生徒会長はドーナッツの穴
今日も、わたしはせっせと手紙を運んでいる。肩紐を長く伸ばしたローズピンク色のリュックの中には、たくさんの便箋が入っていた。それは漏れなく筆まめな生徒による生徒会長へのお便りで、私は民の声を王へと届ける使者として、学校中を歩き回っている。
「お、キズナじゃん、これ頼むわー」
「キズナちゃん! これ、会長に! 渡しといて!」
「あの、キズナ先輩……これ……」
「絆地、これ会長に回してくれ」
先輩から後輩、果ては先生までがわたしにお便りを託していく。わたしは使者だから、それを受け取らないといけなくて、生徒会長に届けるまでは責任を持って管理しておかなくちゃいけない。だから、お気に入りだったリュックはもう手紙でパンパン。自分の教科書だって入るスペースがない。すごい純粋にこの状況について感想を述べるとしたら、わたし、結構かわいそうだと思う。これは友達からの同意アリ。典型的な貧乏くじだ。
どれもこれも全部、生徒会長がいないのが悪い。
「もー、会長会長って……」
いないといっても、さっさと帰ったからとか死んだからとか、そういうレベルのいないということではない。生徒会長という地位自体に誰も就いていない、ということだ。
で、郵便局なら、宛先不在のものは送り主に送り返すことができるけど、わたしは使者だから、そんな無責任なことはできない。会長が「見ねえ」と言うのなら、とっとと焼くなり焚くなりできるけど、その会長自身がいないのだから、わたしの一存でこの哀れな書類達をどうこうするわけにもいかないのだ。
ああ、せめて生徒会室に籠みたいなのがあってドサッと放り込んでおければいいんだけど……会長のいない生徒会室が機能するはずがないんだよね。物置きにすらなれず、かわいそうな部屋があるだけ。
放課後の学校は、平和な王国のようだった。授業が済んでも大半の生徒はすぐに帰らず、部活動に打ち込んだり友達と話したり一人で読書したり自主的な学習塾があったりアイデア商品の販売をしてたり野良猫を探したり……ぼーっとしてると吹奏楽部の音合わせのBの音がおごそかに響き渡り、ダンス部の通し練習で校舎の一角がリズムに支配され、書道部の墨の匂いと料理部の焼けたパンの匂いと科学部のアンモニアの臭いが同じ換気ダクトを通って校舎裏に吐き出され、野球部の金属バットの音が四拍目に叩くスネアのように飛びこみ、ガットの硬球を叩く音とシャトルを弾く音、そしてバスケットボールが体育館の床を衝く音がとてもパーカッシブ、やがてピロティの物陰から演劇部の大臣役が物々しく姿を現し、合唱部の歌うジャジーなミサ曲の洗礼に、中庭で犬を散歩中の近隣住民のおじいちゃんが少しだけ目を丸くする。
平和な王国民はこういう穏やかな日々のことについてよく喋っては、王たる会長に書を認める。よくもまあ、そんなに書くことがあるものだ。
『生徒会長への予算増額の打診です。ボール三個ではとても足りません。ゴールポストは八つもいりません。お願いします。サッカー部より』
『図書室の新刊購入について、不適切な書籍を候補から外すようお願いしたく』
『軽音楽部の使用する第三音楽室の防音力の弱さが問題になっています。外に漏れたコピー曲の著作権料を巡り、某団体と議論が続いています』
『新設農園の候補地が決定しましたが、民俗研究会の反対活動が苛烈さを増しています。至急対策案の用意をお願い申し上げます』
『放送部のスッパ抜きが酷い! ハイエナの如きスクープへの貪婪さ! 生徒会はこの横暴を赦すな!』
『お使いちゃんへ すきです ラインしてね ID:hoshino_hoshihoshi』
「って、生徒会長宛てじゃないじゃん!」
わたしは最後のお便りを破り捨てた。あぁ、きもいきもい。何だこのID、星の星星って。
「ちょっと、キズナ、お便り破っちゃダメじゃん!」
「きゃっ!」
うろたえた声で突然話しかけられたものだから、びっくりした。振り向くと、ちょうど女子トイレから出てきたらしいシャチが、びちゃびちゃの手のまま立っていた。もちろん、海に住む哺乳類本人ではない。動物愛護部所属の女の子だ。シャチが好きで、ついでに背が高いからシャチ。
「なんだシャチか。びっくりした」
「びっくりしたのはこっちだよ! お便り破ったでしょ!」
「違う違う、これはわたしへの私信だから。本当のお便りだったら破れないもん」
使者の役割は、王たる生徒会長と民たる生徒の媒となることだから、それを反故にするような行為は「使者の誓約」によって禁止されている。お便りを破くなんてもってのほかだ。もし違反すれば、使者の座から降ろされちゃう。
