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2022年2月20日(日)九重誠二 前編

 嬉しい悲鳴という言葉がある。

 忙しさに悲鳴をあげつつも、お店は繁盛するので嬉しさがこみ上げるという意味をもつ。だが快晴の日曜日には疲弊以外なにも感じない。売上はしょせん店のものであり自分たちの給料には反映されない。

 毎週憂鬱だなと九重誠二はバックヤードでため息をついた。

 ホームセンターイケダの大阪店で働く九重は家具部門を担当している。プラケースや本棚といった家具が主な商材だ。ガラスがふんだんに使われた高級家具までは扱わない。だがそれでも、商品を運ぶためバックヤードと店内との往復は疲れる。


「九重くん、カラーボックスの白色って在庫もうないの?」


 パートの篠原がバックヤードにやってきた。小柄でありながらも歩幅は大きくしっかりと九重の前まで歩いてくる。健康的な五十代の女性だ。

 忙しい日は休む暇をほとんど与えてはくれない。


「昨日、在庫も全部売り切っちゃったんで、来週火曜までは在庫ゼロです」

「現品を売るしかないの? もったいないねえ」

「余剰在庫かかえたくなかったんです、すみません」


 現品、つまり展示品を売る場合、定価そのままでは売れない。見本なので客の誰かがすでに触っているだろうし、その際に傷がついている可能性が高い。そのため値下げは必須だ。ただ値下げをすると利益を削ることになる。避けられるものなら避ける事案だ。

 ただ九重はそれより在庫をあまり持たない選択をした。

 一週間の売り上げ推移から見て、それ以上の発注は意味がない。そもそも、バックヤードにはカラーボックス以上に大きな家具の在庫が積まれており、空きスペースはほぼなかった。

 たまたま運悪く土曜日に集中して売れた。それはイレギュラーなので仕方のないことだと九重は考えている。


「お客さんには私から説明します」

「そりゃそうよ、お願いね」


 パートの篠原がため息をつくなか、九重はそれを横目にバックヤードから出た。

 店のなかを歩く。全国のホームセンターと同じくここも広い店舗だが、カラーボックスの売り場は今の九重から近かった。

 組み立てられた木製三段の棚、カラーボックスのまえで待っているカップルらしき二人がやってきた九重を見た。


「お待たせして申し訳ありません」

「やっぱり在庫はない?」


 二十代ぐらいの女性が不快そうな顔つきで言った。圧が強いな、と九重はまず思う。黒と金色のメッシュカラーの髪の毛で、大きなイヤリングを両耳にしている。なぜ楽なネットショッピングで家具を買わないのか不思議にも思った。


「在庫は昨日すべて売り切ってしまったので、現品限りになります」

「現品限りっていうと、このホコリが乗ってるこれだけってこと?」


 並んで立っている若い男性は、カラーボックスの上部を手のひらで触りホコリが乗っていることを強調していた。ホコリなどないとは言いにくいが、白いカラーボックスは組み立ててからそれほど時期が経っていないため比較的綺麗なことを九重は知っていた。

 男のやっていることは値下げのための挑発だとすぐに分かった。


「いくらまで安くしてくれるん?」


 やはり値下げがきたか、と九重は思った。「うーん」と露骨に考えるフリをして、ここに来るまでに考えていた値下げ価格を口にした。


「定価が千三百円なので千円でどうでしょうか?」

「現品を持って帰る苦労とか考えてるん?」


 女が男の援護に入った。九重のほうが年齢は上のはずだが、この場は完全に若い二人に支配されてきた。この場をジッと見つめてくるのは他の客だけでなく、九重の同期も含まれていた。


「では、八百円で」

「はは、やればできるじゃん」


 男の表情が急に明るくなったが、九重は同調して柔らかな笑みを浮かべなかった。不快さを押し殺す硬い笑みしか浮かべられそうにない。

 八百円は明らかに原価割れを起こしている。その損額は自分の給料から引かれるわけではないので、実際には何も痛くない。ただ若い男女のカップルに、言いくるめられたことそのものが不快だった。

 現品の白いカラーボックスに八百円の値札をはり、台車に乗せた。「サンキュー」と言ってカップルは台車を押してレジカウンターまで行った。

 カップルの姿が見えなくなると、九重の呼吸は落ち着きを取り戻しはじめた。遠巻きに眺めていた同僚やパートの篠原さんの姿も見えなくなっていた。

 九重は現品を売り切ってしまった寂しい売り場の埋め合わせをすべく、組み立てまえの在庫の箱を積んだ。カラーボックスの売り場には、他の色の完成品も横並びになっているため、見栄えはそれでも悪い。だが何もないよりもマシだった。


