【解説】第一章 第二幕 女神?との邂逅
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「天文(てんぶん)一六年 閏(うるうしちがつ)七月」
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天文は共通暦一五三二年から始まる和暦です。天文一六年は一五四七年に当たります。閏が付いている月は、太陰太陽暦特有の月となります。
現在暦として利用しているのは、「太陽暦」。地球が太陽の周りを一周する三六五日を基本としています。一方旧暦と呼ばれる「太陰太陽暦」。こちらは月の満ち欠けを基本とした暦となります。つまり、一日(朔日)は必ず新月。十五日は満月になります(ただし小数点以下の誤差はありますが)。そして、春分や秋分の日などを中心としての誤差を補正するために設けられたのが閏月となります。
よって、「天文十六年閏七月」は太陽暦では、一五四七年八月一六日~九月十三日に該当。そして、物語の初日は満月なので現在の八月三十日となります。
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「信州の名族」
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文中にも簡単に言及されていますが、信州は広大で複雑な地形になっています。衛星写真などで確認するとよくわかると思います。
諏訪家は諏訪湖の諏訪大社の神官の家系です。そして古くから国司を務めてきた小笠原家が続きます。
村上家や高梨家、他にも大井家などで独自の地盤を固めています。
木曽家は、源平合戦で有名となった木曽義仲。源姓ですが木曽地出身のため、木曽家を名乗っています。戦国時代にも往年の力はありませんが、木曽家は残っていて織田・武田家との戦いで名前が散見されます。
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「武田家(たけだけ)」と「諏訪家(すわけ)」
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武田晴信|(信玄)は、信州南部の勢力諏訪家を手中に収めます。武力を用いた部分もありますが、多くは工作。諏訪家の内部分裂を行い、諏訪家を弱体化。最終的に婚姻関係を結ぶことに成功しました。武田晴信と諏訪家の姫との間に産まれた武田勝頼。彼の存在が、甲斐武田家の勢力拡充と滅亡に繋がっていくことになります。
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「守護」等
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守護は、現在の知事に該当します。国を治める朝廷からの役職になります。
守護は国を治めますが、同時に京の都で仕事も行います。
そのため守護が国元を離れた際に、代理を務める人が必要となります。その人は守護代と呼ばれます。守護が留守の時に力をつけた守護代が、下剋上を行い、戦国大名となって行きます。
本来の朝廷のシステムでは、その国を治める仕事です。しかし、室町期の朝廷は資金難。そこそこの名目と資金が有れば、守護の職は簡単に入手できました。
また正規の職ではないですが、先祖が賜った位をそのまま使い続けたり、勝手に名乗っている事も多々あります。
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「武田家の家督争い(かとくあらそい)」
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武田晴信(信玄)による父武田信虎の追放事件です。天文十年(一五四一)六月の出来事です。
武田信虎が凱旋後、縁者である今川家に赴いた時の事。晴信(信玄)はその時、その一行が帰れないように画策。事実上追放しました。
晴信を担ぎ出すための家臣団によるクーデター説。戦争による国の疲弊と天災による飢饉にて、信虎の資質を疑い追放に及んだ説。面白い説としては、武田信虎を今川家へのスパイとして送り込む親子共謀の説などがある様です。
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「狼煙(のろし)」
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ある薬に火をつけると、煙が登ります。その煙を観て、速報するべき事態が起きた事を知ります。
狼の煙と書くのは、狼の糞を薬に混ぜると、黄色みが出てまっすぐ立ち上りやすい、そうです。狼の糞が入手できない場合には犬でも可能とか。試したことがないので、実際は不明ですが『雑兵物語』。
文中にもある様に、狼煙で異常が起きた事が伝わります。そして詳細は別途なんらかの手段で次の連絡場所まで情報を持っていきます。
少し時代は下りますが、江戸時代。上方は銀通貨、江戸は金通貨。そのレートは日々変化するので、鐘の音を継いで伝達したとも聞きます。また、時刻を知らせる寺の鐘も、ある起点の寺の鐘の音を聞き、近くの寺がそれを聴いてから鳴らしたようです。
一刻は約二時間。いい加減と言えば、いい加減と言えます。
この一刻の定義は、日の出を卯刻、日の入りを酉刻。日の入りから日の出の中間を子刻、日の出から日の入りの中間を午刻としました。
現在でもその名残は残っていて、正午(正しい馬の位置)、丑の刻詣りなどが有名です。
日本人は器用な者で、西洋から取り入れられた機械時計。分銅の重さを調整し、月によって日の出、日の入りを計算して一刻を正確に刻む時計もあったようです。
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「元服(げんぷく)」
