出会いは突然に
『21時のピアノ弾き』は、相変わらず毎晩新しい曲を奏でて、僕を楽しませてくれていた。
そんなある日、僕は移動の途中、車の中から思わぬものを見つけてしまう。
一見は、ヘアサロンやセレクトショップようにも見える店だが、表に立てられているメニューボードにはランチタイムの案内が書かれていて、そこがカフェなのだと教えてくれた。
だが、僕がその店に目をとめたのは、なにもそこが洒落ていたからではない。
〖Hoffnung〗
店の看板に、そう書かれていたからだ。
ドイツ語には詳しくないけれど、こんな簡単な単語ならば読める。
あのコメント欄に投稿されていた、ホフヌングというカフェが、目の前に現れたのだ。
いや、同じ名前のカフェは他にもあるだろう。ドイツ語で ”望み” という意味だから、店の名前にはもってこいの言葉だ。
それに動画のコメントでは、そのカフェの所在地までは書かれていなかった。
ヒントとなるのはグランドピアノがあるということくらいで……
彼女に会うつもりはなかったくせに、こんなにも近い距離に彼女の手がかりを発見してしまうと、心が騒いだ。
僕は車を止めてもらい、躊躇しつつも、店の様子をうかがった。
邪魔にならないよう、端の低い位置から中を覗くと、もうランチは終了間際なのか空席が目立つ。
そして肝心のグランドピアノは………店の真ん中に堂々と置かれていた。
ここが、噂のカフェだったのか?
どうしよう。本当に会う気はなかったのに、きっかけを拾ってしまった。
戸惑いなのか動揺なのか分からないけれど、心臓がドクドクドクとうるさくなったのは明らかだった。
店に入るのか、このまま車に戻るのか、その選択をできずに固まっていると、不意に店の扉が外側に開かれた。
「どうもありがとうございました。お気をつけて」
「ご馳走さま」
「また来ますね」
店員らしき男性が若い女性二人組の客を見送るところだった。
満足げに帰っていく女性達に、にこやかに応対していた店員が、ふとこちらに振り向いて、僕と目が合った。
「こんにちは」
感じのよさそうな人だった。
「…こんにちは。ランチはもう終わりですか?」
咄嗟にそう訊いていた。
まだ店に入るかどうかも決めていないのに。
男性店員はにこやかなまま、
「いえ、大丈夫ですよ。おひとりでよろしいですか?」
扉を開いて押さえながら尋ねてくれた。
「はい、ありがとうございます」
僕はちょっと慌ててしまい、扉の前にある小さな段差につまづいてしまいそうになるが、ぎりぎりで堪え、店員が待ってくれている扉をくぐったのだった。
店の中は白を基調とした作りになっていて、置かれているテーブルセットは『21時のピアノ弾き』に映っているものと似ていた。
そして、天井が高く、解放感あふれる中に、例のピアノが適度な存在感を主張していた。
無理矢理置いたような印象もなく、白い床やテーブルといった周囲にもよく溶け込んでいて、もうずっと昔からそこにいたような雰囲気だ。
大事に使われているんだな、そう思わせるピアノだった。
「どちらのお席にご案内いたしましょうか」
男性店員が声をかけてくる。
僕が「じゃあ、ピアノの近くでも構いませんか?」と答えると、店員は「もちろん」と微笑んで、僕を案内してくれた。
「ピアノがお好きなんですか?」
僕の為に椅子を動かしながら気さくに話しかけてくる店員。
僕以外の客は離れたテーブルにいる一組だけだったので、接客も、丁寧だけどのんびりしたものだった。
「ええ。聞く専門ですけど」
僕が返事すると、店員は何か閃いたような顔をした。
「それでしたら、もう少しお待ちいただけましたらピアノのバイトが来ますので、よろしかったら何かお聞かせしましょうか?もうすぐ来るはずなので」
ピアノのバイトと聞いて真っ先に思い浮かぶのは『21時のピアノ弾き』の彼女だった。
