8-1 だから
思いのほか、七澄の超感覚機能はその意識体に馴染んでいるらしかった。
「……んん」
小さく彼女が呻く。柾の部屋の中。ベッドの上に我が物顔で眠っていたのが、目を覚ます。
食事を終えて。
それぞれの部屋に二人ずつが押し込められて、遥かなる夜更け。
ビーズのクッションから起き上がった柾の気配を、どうやら彼女は感じ取ったらしい。指先でその目を擦るのを見ながら、柾は小さな声で、
「悪い。寝てていいぞ」
「トイレ?」
「そんなとこ」
じゃあトイレじゃないってことだ、と。
むにゃむにゃと、異様にやわらかい声で彼女は言って。
そっと、素足を毛布から覗かせて、爪先からぺたりと床につけた。
「……ほんとは何しにいくの」
眠たいならそのまま寝ていればいいのに。
半分の寝ぼけ眼のまま、彼女が言うから。
「散歩。寝れないから」
「じゃあ、私も行く」
ん、と彼女が、両腕を柾に向けて伸ばす。
少しだけ考えてから、まあ仕方がないか、と柾は観念して、その手を掴んで、思い切り引き上げた。
うわ、と彼女は呟いて、
「今の超すごい。ジェットコースターみたいだった」
「そんなでもないだろ」
「あるよ。一気に目、覚めたもん」
そろそろと、二人は抜け出していく。隣の部屋で眠る、考一郎と前川を起こさないように。地球人でない、サイキックの使える存在であるというアドバンテージを、無用に発揮して。
玄関に来て、靴を履く。
扉をそっと開いて、外に出て行く。
相変わらずの大星空が、そこにあった。
家の鍵を一応と閉めている柾の背後で、七澄は首を大きく傾けて、それを見つめている。
柾がそれを終えて歩き出してからも、そのまま少しだけ、彼女はそこに留まったまま、ぼんやりとしていた。
柾が立ち止まって振り返ると、二人の距離が開いたことに気が付いて、ようやく小走りに、彼女は追いついてくる。
「ごめん」
「何か珍しいものでもあったか」
「あったよ」
「何」
「夢と希望」
突っ込みづら、と柾が言えば、へへ、と七澄は笑った。
「どこ行くか決めてる?」
「特にない。適当」
「深夜徘徊だ」
誰もいない住宅街を、歩いていく。
寝静まっている気配すらもない。どこにも人がいない。それに釣られて、あらゆる生き物もいないように思えてくる。
「私、ちょっと憧れてたんだよね。そういうの」
「なんかわかるかも。俺も夜の学校とか行ってみたかった」
「行ってみる? 今ならすぐだよ」
「いいよ。飛ぶような気分じゃない」
凍ると呼べるほどの夜ではなかった。
雪があれば溶けただろう温度。けれど、未だ春の花は芽吹かない程度の温度。境界線。桃色と青色の入り混じる、奇妙な時間帯の、奇妙な季節。
歩けば歩くほど、遠くへ進んでいく。
自動販売機も、公衆電話も、光ることをやめている。
コンビニののぼりが立っていて、けれどそれを二十四時間照らし続けていた店の明かりは今、それがまるで遥か古代の話であったかのように沈黙している。
その中を、二人は歩いていく。
ときどき、もう何も教えてくれはしない信号機に、しかしこれまでの習慣のために、その色を見出そうとしたりしながら。いくつもの道を横切って、あるいは真っ直ぐに行って。
「話せたの?」
不意に、七澄が言った。
「そっちこそ」
軽い調子で、柾は返す。
「俺が考一郎のこと二階に連れていくまで、なんか喋ってただろ」
「あれ。聞こえちゃってた?」
「いや。ジャミングかけてるから聞かれたくない話なんだろうと思って……聞き耳立ててた方がよかったか?」
「うーん。でも、そんなに大した話はしてないよ」
彼女も、同じような口調で、
「このたびはすみませんでした。ラスボスです。明日死ぬんで許してください……そんな感じ」
「それ、どんな反応だった?」
「なんかつらそうな顔されちゃった」
「ああ。なんか思い浮かぶ」
「言わない方がよかった?」
いや、と柾は、唇だけで。
「言わなくても、どうせ気付いたよ。あの人は」