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元服とは、主に武士が行う成人式となります。家の風習や事情によって年齢は様々ですが、概ね十五~十六歳。当時は数え年なので、中学生位で成人扱いとなります。
現在行われている成人の日は基本一月十五日。これは戦前に行われた赤紙(徴兵令)の通知日となります。その日が風習として成人の日として残りました。最近では、通称「ハッピーマンデー法」であやふやになりました。成人となるのは吉事ですが、経緯を見ると少し複雑な気分になります。
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「信五郎(しんごろう)、次郎太(じろうた)」
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物語上の架空のキャラクターです。
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「猥談(わいだん)」
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簡単にいえば、エロ話。作中では露骨ではなく、誰が美人かとか。その程度と考えてください。まぁ、中学生程度なので……。
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「御題目(おだいもく)」
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急に助けを求める時に、「神様、仏様。お願いします」とか述べる事が多いと思います。
茂玄が唱えた御題目。
「南無釈迦尼佛」は臨済宗の御題目
「南無八幡大菩薩」は八幡神社の御題目。
そして「おっかー」は……人間の本能です。
茂玄と臨済宗は裏設定ではありますが、茂玄が学んだ寺が臨済宗であった理由となります。
八幡神社は、多くの武家が信仰する神社です。
「南無」は、ヒンドゥー教でのお願いする「नम(なも)」に漢字を充てた物です。仏教用語で「お願いする」意味。つまり南無釈迦尼佛は釈迦尼仏にお願いする事になります。割と普及している「南無阿弥陀仏」は浄土宗系の阿弥陀仏にお願いする意味となります。
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「氏(うじ)」「姓(せい・かばね)」「名字・苗字(みょうじ)」
「氏名(しめい)と姓名(せいめい)」
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現在では、氏名・姓名と混同されていますが、本来「氏」と「姓」と「名字・苗字」は別の物です。また、名字と苗字とあり、表記等が混在しています。
「氏」は血筋。例えば天皇家の分家筋とし「源氏」や「平氏」。また細分化して「清和源氏」や「桓武平氏」などがあります。他の氏といえば、「藤原」「橘」などがあります。ちなみに、ここで紹介した四つの氏「源平藤橘」を合せて四大氏族と呼ばれています。
「姓」は主に職業。「臣」が有名で、「朝臣」など。
「名字・苗字」は地域等を表す物です。
例えば織田家。越前(福井県)の荘園「織田荘」の名前を使いました。様々な説がありますが、平氏で織田荘に定着した、「剣神社」の神主の家系の様です。
ここからは、作者の考察になります。
この様に地名を利用したものを「地名姓」と呼ばれており、現存する80%程度の名字が地名姓とされています。「地名を冠した=苗(荘園)」として苗字が充てられたと想像しております。
一方の「名字」は、「加藤」姓など。藤原一族はとても反映しました。そこで、藤原を名乗る者が多数。よって、藤原加賀守の一族は「加藤」を名乗りました。こちらが名前を表す「名字」になったと想像しております。
他にも、明治時代に移った時、徴兵を行うために付けられたもの。江戸時代の記録が残っていない、覚えていない、これを機に変更しようと思った者等が、村長等につけて貰った物等。
これだけで専門書が書ける内容ですので、ここで終えます。
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「干支(えと)」
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「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の十二文字。それぞれの動物が割り当てられています。現在でも何年生まれとして定着していると思います。また、年賀状でも使われているので、身近な事だと思います。各字には動物が割当てられていますが、本来は方角等を示す文字に動物が当てがわれています。この十二文字を「十二支」と呼びます。
「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」。こちらは五行(木・火・土・金・水)に対して、「兄」と「弟」を割り当てた物になります。ですので、「甲」は「水之兄」とも呼びます。順番で、「甲乙付け難い」などとしても利用されます。この十文字を「十干」と呼びます。
この「十干」と「十二支」を一つずつ繰り返していくと、六十で一周します。これが六十歳を祝う「還暦」と繋がっていきます。この二つを組み合わせたのが本来の干支になります。
和暦・元号を用いると、計算が大変です。そこで和暦の後ろに干支を付ける事で、相対的な時間を測る事ができるようになります。六十年周期なので、間違える事が少ないというのが理由だと思います。
当時の一般市民の知識レベルは不明ですが、十二支は使えていた。そして茂玄は学が有るので干支をすんなり答えた事を誇っていた設定となります。
本来の干支も「庚申塚」(地名・碑)とか「甲子夜話」(書籍名)・「甲子園」(野球場)、壬申の乱(歴史事件)など文化として定着しています。