と伊藤は思う。
「なんだよ」
ケンカするつもりはないので、伊藤は険しい顔にはあえてすることなく言う。
「あーいや、特にはない。ホントにない」
天城は固い笑みを浮かべて視線をそらす。本当は動画のことで何か聞きたいことでもあったんだろうなと思うが伊藤は気にしない。
天城が「あの動画は良くない」とでも言うのならケンカも考えたが、天城は少なくともそういう正義感のある人間ではないはずだ。
一年B組の教室に正義感の溢れまくった人間が一人もいないとすでに証明されているからだ。
「ねーいこ、あっちもなんか用事あるんじゃないかな?」
吉田が天城の腕をつかんで言う。
「そうだな。いや、不快にさせたんならゴメン。じゃあ、また」
「おう、じゃあな」
渡辺は「なんだあれ」と言って首を傾げた。
天城たちが立ち去っていく姿を見ながら言った。
「さあ、まあ知らねえやつのことなんか気にする必要ないさ。さっさとシャー芯発火動画軽くアップしておこうぜ」