5-1 それで丸く繋がる地球
「一旦落ち着こう」
その言葉を柾が口にできるようになるまでの道のりの、果てしないことと言ったら。
いつの間にか、時計の短針は重なる数字を変えていた。
この真冬だというのに騒ぎ疲れた柾と七澄は互いに額に汗をかいているし、叫び過ぎたせいでちょっと声もおかしい。この家の壁の厚さ如何によってはいつ近隣住民に通報されていてもおかしくないような慌てぶりだったし、実際のところ今「落ち着こう」と言えた柾も、後からその可能性に気付いてしまって別の不安を心に抱え始めている。
一方で、身体を覆っていた気だるさは消えていた。
ひょっとして、この身体に変わるがために妙な熱を発していたんじゃなかろうな、とも勘付いてしまう。
「いやちょっと、無茶言わないでください」
七澄が言った。
「落ち着こうって、これで? どうやって?」
「いや、いいから」
「目の前に昆虫になりかけてる人がいて、それでどうやって?」
「いや、本当にそういうのいいから。とりあえず一旦落ち着こう」
「いやだから無理だって!」
「つべこべ言わずに頼むから落ち着け!! やってみろ!! 落ち着くと落ち着くから!!」
到底落ち着こうとしているとは思えない声色で、柾は叫んだ。
そして目の前の七澄の肩を掴もうとして、スッと避けられた。
「あの、ごめん……。こんなときに言うのもなんだけど、私、蜘蛛はセーフだけど虫はアウト……」
兄貴の逆版か、と柾は思いながら。
しかしこの状況で七澄に去られてしまったらつらい、一人でこんな異常な現実と向き合わなくちゃいけなくなる、と瞬時に計算して。
スッとその手を、ベッドの毛布の中に差し込んで、見えないようにした。
「……落ち着こう。ほら、何もなくなったろ」
「すごい……。不登校の私から見ても並外れた現実逃避能力だよ」
「黙れ」
「こわ~……」
怖いのはこっちの方だよ、と逆ギレをかましたい気持ちもあったが、しかし当然逆ギレ一般には正当性というものがなく、またそれをしたことで七澄に帰られてしまっても困るので、柾は天井を見た。白い。一、二、三。数を数えて、現実世界に戻ってきた。
「俺は今……すごく困っている」
「だろうね。それで困らなかったらたぶん世界で生きてる人の中で一番肝が太えと思うよ」
織田信長が生きてたとしてもトントンだと思う、と七澄は言った。
「織田信長だって自分の右手がいきなり虫になってたらちょっとビビると思うし」
「いや織田信長だって流石に大ビビリする……何の話だよ。七澄、自分で何言ってるかわかってるか?」
「いや……全然わからんけど……」
七澄は両手で顔を覆って、
「見なかったことにして帰っていい?」
「その場合、お前が侵略宇宙生物に力を貸したことを色んな方面にバラす」
「うわー、ひどい! 信頼してるから打ち明けたのに!!」
「互いに頼り頼られていこう。人間社会っていうのはそういう風にできてるんだ」
す、と左手を伸ばして、柾は七澄の制服の裾を掴んだ。
絶対に逃がすまい、と強く心に誓っている。
「一般的にこういうのは、頼り合いっていうより弱みの握り合いって言うと思うんだけど」
「握り合っていこう。そういう風にして世界は繋がっていくんだ」
「いやだな~……それで丸く繋がる地球……」
ええい、と柾は七澄の口答えを抑え込むべくして言う。
「いいだろ! お前だってなんか、深夜テンションで地球を滅ぼそうとしたとか滅茶苦茶な話して俺に受け入れられてるんだから! 俺の右手が虫になったのだって誰かに受け入れられたって! いいよなお前は俺に受け入れて貰ってて! 俺にだって俺がいたらな!!」
「自分で何言ってるかわかってる?」
「わかってるわけないだろ」
もう何もかもが滅茶苦茶だった。
たった今、自分の手が、あるいは友人の手が昆虫のそれになっています。