「なんで現品安く売ってるんだよ」


 うしろから野太い男の声が聞こえる。振り返らずとも声の主が葛原店長だと九重には分かっていた。胃の痛みを急に感じる。だがゆっくりと振り返る。

 この店舗の正社員のなかでは一番年長とはいえ、五十歳近い男性だ。そんな人間が明らかに不快感を顔に出していた。


「お前なあ、在庫を切らせたら利益出ないだろ。隣にある店舗に取りに行くとか考えなかったのか?」


 店長の言葉に九重の胃はおかしな挙動をしはじめる。体は九重より小さくとも圧は九重よりも強い。最近の腸の不調もきっと店長のせいだろうと九重は思う。


「売れたのが土曜日の夕方だったので」

「夕方なら取りにいけるじゃないか。なぜ行かない?」


 九重は言い淀んだ。確かに取りに行けたし、実際には考えたことでもあった。

 ただその日は早上がりの日だったので、車で近くの系列店の在庫を取りに行くと残業になる。この店はその程度の理由で残業代を出してはくれない。

 そしてサービス残業であれば仕事をやらない。それが九重のなかのマイルールだった。


「やる気がないんだな、ないんだろ? だったら辞めてもいいんだぞ? こんなご時世だからクビだのなんだの、そういったことは言わないけどさ」


 葛原店長はそう言い捨ててバックヤードに去っていった。

 はあ、と深呼吸をする。深呼吸をするとリラックスができるとインターネットに書いてあったからだ。九重はその効果が出ないと感じているが、それでも緊張したときの深呼吸に意味があると信じている。鼻から吸って、口で吐く。それを繰り返す。

 そして、やれやれと思う。

 今回の行いは成績に反映される。ボーナスが削られたり、昇格の可能性がなくなったりするのだろう。

 だが九重はそれでも自分のルールを崩さず後悔もしなかった。

 サービス残業を強要する仕事場に、ご時世を気にする素振りだけ見せたパワハラ発言はネットで言うところの炎上案件であり、正しさはないからだ。そういった悪に屈するぐらいなら、給料が減ったりクビになったりした方がいいとすら九重は思っている。



 九重は店内の家具エリアにある在庫の有無を確認し、少ない商品を頭に記憶して台車を押しつつバックヤードへとさがっていく。変な客の対応や店長のやり取りも仕事のうちだが、バックヤードにある商品の在庫を出さなければ商売にならない。


「九重くん、次はしっかりしてね。あなたの記憶力とかネットの知識とか、そういうのは重宝してるんだからさ」


 パートの篠原さんが急にかけよってきた。店長とのやりとりに気まずさを感じたのか、それとも励ましているのか、九重には分からない。だが篠原の言葉には前向きさがあった。


「すみません、がんばります」


 本当はもっと言い返せる言葉があったような気がする。しかし九重の頭にはモヤがかかったようにその言葉は姿を現さなかった。

 リアルではどうも語彙力も会話力も低下する。インターネットの世界でなら、正しい言葉が出るのだろうと思えてくる。


「あの、九重さんいますか?」


 若いレジ担当の女の子が短いポニーテールを揺らし、バックヤードにやってきた。アルバイトである彼女がバックヤードにやってくることは珍しいことだし、なおかつ息切れをまでしているだなんて、よっぽどのことだと思った。

 九重は直感でよくないことを想像する。


「ここにいます。なんでしょうか?」

「あの、カラーボックスの現品を買ったお客さんが、カラーボックスを壊したみたいなんです」

「え、なんで」

「会計のあと、台車に乗せてたカラーボックスを倒したそうです。それで倒れたのは店側の台車と担当者が悪いからだっていう主張を繰り返してて、全額返金しろって言ってきてるんです。どうしましょう」

「そんなことは私に言われても」


 あの厄介なカップルがカラーボックスを倒して壊す場面を想像する。さぞ滑稽でバカバカしい絵面だったんだろうなと感じる。ただそのあとの態度は八つ当たりでクレーマーでしかない。台車に乗せたカラーボックスの天板を手でおさえて倒れないようにするという知恵が働かなかったことが不思議だ。