僕は「ええと…」と一瞬答に迷ってしまったけれど、やはり彼女のピアノを直接聴いてみたいという想いを抑え込むのは無理だったようで
「ありがとうございます。楽しみです」
結局、素直に好意を受け取ることにしたのだった。
もし、ここがコメントにあったカフェなのだとしたら、この後彼女のピアノが聞けるかもしれない。
そう思うと、全身が震えてくるようだった。
僕は溢れそうになる期待を胸に閉じ込めて、店員のおすすめだというサンドイッチセットを注文した。
店員がさがってから、お手拭きを広げ、店内をさらっと見回す。
そして最後に視線が留まるのは、ピアノだった。
それは『21時のピアノ弾き』に映されているピアノと同じメーカーのものだった。
「ピアノ、気になりますか?」
調理場にオーダーを伝えに行っていた男性店員が、店に戻ってくるなり、僕の視線に気付いて尋ねてきた。
「いえ、気になるわけでは……」
ピアノが気になるというよりも、このピアノを弾く人物が気になっているのだけど。
僕は内心を誤魔化すように、ピアノから男性店員に顔向かせてほんの少し話題を変えた。
「これ…有名なピアノですよね」
「よくご存じなんですね。外国の一流ブランドのピアノだそうです。と言っても、いただいたものなんですけどね」
彼はピアノとは反対側にあるカウンターの中で僕の注文したサンドイッチセットに付いているアイスコーヒーを作りはじめていた。
カコンカコンと氷が不規則にグラスにぶつかる音が響いてくる。
「何かリクエストがあればお受けいたしますよ?」楽しげに提案してくれた。
「いえ、お仕事の邪魔になってしまうのは申し訳ないので…」
「大丈夫ですよ。ディナーで弾く前に、ランチが終わってお客さまの少ない時間に練習してるだけですから」
遠慮した僕に店員は親切に説明してくれる。
すると奥のテーブルについていた客が席を立った。
「ありがとうございました」
店員は愛想よくその客を会計のカウンターまでエスコートした。
そして店内の客は僕ひとりになったわけだ。
彼女に、会えるのだろうか。
期待が膨らむ一方で、偶然とはいえこんなストーカーまがいな事をしているのはどうなんだと、激しく迷いが生じていた。
けれどもう注文してしまったわけだし、今さら席を立って帰るのも失礼だし…と、自分に言い訳を探していた。
「お待たせいたしました」
僕の葛藤を知るはずもない店員が、愛想よくアイスコーヒーとサンドイッチをテーブルに並べてくれる。
白いコースターには、音符の絵が描かれていた。
「ありがとうございます」
礼を告げて、アイスコーヒーのストローに口を付けた、まさにそのときだった。
カラカラン
扉が、訪問者を知らせてきたのだ。
「おう、のぞみ。ひとりで来たのか?」
カウンターに戻りかけていた店員が扉に振り向いて、親しげに声を投げかけた。僕は ”彼女” が来たのだと察した。
けれど、咄嗟にはその方向を見られなくて。
本当に、彼女なのだろうか。
いくらアイスコーヒーを見つめていてもその答えを確かめられるはずもなく、僕は、ひと呼吸おいてから、意を決して扉に顔を向けた―――――――――
―――――――――そこには、まっすぐにおろした黒くて長い髪が印象的な、スタイルのいい女性が立っていた。
そしてその女性は駆け寄った店員に「お店の前までママに送ってもらったよ」と笑いかけたけれど、その小さな顔にはブラウンのサングラスがかけられていて、表情の全てを読みとくのは難しかった。
細いデニムパンツ、袖幅の広いカットソーという服装にそのサングラスはとても似合っていて、まるでモデルのようにおしゃれだなと思った。
彼女が『21時のピアノ弾き』に出てくる女性だということは、もう疑う余地がなかった。
コメントの情報は正しかったのだ。