ただ、こういう会長宛じゃないノイズレターは、民と王のコミュニケーションを阻害するものだから、破棄することが義務付けられている。つまり、わたしには検閲の権利があるってわけね。
「そんな手紙も混じってるんだあ。大変だねえ」
わたしから借りたハンカチで手を拭きながら、シャチは感心したように言った。
「そんな、他人事みたいに」
「まぁ、他人事だし。あたしがそのリュック背負うわけにはいかないでしょ」
「うん、そりゃあね」
わたしは無意識にリュックの位置を正す。なで肩なもんだから、そのうちにストラップがずれて落っこちそうになるのだ。
「でも、このネットSNS時代に手書きのお便りなんて、よーく皆、書くよねえ」
並んで廊下を歩いていると、シャチがそんな話を振ってくる。全く同感だ。
「それくらい誰も彼も自分の状況を知らせたいんでしょ。あと、会長に届ける手段がそれしかないっていうのもあるかな。会長、携帯もパソコンも持ってないし……っていうかそれ以前にいないし」
「でも、キズナちゃんは使者だから、預ければ会長に届く! ほんと助かるよねえ」
その会長がいないのだけど、という反応は大して意味をなさない。
会長がいないこととわたしが会長に手紙を取り次ぐことは、密接しているようで実は全然関係のない事柄だから。会長がいなくても、わたしは会長に民の声を届けなければいけない。それが使者というもの、なんともしんどい仕事だ。
「というわけで、これ、お願いします!」
だから、横に並んでいたシャチがいきなりわたしの前に躍り出て、賞状でも渡すように差し出された手紙も、恭しく受け取らなければいけないのだった。
「はいはい。じゃあ中身見るよー」
「ぎゃー! 職権乱用!」
わたしが手紙の封をあっさりと千切ると、シャチは真っ赤になって悲鳴を上げた。そんな読まれて困ることが書いてあるのか、とちょっとSっ気の湧いたわたしは、おばあちゃんみたいに細くて斜めがちな文字を、声に出して読んでやることにした。
「マイ・ディア生徒会長様。初めてお手紙を書きます、いかがお過ごしでしょうか。この頃は、貴方のことを考えては日の沈みを早く感じ、夜の更けるのを遅く覚えます……いじらしくも、ぽつりぽつり、と……貴方の俤を浮かべるごとに……わたくしの心を苛み……貴方を無性に……も、求めてしまうこの想いが……たまらないく、く、苦しいのですって、何やねんコレ!」
「キズナちゃん、恥ずかしくなるの早いって」
シャチの拍子抜けたような顔が憎い。からかうつもりが裏目に出てしまった。
「で、一体何なの、これ」
「そう訊かれてしまってはしょうがない、白状しましょう」
問われたシャチは、思いっきり胸を張って答えた。
「なんとこの度、生徒会長ファンクラブができたの! そして、これは記念すべきファンレター第一号っていうわけ。みんなで書いたんだ」
「ええ……」
わたしは呆れた。
どう考えてもスベってるのに、シャチは誇らしさをキープし続ける。なんでそんな、友達の告白がうまくいったような調子なんだろう。
使者である都合上、断ることはありえないので、わたしは甘ったるい文の綴られた手紙をさっさと畳んで、リュックに突っ込んだ。
「うん、確かに受け取ったよ。これを、いない会長に届ければオッケー、と。ほんと、ツライ仕事だ……」
わたしのぼやきに、シャチは耳ざとく反応した。
「あ、やっぱツライんだ」
「まぁね。嫌でも目立つし、あと単純に重いしさ……ま、それは悪いことじゃないんだけど」
「それなら、辞退しちゃえばいいんじゃないの?」
「そんな、とんでもない!」
咄嗟にわたしが思ったより大きな声を出したので、シャチは驚いて目をパチクリさせた。
「と、とんでもないんだ……」
「そうだよ! だって辞退しちゃったら」
ぐっと、リュックのストラップを握りしめて、わたしは説得でもするかのように力を込めて言った。
「会長に会えなくなっちゃうじゃん!」
それでもわたしは……会長、いないんだけどね、と註釈しなくちゃいけない。そういう仕事なんだ。これが結構ツライんだ。
そもそもこの事態が決定的になったあの日、わたし達六人は生徒会室になる予定だったあの部屋に集められていた。
「よく集まってくれましたね」
もし存在していたら、生徒会長が座っていただろうお誕生席に腰掛けた上様が、わたし達を仰々しく労う。あ、上様っていうのは領収書もらう時、宛先に書くアレね。
「あなた達には、生徒会長になるか使いの者になるか、この場で選択してもらいます」
わたし達はしんと静まり返る。もともと黙ってはいたけど呼吸まで潜めるっていうの、しぃん度が高まったような感じ。
