出会いは突然に(2)
「で、おふくろはもう帰ったの?」
店員が訊いた。
その内容から、彼はのぞみさんの兄だったようだ。
僕は思ってもなかった展開に些か驚き、姿勢を変えた瞬間、カトラリーに肘が当たってしまった。
「うん。友達と約束があるって……あれ?まだお客さまがいるの?」
僕の肘がつくった僅かな音を、彼女はすぐに拾い、店員への返事を途中で止めて探るようにこっちを向いた。
「ああ、ピアノに興味がおありの方なんだ。お前をお待ち頂いてたんだ。リクエストにお応えしろ」
不思議そうに訊いた彼女…のぞみさんに、兄の権限だと言わんばかりに店員が命じた。
「それは構わないけど……」
ちょっと驚いたように返したものの、その声はとても澄んでいて、まるで彼女の奏でるピアノのようだった。
「紹介します。妹の月島のぞみです。音大生なんですよ」
店員が僕に対してやや大きめの声で言った。
「はじめまして。のぞみです。ええと…」
「これは失礼いたしました、僕は東雲宗一郎といいます」
僕が名乗ると、のぞみさんは「東雲さん…かっこいいお名前ですね」と言ってくれた。
「でも言いにくいでしょう?よろしければ宗と呼んでください」
「分かりました、宗さんですね。それで、何をお弾きしましょうか」
尋ねながらピアノに歩きだした。
店員は彼女を見守るように見つめている。
のぞみさんは椅子に座ると、鍵盤の縁にそっと指で触れて、その慈しむような仕草が、本当にピアノが好きなんだなと思わせた。
「リクエスト、どうなさいますか?」
店員が僕の席まで来て尋ねる。
「そうですね、あまり曲のタイトルを知らないのですが……ゆったりした曲が、いいですね」
『21時のピアノ弾き』では速い曲も演奏されていて、それも好きだったけれど、僕は、バラードのような静かな曲の方が好きだった。
「ゆったりした曲ですね、分かりました」
のぞみさんは頷くと、少し考えるような間をとって、おもむろにサングラスを外した。
けれど、その目は閉じられていて。
彼女は外したサングラスをピアノの上に倒したままの譜面台に置いて、座る位置を調整した。
すると店員がコソッと告げたのだ。
「妹は、目が見えないんです」
目が見えない――――――――――
その一言に、僕は、彼女を凝視してしまった。
やっぱりのぞみさんは目を閉じていて、でもそんな風に感じさせないほど自然に、容易く、音を奏ではじめたのだった。
左手の低い音からはじまった曲は、僕も知っている曲だった。
「主よ、人の望みの喜びよ」
「え?」
「バッハです。妹の好きな一曲なんです。自分の名前が入ってるから好きなんだそうです」
店員の説明に返事することも忘れて、僕は彼女の音に心奪われていった。
J・S・バッハ作曲のカンタータ、つまり声楽曲で、複数パートを一人で演奏しなくてはいけないので和音のバランスも必要だし旋律も上下に変わっていく。
その音の多さから、どうしたって二本の腕じゃ弾き切れないはずなのに、彼女のピアノは低音の太い音も歌うように、一人の人間が弾いているというよりもまるで連弾しているかのように聞こえてきたのだ。
そして、やはり彼女の心地良い音は変わらないままで。
だが依然として彼女は目を閉じていて、動画でなく直接見ても、そこにトリック的なものは何もなかった。
正直に言おう。僕は、彼女に一目惚れして、彼女のピアノに、一耳惚れしてしまったのだ。
長い髪からのぞく顔の輪郭は動画で見たときよりもシャープで、柔らかな指の動きは思っていたより軽やかで。
奏でる音は僕の記憶と寸分の違いもなくて、ただ目が閉じられている事だけが、あの映像と変わらないままだった。
「あれで目が見えないだなんて、信じられないでしょう?」
彼女の兄が、複雑そうに語りかけてくる。
「そうですね」
僕は短く、けれど心の底から同意した。
ゆっくりとした展開ながらも的確に鍵盤の位置を把握していて、素人の僕からしたらそれはマジックの一種にでも見えてしまうのだから。
その全てに見惚れていると、やがて曲は終わり、彼女の纏う空気がわずかに途切れた。
一瞬の静寂が流れたけれど、それはすぐに僕の拍手によって打ち消された。