1-1 一月
映画はまだ続いていた。
『先生、私――死にたくないんです!』
『わかるよ、キョーコくん。でもね、君が死なないことには話は始まらないんだよ』
『でも私、キスだってまだ……』
「いつ面白くなるんだ、これ……」
けれど、塔山柾はすでにそこから目線を外していた。代わりに見ていたのは、携帯の画面の中。
絶対に観た方がいい、と言われていたのだ。
つい先日誕生日を迎えたばかりの同級生、十六歳になった浅沢は柾に向かって絶対的な自信とともに言った――マジでこの映画はいい。今夜の地上波放送を観なかったとしたらお前は人生の半分を損する。間違いない。俺を信じろ。
信じて観ていたが、しかし時刻はすでに二十二時二十二分。二十一時から始まった映画は一向に面白くなる気配を見せず、実写映画のチープなCGにどんどん体力気力は削られていき、柾は明日の土曜授業が本質的には自由登校であることを思い出しつつある。
だから、彼は思い切って浅沢にメッセージを送ることにした。
自分の感性を疑われるかもしれない、友人の好きなものを否定することで若干の気まずさが芽生えるかもしれない――そうしたリスクがあることを知りながら、あえて送ることにした。
『どのへんが面白かった?』
『ユカちゃんの顔がいい』『初主演』『美そのもの』
人生の半分を損した、と思いながらチャンネルを変えた。
普段は大してテレビを見ない。バラエティに馴染みはなく、また途中からではドラマを見る気もしない。結局いつも兄が居間にいるときにしているようにニュース番組にだけ切り替えて、その間に携帯で面白そうな動画でも探すか、と考えた。
ボタンを押した瞬間だった。
『えー、現場からお伝えしております。先ほど新阿佐ヶ谷駅付近に発生した道路陥没ですが、どうやら……あ、今ちょうど見えますね! 警察が到着して現場を封鎖し始めたようです!』
『河辺さーん、警察の方にお話訊けそうですか?』
『……はい! 今からちょっと、向こうに移動してみます。一旦スタジオに……』
『ええ、それじゃあよろしくお願いします』
そして、いやあ何があったんでしょうね、とキャスターが話し出すと同時に。
「あれ」
ぷつり、とテレビの電源が落ちた。
チャンネルは、さっき押してからずっと、こたつの天板の上に置いてある。
だから、別にそれを触ったわけでもないはずなのに。
二、三度、電源ボタンを押してみた。しかし点かない。
コンセントでも抜けたのかと裏側を覗いてみても、もちろん異常はない。
少しだけ悩んでから、柾は決めた。
「兄貴に訊くか」
餅は餅屋だ。機械のことは機械のオタクであるところの兄に訊くのが一番だろう。どうせ昼夜の著しく逆転した人だから、今の時間に眠っているということもないと思う。リビングを出て、廊下に冴え満ちる一月の冷たい空気を十分に堪能して、柾は階段を上っていく。
コンコンコン、と三回叩いた。
返事はないので、勝手に開ける。
「兄貴」
「…………」
髪の長い男が、デスクトップPCの前に座っていた。
部屋の電気は点いていない。ぼうっと光るスクリーンの光だけが、男の整った顔を青白く照らし出している。大きなヘッドフォンから音漏れがしていて、どうやら柾の声には気付いていないらしかった。
「兄貴、」
だから、その肩をとんとん、と指先でつついた。
「ん」
兄は驚いたように振り返って、ヘッドフォンを外して、
「どうした。飯か」
「ああ。シチュー作っておいたから夜中に腹減ったら温めて食べて。……ってそうじゃなくて」
テレビ、と柾は床を指差した。
「なんか急に壊れちゃってさ。見てくんない?」
「珍しいな。使ってたのか」
「まあ、友達に言われて」
「いいぞ、見てやる」
そう言うと兄――塔山考一郎は椅子からするりと立ち上がり、その恐ろしく長い足の全容を露わにした。
