説得と、告白(2)
「宗さんに、秘密……」
彼女は同じ事を呟きながら、短い懊悩を見せていた。
けれどなかなか頷かず、僕は「それじゃ、打ち明ける秘密を二つにするよ」と、条件を付け加えた。
「二つも秘密が?」
のぞみさんは大きく驚いたけれど、その後すぐ
「……でも、考えたら私達はまだお互いの事をそこまで知ってるわけじゃないものね……」
と、がっかりしたように息をつき、ポーン…と黒鍵を押さえた。
生の楽器であるピアノは電子ものと違ってその音は永遠ではないけれど、僕が思っていたよりも長いこと店内に響いていた。
やがて、その黒鍵の響きが薄く薄くなって消えかかったその時、のぞみさんは「分かった」と、僕が出した交換条件を受け入れたのだった。
「じゃあ、まずは僕から話すよ。それで次はきみが話してくれる?最後に僕の二つめの秘密を話すから」
「ええ。それでいいわ」
頷いた彼女に僕は少しだけ近付いた。カタ、とわずかにテーブルにぶつかってしまい、彼女が「大丈夫?」と声をかけてくれる。
「大丈夫だよ」
答えながらも、僕は緊張を感じていた。
僕は『21時のピアノ弾き』を前から知っていた事を打ち明けるつもりでいたのだから。
それを聞いた彼女がどんな反応をするのか不安だし、怖かったけれど、彼女が手術を受ける為の手掛かりになるのであれば、躊躇う理由はない。
緊張感が僕の体全部を支配してしまう前に、さあ、言ってしまおう。
「実は……、僕はきみと知り合う前から、『21時のピアノ弾き』を知っていたんだ」
黙っていて申し訳ないという気持ちを込めて、けれど騙すつもりはなかったんだという誠実な思いも添えて告げた。
彼女は僕の告白を頭の中に落とし込むようにたっぷりと間をとった。それは、時計の針を止めてしまうような長さに感じられた。
そして
「………ああ、そうだったんだ」
心の底からの感情を吐き出すように言ったのだった。
それは、驚嘆に近かったかもしれない。
「怒ってないのかい?」
恐々と尋ねる僕。
「怒る?どうして?」
「だって僕はずっと隠してたんだよ?ここに来たのは本当に偶然だったけど、きみから見たら、嫌な気にならない?」
「別にならないけど?びっくりはしたけど、動画をアップしてる時点でそういう事も予想はしてたし、実際、あの動画を見てここに来た人もいたみたいだから」
私がいない時だったんだけど。
のぞみさんはフフッと息で笑った。
僕は彼女の反応が意外すぎて、いくつか考えていた言い訳を全部どこかに落としてきたような感覚になっていた。
「……つまり、僕以外にも『21時のピアノ弾き』のファンが訪れていた、ということ?」
狼狽えるなという方が難しいだろう。あんなに迷って悩んでいたのに、僕以外にもいただなんて、想定外だ。だが確かに、動画のコメントにはこのカフェの名前も登場していたわけで、あり得ない話でもなかった。
ただ僕が考えに至らなかっただけで。
「ファンというわけでもなかったみたいだけど……。でも、それが、宗さんの秘密だったの?」
いつもの調子を取り戻して訊いてきた彼女に、僕は妙な気恥ずかしさに襲われた。
「そうだよ。きみの秘密を聞かせてもらう為には、足りなかったのかな」
自虐ではないがそれに寄せた物言いをすると、彼女は「そうね…」と、また一つの鍵盤を叩いた。さっきよりも高い音だ。音階をのぼった分だけ、彼女の心も上がっていると思いたい僕がいた。
「思ったより驚きはなかったけど、それだけ宗さんが私のピアノを好きでいてくれてるんだとしたら、今から私が話す内容を聞いても、軽蔑したり、離れていく事はないのかもしれないわよね……。それが分かったのだから、交換条件としては成立したと思うわ」
そう言って僕を安堵させたのぞみさんは、続け様に
