秘密(2)
数ヵ月後、僕はホフヌングへと車を走らせていた。彼女との約束の為だ。
彼女は二度の手術を頑張って、日常生活を取り戻していたのだ。
電話ではやり取りをしていたのでその報告は彼女自身から聞いていたけれど、やっぱり、僕の目で彼女を確かめないことには、心配する気持ちは払拭できなかった。
そしてこの数ヵ月の間も『21時のピアノ弾き』は毎日更新されていた。入院期間の分は事前にまとめて録画しておいたらしい。
”あしながおじさん” からは、手術するのだから更新はお休みするようにと言われたらしいが、彼女がそれを拒否したのだ。
そして昨夜アップされた曲は、お兄さんがでまかせで口ずさんだというあの曲だった。
『ナーバスになってる時これを聞いたら不思議と落ち着くんですよね』
彼女のセリフが蘇る。
おそらく、互いに眠れない夜を過ごしていたという事だろう。
僕は彼女に秘密を知られてしまう事に。彼女は僕の顔を初めて見る事に。
それぞれが不安を抱えて、今日、恋人としての第一歩を踏み出すのだ。
カラカラン…
僕が店の扉の前に着くと、いち早く気付いたお兄さんが開けてくれた。
「いらっしゃい。待ちかねてるよ」
全てを受け入れたような、穏やかな微笑みを携えて。
僕は胸の高鳴りと緊張感の手綱を握って、静かに店に入っていった。
店の中は、あの曲が流れていた。彼女が昨夜更新した曲だ。
それは変わらない音で、懐かしくもあり、僕を歓迎してくれるかのように聞こえた。
そして、やはり僕を歓迎してくれるように、彼女のご両親がお兄さんと同じ笑顔で待ってくれていた。
「東雲さん、来てくださってありがとうございます」
「娘が大変お世話になりました。本当に、本当にありがとうございました」
母親の方は涙ぐんでるようにも見えた。
二人から礼を告げられて照れ臭い気もしたけれど、その向こう、ピアノを奏でているのぞみさんを見つけたら、もうそれどころではなかった。
彼女は長い黒髪をひとつにまとめて、ここで初めて会った時と同じサングラスをかけていた。その目が開かれているのかは分からない。
僕は少しずつ、彼女に近付いていった。
「……宗さん?」
僕の気配を探るように呼んだ彼女。どうやらサングラスの下で目を閉じているようだ。
「――――うん。久しぶり」
僕の返事に、ピアノの音が止む。
彼女はサングラスを外して、ピアノの蓋にコトンと置いた。そして僕に振り返ろうとしたが――――――――
「待って」
僕がそれを止めたのだった。
「え?」
「そのまま、僕を見ずに聞いてもらいたい事があるんだ」
何事かと、不安に揺れる彼女の背中。
その反応が頼りなさげに見えて、僕は彼女を抱きしめたくなるけれど、キュッとストッパーをかけたのだった。
僕の話を、彼女だけでなくお兄さんもご両親も、じっと黙って待ってくれていた。
「……手術、無事に終わって本当によかったね。まずそれを伝えたかった」
「ありがとう。もう宗さんの顔も見る事ができるのよ?」
彼女は得意そうに返してきた。
「そうだね。……だからその前に、きみに話しておきたい事があるんだ」
「それ、宗さんの顔を見てからじゃダメなの?」
「きみを驚かせてしまうかもしれないからね。その前に秘密を話したい」
「まだ秘密があったの?」
僕のトーンを察したのだろう、背中だけでなく、彼女の不安はもっと広がっていったように感じた。
「うん。……実はね、僕は、ここできみと出会う前に、きみに会ってるんだよ」
一つ一つの言葉を丁寧に、打ち明けた。
ところが彼女は「知ってるわ。『21時のピアノ弾き』を見てたんでしょ?」と、僕の告白を誤解していた。
僕はごく短い息を吐いてから
「そうじゃない。僕は何年も前、きみと会って、話をしているんだ」
真実を告げた。
「……何年も前?」
「そう。きみが事故に遭って失明した後、検査の為に再入院してる時に」
「………え、入院中に?嘘、いつ?病院で?あ、でもその時の私は見えてなかったから、会ってたとしても覚えてないわよね。だけど話をしたんでしょ?だったら声は覚えてると思うんだけどな……」
彼女の混乱がダイレクトに伝わってくる。僕はこれ以上混乱させないような言い方を探してはみたけれど、結局、どう言ったって驚かせてしまうのは明白で。
だったら余計な事など考えず、素直な想いを言葉にしようと思ったのだった。
「うん。確かにきみは耳がいいから、僕の声も覚えてるだろうね。それで前に会った事があると気付いたかもしれない。………でもそれは、当時と今の僕の声が同じだったらの話だ」
「え?」
「当時の僕は中学生。声変わり前の子供の声だったから、再会した後もきみは僕に気付かなかったんだよ」
「え……?ちょっと待って、私が入院してる時に宗さんは中学生だったの?え、じゃあ今はいくつなの?もしかして私より年下ってこと?」
興奮気味に質問を投げられて、僕はその全てに応じるように心を整えた。
「僕は今、高校生だよ。きみの言った通り、きみよりは年下だ」
「そんな、だって、ここに来るのはいつも仕事帰りだったじゃない。それに、スーツの似合う人だって聞いてたし……」
「父の仕事を手伝ってるんだよ。それに、高校生だってスーツくらい着るよ?父親世代の大人に交じって仕事をするんだ、スーツだって着こなせないと話にもならないからね」
「それは…そう、なのかもしれないけど!でも今の声だって落ち着いてて、とても高校生には聞こえなかったもの」
「そうだね。僕は十代の若々しさがないとよく言われるよ。だけどきみと初めて言葉を交わした時は、女の子みたいな高い声だった」
「女の子みたいって………あっ!」
何かに思い当たったように、彼女は顔をこちらに向けようとした。
「待って!そのままで。こっちを見ないで」
僕は慌てて制した。
彼女は反射的に従うように、急いで顔を戻した。
「……あの時の子供が、宗さんだったの?」
「きみは僕の事を女の子だと思い込んでいたみたいだけどね」
「それは…、だって女の子にしか思えない可愛い声してたし、あの時私は…精神的にとても参ってて、正常な判断なんかできなかったもの……。ねえ、今話してることって、そっちを向いちゃいけないのと関係してるの?」
まるで、当時のことは過去の黒歴史だとでもいうように話す彼女だったが、僕は事実のみを受け取って、返事した。
「もう少しだけ、このままで聞いてほしい。あの時きみは、相当落ち込んでいたね。だから僕は、声をかけた。夜中に飛び降りかけてたきみを助けよう思った。だから、翌朝、父に提案したんだよ。きみの為の融資をね」
「融資?融資ってどういう意…」
どういう意味?と問いかけた唇は、驚愕の形に変わったようだった。