そっか、と七澄も、それ以上は言わず素直に頷いた。
「それで?」
「ん」
「塔山の方は、どんな感じだった?」
うーん、と今度は柾が唸る番。
「……決着した、って感じかな。何かが解決したわけじゃないけど、なんか、きっぱり決まったと思う」
「立ち位置が?」
「そう。そんな感じ」
「話せてよかった?」
「……どうだろ」
視線は、逃げるように星空へ。
薄く、白い息を吐きながら。
「何も決まらないなら、それでもよかったと思う。……でも、そうじゃなかったことを、ダメだとも思わない」
「……そっか」
「あ」
「ん?」
七澄が不思議そうに見てくるのに、柾は指をさしてその視線を誘導した。
「公園」
図書館の前。始まりの日。
ここで〈DPS〉を使ったのが最初だったんだ、と言えば。
そうなんだ、と言って七澄は中へと入っていった。
続いて、柾もその背を追って中へ。
「うわ。ベンチもう直ってる」
「壊れたの?」
「壊された。お前の仲間に」
「このたびはうちのものが大変失礼を……」
すぐに目に入ったのは、それだった。
あの日、スライムに噛み砕かれたベンチ。それが今は、真新しいものにすり替わっている。
「あ、しかもデザイン変わってる」
「これなんだっけ。英語でやんなかった? こういう真ん中に仕切りがあるやつ」
「Hostile architecture」
「それ。……おかしいな。宇宙生物と融合したのに記憶力が……」
「俺も記憶はよく吹っ飛ぶぞ」
「ナイスブラックジョーク」
七澄がそれに座る。
柾もその隣に、仕切りを挟んで座った。
月が綺麗だった。
星も。夜風に雲はゆっくりと揺れて、移り行く冬の終わりの全てが、二人の瞳を静かな川のように流れていた。
「……私、ついてきてよかった?」
そこで初めて。
彼女は、不安そうな声を出した。
「邪魔だった? もしかして」
「急に?」
「いや、強引についてきちゃったから……。ていうか、最初から全部そうだけど」
柾は七澄を見る。
けれど、彼女は彼を見ていない。視線は夜空。けれど、本当の意味でその空を見ているわけではないことは、その月光色の横顔を見るだけでも、よくわかった。
「なんか、塔山がものすごく深刻な話してる横でさ、私、こんなんだし」
「こんなんって?」
「一人で盛り上がって、世界を滅ぼすぞーとかやって、後悔して、うわーってなって、で、こんなん」
馬鹿みたいじゃない?と。
本気の声で、彼女は。
「考え足らずっていうか、適当すぎるっていうか……。それで東京、こんなんになっちゃうし。みんなが真面目にやってるの見てたら、なんか私、とんでもなくダメなやつだなって。生きてて恥ずかしいっていうか……」
「でも俺は、お前が生きててよかったと思うよ」
ものすごい顔で、七澄が柾を見た。
だから今度は、柾の方が彼女から視線を外して。
「たぶん、お前以外がコアだったら、もう俺の人格はなくなってると思う。自暴自棄で――東京とか、平気で沈めてたかもな」
「へ、へえ」
「最初に右腕がこれになったとき――」
柾は、自分の右の腕を見る。
金属腕から、元の形に戻して。
「面白いよな。たぶん、自分一人だったら、もっと早く自分のことに気付けたと思う」
「……混乱させた?」
「二人だったから。なんだっけ、あれ。人が多いとかえって効率が低下するってやつ……」
「リンゲルマン効果」
そんなんだっけ、と彼が言えば。
そんなんだったよ、と彼女も答えた。
「二人いたから、たぶん、考えるのをサボったんだと思う。一人だと、不安に思いっきり向き合わなくちゃいけなくなるだろ。でも、二人だともう少しだけ余裕ができるから……」
「すごい。こんなに自分の怠惰を肯定的に捉えられる人がいるなんて……」
「真剣にならなくてもいいっていうのは、幸せなことだろ」
「そうかな」
「俺にとっては、そうだった」
そういえば、と彼女は言った。
「前に数学でさ、二人揃って予習してないところ当てられたじゃん」
「ああ。黒板の前で……」