そんな異常な状態を、十代そこらの高校生二人が受け入れられるわけがない。
だから「落ち着こう」と言ってからもさらにひたすらに、混乱の中で時間だけが過ぎてゆき――結局、喉が渇いた二人がスポドリを分け合って飲んで、それでもまだ喉がおかしいから一旦キッチンまで行って、コーヒーを入れて、お互いがお互いの砂糖とミルクの癖を把握して、そして部屋にのっそり戻ってきてからが、まともな話し合いの始まりになる。
その頃には、さらに短針は重なる数字を変えていた。
「……心当たりとか、ないの?」
あるよね、という口調で話し始めた七澄の手には、半分がミルクでできたコーヒーの入ったマグカップが握られている。
「まあ……これ、だよなあ」
ちらり、と〈DPS〉に目を向けた柾の手には、一方でシュガースティックを半分だけ入れたコーヒーが。
これ以外に考えられない、と柾は思っている。
コーヒーの飲み方の話ではなく、自分の手がこうなった原因。
〈DPS〉が何かの悪さをした、以外の可能性は考えられないと、そう思っている。
「何。塔山って変身すると虫みたいになるの? そんな感じだっけ」
「いや、全然そういう感じじゃないんだけど。もっと普通の……普通のっていうのもなんか変か。もっとロボっぽい感じ」
「パワードスーツみたいな?」
「ああ、そうそう」
実際のところパワードスーツの現物を見たことがあるわけでもなかったが、とりあえず柾はイメージだけで頷いた。どうせ七澄だって確固たる形を浮かべて口にした発想ではあるまい。
「でも確かに、この〈DPS〉……変身装置自体は、なんか虫っぽいんだよな」
「そうなんだ」
「ああ。実際動かしてみるとわか――」
「やめてね」
はい、と素直に頷いた。
虫がそれなりに大丈夫な自分でも結構動きがキモいと思うのだ。ただでさえ虫が苦手な七澄に見せるのは酷だろうと、そう思って。
「このまま世界を救うために変身し続けて、まるっきり虫になるの?」
七澄がずばり訊いた。
言うなよ、と柾は思った。
ちょっと自分でもそうなるのかなって考えてたんだから。
もうちょっと気付かないふりをしてくれよ、と。
「……逃げようかな」
「そうしたら? ……まあ、私の責任も結構あるし、そのときは一緒に逃げてあげるよ」
「『結構』ある? 逃げて『あげる』?」
「速やかに全責任を認め、謹んで逃避行させていただきます」
ぴしっと背筋を正した七澄に、いや別にそれはいいんだけど、とすぐさま柾は言って、
「ただ揚げ足取りたかっただけだし別に……」
「最悪」
「うわでもマジか。そうなるのか、俺」
そうでしょうね、と七澄も言った。
夢になってないかな、と思って柾は少しだけ毛布を上げてその隙間から自分の右手を覗きこんだ。
お、と声を上げてみた。
何々、と七澄が興味を持ったようにして首を傾けた。
ほら、と七澄にも見えるように毛布をめくる角度を変えてやると、
「……全然変わってないじゃん」
「いや、グロいからおすそ分けしてやろうと思って」
「グロハラですよこれは」
「人の右手をハラスメント呼ばわりするな」
でも実際、七澄の右手がこのグロテスクな昆虫状態になったとして、目の前で「ほらほら」とか言われて見せびらかされたら、絶対に自分もそれをハラスメント認定するだろうな、と柾は思いつつ。
それから、どうすべきなのかという建設的な方向に、ようやく思考を割き始めた。
「……真面目な話なんだけど、どうしたらいいと思う?」
「病院、とか言ってほしい?」
「もうそういう気休めの季節は過ぎ去った」
「じゃあ、お兄さんに訊いてみるしかないんじゃないの?」
七澄は〈DPS〉を見やりながら、
「だって、それなんでしょ? 原因。謎の秘密結社がくれた謎の武器」
だったらそこの構成員のお兄さんに訊いてみるしかないんじゃないの、と。
「そういう副作用が出るタイプなのかもしれないし」