 ただ放置できる案件ではなかった。

 九重は正社員としての動きを頭のなかでシミュレーションする。


「わかりました。あとは私が行きます。お客の過失なので返金にはさせません」


 バックヤードから店内に入ると、カップルのでかい声が聞こえてきた。

 遠くにあるレジカウンターの声がバックヤード近くまで響いてくるのは相当な声量ということだ。

 バックヤードの別の出入り口からは葛原店長に続き、二宮副店長まで出てきた。二宮副店長は店長とちがって長身で細身の三十代ぐらいの男だ。九重とあまり年齢差はないが立場は大きく異なっている。

 店長たち責任者が出てきたということは、九重のような平社員の出番はない。むしろ出るべきではない。

 九重は商品の棚から覗くようにしてカップルの動向を見る。なだめる店長と副店長の声は一切聞こえずカップル二人の声だけが聞こえる。足元には横倒しになったカラーボックスが割れて転がっている。天板がはずれ、側面の板が折れて放置されている。完全にもう使い物にならない。

 危機を察した客は買いものをやめてすぐに店の外か、もしくは店内の離れた場所に移動していく。この状況下でレジに並び買い物をする猛者はそういない。

 九重の頭のなかには営業妨害の文字が思い浮かぶ。この程度で新聞沙汰になることはないが、ネットの動画にすればいい撮れ高になるはずだ。動画としては営業妨害と言ってしまっても何の問題もない。

 客の誰かが察して警察を呼んでもおかしくないと身構えていたが、葛原店長がレジからお金を取り出してカップルに渡した。その瞬間、カップル二人の声が一気に小さくなった。

 全額返金をしてうるさい客を黙らせ、ことを荒立てないようにしたんだろう。一番やって欲しくないことだった。

 カップルの二人が立ち去ったあと、葛原店長は商品の棚からこっそり眺めていた九重を見つけた。そして顔を見るなり言った。


「九重、お前なあ」


 葛原店長は何か言いたそうにしていたが、言葉にできなかったのか、そのまま立ち去っていった。二宮副店長にいたっては何も声をかけず、コバンザメのように葛原店長とともに歩いていきバックヤードに戻っていった。

 九重も少ししてからバックヤードに戻った。そして廃棄資材置き場へと歩いて行った。

 廃棄資材置き場には不要な木材の破片がたくさん積まれたコンテナがある。

 周りを見て、誰もいないことを確認してから九重はコンテナから細い木材を一本取り出した。子どもの時分であればオモチャの剣にするようなサイズの木材だったが、それを地面にたたきつけた。


「くそっ」


 木材を踏みつけると簡単に割れた。


「どいつもこいつも、バカばかり、動画のネタにするぞ!」


 店長、副店長、カップルの顔が頭をよぎる。そのたびに怒りがこみあげる。怒りは三秒で収まると聞くが、その三秒の間にさらなる怒りが呼び起こされるため、怒りは続いた。

 割れた木材を拾い上げて手で曲げようとする。曲がるとメキメキと音をたてて割れる。


「カスハラは法律改正でもして厳罰処分されるべきなんだ。誰か立件して法改正まで持ち込めよ」


 まだ割れる余地のある木材だったが、手が痛くなると同時に、九重の破壊衝動は収まりつつあった。これ以上、身体をイジめぬくつもりはなかった。


「あの」


 声がした方を振り返る。さきほど九重を呼びにきたレジ担当の女の子が台車を押してここまできていた。台車には無惨な姿になった白色のカラーボックスが乗っていた。


「普段、この辺使わないんですが、今回はこれを捨ててくれと言われて……。ここであってますよね?」

「あってますよ。でもそのまま出すとかさばるので、踏みつけて押しつぶしたほうがいいです。私がやりますよ」

「いえ、いいです。私、そういうの得意なんで。学校の文化祭の看板とかも、思いっきり踏んで壊したりしましたし」


 この子は学生アルバイトなんだと今さらながら九重は知った。九重は三十五歳になろうとしているので、十歳以上は離れているかもしれない。

 それよりこの子は会話しているときも九重と目を一切合わそうとしなかった。踏みつけて、バカだのカスハラだの言っている場面を目撃されたかもしれない。だが九重のような正社員とアルバイトの女の子の接点はほとんどないので、九重は気にしないでおこうと考えた。

 今日は日曜日で快晴だ。内線が鳴る。休みなく次々と新しい仕事はやってくる。

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― 新着の感想 ―
[一言] や、やばいくらい劣悪な職場ですね……しかし読み返してみると現場のスタッフは主人公に好意的なあたり、価値観がすごくズレてるのはお客さんくらいのようですね。
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