「めちゃくちゃ恥かいたけど、ちょっと面白かったよね。漫画みたいで」
「あれ京大のやつの類問だったよな。その場で二分で解けるわけがない」
「今ならできるけどね」
今ならな、と彼は頷いた。
「まあ、お前は確かに地球人の恥さらしの裏切り者で、生まれてすみませんな感じのやつかもしれないけど……」
「えー……そんなはっきり……」
「でも俺は、お前がいなかったら、すごく嫌だよ」
彼女の呼吸が止まる音。
ひどく小さな声で、舌の上。そう、と音が乗る。それを聞き取れるのは、この場にたった一人だけ。
言葉が尽きれば、星ばかりが囁く夜が来る。
きらきらと、さらさらと……光の砂は紺色の空の手から零れ落ちて、地上の影へと降り注ぐ。ありとあらゆる分子と原子と擦れ合って、やがては彼らの皮膚に止まる。
にゃあ、と小さく声がした。
二人は揃って、パッと振り向く。
「ねこ」
「猫だ」
考えてみれば、当たり前の話。
避難地域、宇宙生物同士の戦い――それらの情報を得られるのは、言語性の、かつ伝達率の高いコミュニケーションに浸った人類たちだけ。虫も鳥も動物も、まるでそうしたものとは関係なく、そこに居座り続けることだってある。
薄茶色の猫だった。
よほど人慣れしているらしい――二人の座るところまで、とことこと歩いてくる。柾の服の裾に、頭を擦りつけてくるまでした。
柾はコートのポケットを探った。
さっき、スーパーに行ったときに、と思い出して。
「あ、でも」
七澄の方を見て。
「猫って、チョコはだめなんだっけ」
入っていたのは、小さな十円のチョコレート。
食べるかな、と思ったけれど、確か犬はダメだった気がする、と思ったから。
「あー、うん」
七澄は頷いて、
「たぶんダメ」
「たぶん?」
「え、何?」
「いや、七澄って猫飼ってるだろ。詳しいのかと思った」
不思議そうな顔を、彼女はする。
それから、ああ、と頷いて。
「部屋ガン見してたんだ」
「……いや、そんなでもないけど。でも、なんか猫用のグッズあったから」
「飼ってはないよ」
おいで、と七澄は屈みこんで、猫に手を差し伸べた。
素直に猫はやってきて、その手に頭を擦りつける。
優しいような、悲しいような。
そんな表情で、彼女はそれを、撫でていた。
「家に誰もいなくなって、暇だったからそのへんの猫に餌付けしたりして遊んでもらってただけ。……でも、この間『野良猫に餌をやらないで』って張り紙がされちゃって、それからはやめちゃった」
行きな、と彼女は猫の首を、優しく叩いた。
私たち、何も持ってないんだよ、と言って。
そうして猫が去っていくのを、二人。
肩を並べて、見ていた。
「……なんか、暗くしちゃったね」
そう言って、彼女は立ち上がる。
振り向いて。
「帰ろっか。……あ、もう少しここにいる? それなら、私一人で……」
それに黙って、柾は手を差し伸べた。
彼女はそれを不思議そうに見て……それから、自分がさっき部屋でやったのと同じことなのだろうと考えたらしい。その手を引っ張って、立ち上がらせようとした。
しかし、柾はそうしない。
ただそのまま、彼女の手を握ったまま、座り続けていた。
「……え、何? 腕相撲?」
彼女が言う。
柾は動かない。
「……あの、恥ずかしくなってきたんですけど……」
何?と彼女が訊けば。
ようやく、彼はゆっくりと唇を開いて。
「今、ちょっと七澄のことを尊敬してた」
「なに、なんで?」
「好きって伝えるの、すごく勇気が要らないか」
銀河の匂いがした。
冷たくて、清潔で、輝いて――生まれてきてから見た、一番大切なものによく似た匂い。
「へ」
「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」
かつて呟いた言葉。
それを、柾は彼女を見つめたまま、呪文のように唱えて。
「少なくとも俺が……最初の俺が、ずっと遠いところからこの星まで来たのは、自分のことを好きになってくれる相手を傷付けるためじゃない――今になって、そう思う」