柾だって身長は一七〇センチを超えてそれなりだというのに、頭半分くらいは背丈が違う。さらには針金染みた痩せぶりでもあったので、細身のはずの柾だって並べば中肉中背に映ってしまう。
顔立ちは考一郎の方がかなり鋭角的で、一方で柾は柔らかい。この二人を見て兄弟と一目で判断できる人物は、おそらくあまりこの世にいないように思われた。
リビングに降りて、考一郎がテレビを弄くり始める。
こうなればやることもさっぱりなくなってしまうので、柾はその代わりとばかりに携帯を弄くり始める。
点かない。
画面が。
携帯の方も。
「何を見てたんだ?」
考一郎が言った。
「え?」
「テレビで」
「あー……映画」
答えながら、柾は必死に携帯を確かめている。まさか、そんなはずがないだろうと思って。
「どんな映画だった?」
「いやー……まあ」
「ん?」
しかしどうやっても携帯の電源が点く気配は全くない。
一体これはどういうことだ自分が何かしたのかしでかしたのか、テレビも故障して携帯まで壊れるだなんてこれは一体どういうことだ政府がこのあたりに毒電波でも照射しているとでもいうのか、
「なんだ。言えないようなものを見てたのか」
「こんな時間にそんなのやってるわけないじゃん。タイトルが出てこないだけ……」
まさかこんな理不尽が起こるはずもないだろうだって携帯が壊れたら一日の暇つぶしをいったい何で代替すればいいというのだこれだから現代人は困る昭和の人間たちは空を見上げて鱗雲の数を一つ一つと数えながら過ごしてきたのだよこれからは君もそうして雲の流れていくことに世の無常を感じるようないわば俳諧じみた心地に身を任せた風情のある人生を送りたまえとでも言うつもりか、
「ジャンルは?」
「恋愛。……あー、ダメだ、これ」
「ん?」
「いや、携帯も壊れた……」
そうか、と言って考一郎は立ち上がる。
それから、こたつの上に置いたリモコンを手に取って、
「こっちは直ったぞ」
言ったとおりに、そのテレビを再び点けてみせた。
テレビニュースの内容はすでに例の道路陥没の事件からは移り変わっていた。
だからだろう、考一郎もそれを見ることはせず、ただ「ん」と言って柾に手を差し出した。
「直せんの?」
「やってみるさ。機械は機械だ」
んじゃお願い、と携帯を手渡す。
考一郎は、お願いされた、とそれを手の内に握って、
「……そうか」
「何?」
「いや、お前も恋愛映画を見る年なのかと思って」
「幼稚園児だって見るわ」
何言ってんだ、と反論をさらに続けようとしたときのことだった。
ぴんぽん、とインターフォンが鳴った。
もう二十三時も近い時間に。
「はな――」
「俺出るよ」
考一郎が動き出そうとしたのを押し留めて、柾は早足でリビングを出る。
冷たい廊下。電気を点ければ、玄関のガラス戸の向こうに人影があるのがわかる。
誰がいるのかは、よくわかっていた。
「どしたんすか。こんな時間に」
「考一郎に用があって」
黒い髪の女性だった。
名前は前川花。年は今年の冬で二十。兄と同級生。美人。隣の家。幼馴染。
たぶん、兄の恋人。
「あー……でも兄貴、寝ちゃってるかも……」
リビングから出てきやしないか、と不安になって柾は背中の方へ目線を送る。
その様子を、前川は厳しい目つきで見ている。
「寝てるわけないでしょ。さっきまで連絡取ってたんだから」
「あ、へー……。そう……。いやでも、遅いから」
「いいから。どいて」
あっ、と言う間もない。
前川は柾の隣をするりと潜り抜けると、勝手知ったる様子で靴を脱いで上がり込んでしまう。廊下を行って、階段を上がって、その姿が見えなくなったあたりでようやう考一郎がリビングから顔を出す。
「花か?」
うん、と答えれば、そうか、と言ってその後を追っていく。
残されたのは、寂しい十六歳が一人だけ。
開け放たれたままの家の扉を後ろ手に閉めて、たった今入り込んできた外気に肌を冷たくしながら、壁に凭れ掛かって、こう呟いた。
「恋愛、ねえ……」
目を閉じて、肩を落として、溜息は白い。