「私ね、死のうと思ってしまったの」
淡々と、打ち明けた。
「……それは、事故の後?」
僕が確かめるように問うと「そうよ」と返ってくる。
「目が見えなくなって受験さえできなくなったと知ってから、こんなことなら事故で死ねばよかったと思い続けてたの。それで検査で再入院した時、夜中にふと何もかもが嫌になって、5階の窓から飛び降りようとした。でも、偶然同じ病棟に入院してた子供がトイレに行くのに通りかかって、声をかけられたの。『もう消灯過ぎてるよ』って。賢そうな口調だったからきっと私が何しようとしてたのか分かったと思うけど、その女の子はそれには触れずに『9時には寝なくちゃいけないんだよ』って言って、その後も世間話に付き合ってくれた。私は……、小さな子供相手で、きっと気が緩んだのね、事故や受験のことを愚痴っちゃって、気を遣ったその子は私に言ってくれたの。『お姉さん、きっと明日はいいことがあるよ』って。ただの気休めだったと思うけど、次の日、本当にいいことがあって……例の ”あしながおじさん” から初めての連絡があったのよ。それで私はどうにか生きる気力を取り戻せたわけ」
「そんなことがあったんだ……」
「そうなの。それで………ねえ、私の事、軽蔑してない?」
「今のどこに軽蔑するポイントがあったの?」
「だって私、死のうとしたんだよ?」
「そんなの、突然視力を失ったらそう思ってしまうのも分かるよ」
僕のセリフは、慰めではなく本心だった。
「宗さんは、……優しいね。ありがとう……」
彼女は微かに声を震わせたけれど「さ、次は宗さんの番だよ」と、切り替えて促した。
表情を和らげた彼女に僕もホッとして、もう一つの秘密を打ち明ける準備をした。
主には、心の準備だ。
「じゃあ聞いてくれる?僕の秘密を」
「どうぞ」
「実は………一目惚れだったんだ」
「え?何?」
「僕はきみに、一目惚れしたんだよ。いつ一目惚れしたのかは恥ずかしくて言えないけど……。これが、僕の秘密」
「――――え?」
「僕はきみが好きだ。だから僕の事を見てほしいし、僕もきみの目を見つめたい。手術を受けてほしい」
彼女は目を閉じたままだったけれど、僕はまっすぐ彼女の目を見て告白した。
すると、彼女は一言「……ずるい」と呟いた。
「そんなのずるい。私だって宗さんのこと好きなのに、でも顔も知らない人の事を好きになるなんて変じゃないかなとか、変じゃなくても、目の事があるから気持ちを伝えるのは躊躇して、もし手術して見えるようになったら好きって言えるのかなとか悩んでた。なのに今そんな風にサラッと言うのって、なんだかずるいよ」
吐露された彼女の想いを、僕は迷わず受け取った。
「きみの目が見えても見えなくても、きみが好きだよ。だからもう一度言って?僕を好きだって」
音を立てないように近寄って、彼女の手を握った。彼女は振り解こうとしたけど、やがて観念したように頬を染め
「好き…」
僕の気持ちに応えてくれた。
「でも私、いいのかな。一度は死のうとしたけど、誰かの命を受け継いで、好きな人の顔を見て、気持ちを伝えあってもいいのかな。その資格あるのかな」
「いいに決まってる」
僕は囁きながら、彼女の指先に口づけを落とした。
「そうじゃなきゃ、僕が困る」
そのセリフに、彼女は返事をせず、ただ、肩を震わせていた。
彼女の手術が決まったのは、それからしばらくしてからのことだった。
彼女は、また光を取り戻すのだ。
僕も、彼女の瞳に映りたい。
そしてその時、彼女をがっかりさせない為に、僕ができる事を考えよう。
恋する男は健気なのだ。彼女に嫌われないようにと、それを真っ先に考えてしまう。
それでなくても僕には、後ろめたさがあったから。
まだ彼女に言えてない、秘密があったから………