彼女はしばらく。
理解が追い付かない、という顔をしてから。
「え、あ、……あれ? そういう、え、そういう、話だっけ」
「そういう話になったんだ」
「……いや、え、や、」
ううん、と彼女は。
冬の名残の夜風に、黒い瞳を濡らして。
「勘違いだよ。なんかほら、弱ったときに、傍にいたから、とか」
「そういうのは、俺の星じゃ勘違いとは言わない」
「うそ。適当言ってる」
「かもな。でも、それはお前が決められることじゃない」
彼女が身を引こうとする。
けれど、柾が決してその手を離そうとしないから。
彼女は、逃げ出すように顔を逸らしたまま。
「…………いつから? 今?」
「知らない」
「それ、」
「ゆっくり、好きになったんだ」
七澄、と。
彼は、彼女の名前を呼んで。
「俺は、無敵の宇宙生物だ」
ずっと、考えていたことがあった。
七澄京子。
移動用侵略宇宙生物と融合した地球人。
彼女を殺さなければ、この星は滅びる。
そんなことを、誰が決めたんだ。
「……無理だよ」
「神様から教えてもらったのか」
「今までのこと、考えればわかるでしょ。そうできるなら、ずっと昔の時代に、最初からそうしてた……」
「勝てる勝負を、面倒がっただけかもしれない」
「かもしれない、に賭けられるの?」
「賭ける」
コアモンスターを殺さないことは、すぐさまこの星の滅びに繋がるわけではない。
必要とされる、もう二つのプロセスがある。
コアモンスターが、そのサイキックで強種を呼ぶこと。
この星の生き物全てを滅ぼす力を持つ、大いなる生き物を呼び出すこと。
それが、プロセス1。
プロセス2。
その強種が、この星を力によって滅ぼすこと。
シンプルな話だった。
選択肢は、二つではなかった。
彼女を殺して、星を救う。
彼女を生かして、星を滅ぼす。
そして、もう一つ――――、
「呼べよ、ラスボス。
お前が好きだから、お前じゃない方を殺す。
俺にはそれを、選ぶ権利があるんだ」
プロセス2の破壊。
RPGのお約束。
ラスボスを殺して、世界を救う。
たったそれだけの、単純な話。
「…………こわ」
彼女は俯いていた。
前髪で、額に影を作って、目元も隠して。
「怖いよ、その発言」
「嫌いか、そういうの」
「いつから決めてたの」
「知らない。ゆっくり、そういう気分になった」
「そればっか」
そればっか、と。
もう一度、彼女は言って。
「怖いときの塔山、あんまり好きじゃない」
「優しくなれるように努力する」
「私、生きてるのあんまり好きじゃないよ」
「俺はお前が生きてるのが好きだ」
「…………」
「そして、お前は俺が好きだ」
は、と。
「――はあっ? 普通そういうこと……」
「言うよ。嬉しかったから」
それから、彼はようやく立ち上がる。
背が高いから、彼女は見上げるような格好になって。
「愛してる」
そう、柾は。
水のない星に降る、たった一滴の雨のように、言ってのけた。
「…………」
「ほら、早くしてくれ。力ならちょっと貸してやるから」
「いや、でも……」
「無理やりしてやろうか」
七澄は眉間に思い切り皺を寄せて、
「……わかった。わかりました! やればいいんでしょ、知らないからね!」
「知らないも何もないだろ。俺がいなかったら、最初からそうするつもりだったくせに」
「……そうだけど!」
そうだけど、と彼女はもう一度言ってから。
柾の目を、じっと見つめて。
「私、自分が嫌い」
「……うん」
「別に、最近急にとか、そういうことじゃなくて、ずっと。ずっと嫌い」
「俺は最近、ちょっとだけ」
「でもね」
握る手に、力を込めて。
「塔山といるときの自分は、ちょっとだけ好き」
だから好きになったのかな、と。
彼女は言うけれど、答えなんて、誰も知るわけがなくて。
やがて彼女の唇から、銀河の果ての言葉が零れ出る。
それが、最後のいのちを呼ぶ魔法。
巨大な八本足の影が、星の光を遮って、地球の上空に現れた。




