彼女のこと(2)
「――――移植?」
「そう。角膜移植。スポンサーの方のお知り合いに専門のドクターがいらっしゃるみたいでね。以前から、いつでも紹介できるとは言われてるんだよ」
客と店員というよりも親しい友人同士になっていた僕達は、閉店後のひととき、二人で、時にはのぞみさんや他の店員も加わったりして、他愛ない会話をして過ごしていた。今日は他愛ないものではなかったけれど。
「スポンサーって、例の ”あしながおじさん” の事ですよね?以前から言われてるのに、受けてないんですか?」
僕は疑問に思ったことをそのままぶつけた。
角膜移植をした患者はその後視力も回復するのじゃないのか?だったらなぜ、彼女はまだ手術してないんだ?
もちろん、移植を望んだところで、ドナーが見つからなければやりようもないけれど、それでも、光を取り戻せる可能性があるというのに、なぜのぞみさんは手術を受けないのだろう。
だが一番近くで彼女を見守っていたお兄さんは、少し寂しげに苦笑を浮かべた。
「角膜を移植するという事は、誰かが亡くなったという事になるからね。のぞみは、誰かの ”命” を感じずにはいられないんだと思う。あの事故で亡くなった人はいなかったけど、死ぬか生きるかの境目だった人もいたし、のぞみより小さい子供もいたみたいなんだ。なのにのぞみは失明して音大に行けなくなった時、どうせなら事故で死んでればよかったとよく口にしていた。今は当時の自分を恥ずかしいと思ってるみたいだけど、そうやって“命”を粗末にするような態度をとってた自分が、誰かの ”命” を受け継ぐわけにはいかないと思ってるらしい」
「のぞみさんがそう言ったんですか?」
「そうだよ」
「……そうなんですか」
僕は溜め息こぼしながらテーブルに肘をついた。
のぞみさんらしいな…、そう思いながら。
彼女はその頃の自分を情けないとさえ言っていたから、その頃のことは、今も重たい影となって彼女にのしかかっているのだろう。
大きな事故に巻き込まれたのだから、そういうのは当たり前かもしれないけれど。
「目が見えなくてもピアノは弾けるのに」
お兄さんが、慰めるように言った。
「初見は無理でも耳がいいから手本を聞けば覚えられる。日常生活も不便だけど白杖も慣れたし、世話焼きな人間が周りに多いから今のところ特別困ってるわけでもない。だからすぐに移植が必要なわけじゃない。だけど…」
言いながら、特に定まっていなかった視線を僕にぶつけた。
「いつかは、必要だ。この先ののぞみの未来において、手術でどうにかできるならやるべきなんだ」
そう思わない?
訊かれて、僕は素直に頷いた。すると続けざまに頼まれてしまったのだ。
「だから宗くんに、お願いしたいんだ」
「なんでしょう?」
「のぞみに、移植をすすめてくれないか?」
「僕が、ですか?」
お兄さんのまっすぐな目に、僕は、彼の今日の目的はこれだったのかもしれないと感じずにはいられなかった。
「でも僕は…」
「こんな事を宗くんにお願いするのは厚かましいと思う。まだ知り合ってそんなに長いわけじゃないのに、こんな込み入った相談する事自体申し訳ないけど、今のぞみを説得できるのは宗くんだけな気がするんだ」
「…そうでしょうか?」
訝しげに訊き返すと、お兄さんのセリフにはさらに力が加わった。
「そうだよ!のぞみはすっかり宗くんに打ち解けている。それに…もともと明るい子で、また弾けるようになってからは周りに心配かけないようにさらに明るく振る舞ってたけど、やっぱり時々は目のことを気にしてか沈んだ表情をしていた。でも宗くんに会ってからは、そんな事もほとんどないんだよ。だから、宗くんの言う事なら耳を傾けてくれるかもしれない」
”かもしれない” そんな不確かな可能性に頼らざるをえないほど、お兄さん達は手詰まりだという事だろうか。だからといって、まだ関係の浅い他人の僕が口出したところで、のぞみさんの意思が動くとは思えないのだが……
「頼むよ、宗くん」
お兄さんの訴えは、僕の中にダイレクトに響いてきた。妹を心配する兄の立場も分かる。そして、初めて会った時から僕にとても親切にしてくれて、仕事で疲れた僕をこのカフェで容易く癒してくれた事に恩も感じている。つまり、その有効性の有無にかかわらず、僕が彼の頼みを断れるはずはないのだ。
「………分かりました。でも期待はしないでくださいね」
僕の返事に、お兄さんは満面の笑顔を咲かせたのだった。