「まあ、そうなるよなあ……」
「何。なんか嫌なの?」
「嫌ってか……」
うーん、と柾が唸っていると、七澄は続けて、少しだけ気遣うように、
「お兄さんと関係悪い感じ?」
「いや。むしろ普通の兄弟よりかはいい、と思うんだけど……」
「けど、ってことはなんかよくないところがあるんだ」
言うべきか、言わざるべきか。
十秒だけ迷ってから、結局、柾は口にした。
「よくわかんないんだよ」
「……どういう?」
「あの人がそんな怪しい組織の一員だってことも最近になるまで知らなかったし。てか俺、そもそも家族のことよくわかってないんだよな」
「よくわかってないって……」
不意に、七澄は辺りを見回した。
この部屋の中。
さっきからあれだけ騒いでいるのに家人の誰ひとりとして姿を見せない家の中。
あるいは、車のない一軒家の外観。玄関に並べられていた靴の少ない足数。
そういうものを思い出しているように、柾には見えた。
だからおそらく察されているだろうと予想して、思い切って、
「うち、両親いないんだよ。六年前に事故で、とか聞いてる」
「聞いてる、って言い方は……」
「その頃までの記憶が、実は全くない」
面白いくらいに、七澄の目が大きく開いた。
瞳が小さくなったのかと錯覚してしまうくらい、一息に。
続けて柾は言う。
「記憶があるのは中学くらいからだから、実際には四年より前の記憶が全部消えてる感じかな。アルバムとかも全部ない。火事で燃えたって聞いてる」
ものすごい顔を、七澄はしていた。
そしてその顔の意味が、柾にはわかっている。
「……言ってくれていいぞ」
「うっさんくっさ~~~~」
「だよなあ~~~~~~~」
自分で言っていてどうかと思った。
これまでのところ普通の中学生高校生として暮らしてこられたがために何となく「これおかしくないか? ……まあいいか」くらいで流せていた不審の気持ちが、ここに来て怒涛のように押し寄せてきていた。
「改造されてんじゃない?」
あけすけに、七澄は言った。
「もう全身改造されて人間じゃなくなってるんじゃないの? 変身ヒーローの定番じゃん」
「お前、他人事だと思って平気で怖いこと言うなよ」
「だって他人事だし」
「おい」
「嘘です自分の軽い気持ちがこのような形で塔山さんの意外な生涯に嫌な光を当ててしまったことを大変遺憾に思っております」
心にもないんだかそれとも実際にあるんだかよくわからないような口調の七澄。
一方で、心ここにあらずの状態で毛布に顔を突っ伏した柾。
「……どうすっかな」
選択肢としては、兄に訊くという手段しかないことはよくわかっている。
だって、それ以外に打開点が見つからない。自分の力でこの事態を解決できるとは思えないうえ、目の前の自称ラスボスもドン引きしている以上、兄に相談してみないことには自分に残された選択肢は「座して虫と化すのを待つ」もしくは「世界のこととかどうでもいいからビビって逃げ出す」の二つしか残っていないと、柾は理解している。
けれど。
記憶喪失で。
両親の痕跡もない家で。
兄と顔も全然似てなくて。
挙句の果てに実は秘密組織の構成員でした、なんて言われて。
そしてほとんど何の断りもなく付けられた機械の副作用でこんなことになって。
というか、世界のためとはいえその場のノリと勢いでものすごい相手と戦わされる日々の中にあって。
兄を全くもって心の底から信じられるのか、というと。
いくら家族愛が育っていたとしても、そんなことができるのは能天気な幼稚園児くらいのものだ、と柾は思う。
「……逃げるか」
「え」
「いや、そうか。その手があるな……」
お前もいるし、と柾は七澄を見る。
私がいるとなんすか、と七澄は後退る。
そして、彼は言う。
「一旦ちょっと、距離を置いて色々考えてみようかなって、俺は思うな」
倦怠期のカップルか、と七澄が小さく呟いた。