生徒会長はこの学校の王様だ。学校で一番偉いのは、校長先生あたりじゃないかと思うかも知れないけど、実はあの人自身が学内政治にかかずらう必要はない。
少子化の進み子どもの少なくなった日本に於いて、過酷な生徒獲得競争に耐え抜けるよう、学校の上層部は経営術に特化した人達で固められるようになった。彼ら彼女らが気にかけるのは、交通の便、全国大会での実績、有名校への進学率、有名人の輩出数、などなど、外部に対する宣伝材料でしかない。
で、そんなものは小手先の技術でどうとでもなるから、別に校長先生は誰であっても構わない。誰がなっても変わらないんだ。そういうわけで、わたし達にとって大事なのは生徒に最も近い指導者である我らが生徒会長、という話だ。
会長の影響力は、学校の風土へともろに顕れる。ガキ大将がなれば喧嘩の強さが格の高さになる、ガリ勉がなればテストの順位がイコール格付けに、傾奇者がなれば皆傾きに傾いて見得を切り、ゴボウがなれば皆競ってゴボウになる。
けれども悲しいかな、わたしは無難を愛する一般生徒。会長になるということは、自分の脳内がそのまま学校に投影されるということだ。そんなのいくらなんでも恥ずかしすぎるし、何人の生徒に影響を与えると思っているの、シンプルにわたしは嫌だと思った。
「それでは配布した用紙に、生徒会長になるならばA、使いになるならばBと書いて下さい」
上様はペラ紙を六枚、わたし達に回しながら告げる。
もしAと書いた人が二人いたらどうなるのかしら、連立政権かな、と思いながら、わたしはBと書いて提出した。結果はすぐに机上で明らかになる。
BBBBBB……その字面は何かを必死でキャンセルしようとしている趣があった。
こうして零人の生徒会長と、六人の使い者達が誕生する。
この事実は、翌日の朝会ですぐに発表された。ふざけた告示である自覚はあった。わたし達六人の使者は、生徒達から浴びせられるであろう暴言に戦々恐々としながら、壇上に立ちすくんでいた記憶がある。
しかし、生徒は異常な寛容さでその決定を受け入れた。
いやだって、使者に便りを持たせれば、生徒会長に届けてくれるんでしょう? それなら、別に問題はないじゃないか。
その論理の柔軟さは、まさに生徒会長がいないことで逆説的に現れたものなのかも知れない。会長は学校の理屈そのものだ。会長が不在であると言われれば、それはそれでそういうものである、という理屈が通ったろう。
そういう意味では、生徒達は会長の意図を正確に汲み取ったんだと思う。
そして会長が存在しないせいで、生徒が彼・彼女に出会えなくたって問題はない。なんてったって、使者の面々が会長に便りを届けてくれるのだから。わたし達は音を伝達する空気、光を伝達するエーテル(あれ、これは存在しないんだっけ?)のような媒介として、この学校に君臨することとなったのだ。
実際になってみた感想として、会長になるよかマシだけど、請け負った仕事がいつまでも未了のままで残るのがきつい。
会長はドーナッツの穴だ。生徒はドーナッツの生地そのもの。使者はドーナッツの輪郭。あ、リングドーナッツの話ね。トーラス状のやつ。
ドーナッツの穴(会長)は、無秩序に拡大しようとする生地(生徒)に、使者という媒介で輪郭をつけることでようやく穴として見えるようになる。会長がいることで(いないけど)初めてこの学校の風土はドーナッツとして個性を持てるけど、生地が欠けても、使者が欠けても、会長は持続できなくなってしまう。つまり、学校は成り立たないということだ。
ちょっと文字にして説明すると難しく見えちゃうけど、日々使者として活動するわたしにとっては、肌がヒリヒリするくらいリアルな話なのだ。
あ、わからない人は二重丸を描いてみるといいかも◎。で、内側の円の中に「会長」、外側と内側の円の間に「生徒」、それから二重丸を作っている線に矢印を引いて「使者」。これが会長を巡ってできあがる学園ドーナッツの模式図。会長が実際に現れたら、真ん中が盛り上がって甘食になるかもね。
「キ、キズナセンパイ! これ、会長に……お願いします!」
「はい、ありがとうね」
耳まで真っ赤に染めて手紙を差し出した後輩くんは、きっと会長ファンクラブの会員なんだろう。
わたしは無表情で封を解き、中を見た。そこには会長への想いが赤裸々に書かれている。『軽やかな視線が合った瞬間、キュンとしてしまう』なんて、どうやったら会長に見られることができるのか教えてほしい。謎だ。
わたしは溜め息を吐きながら手紙をしまう。
これでファンレターは四通目。複雑な気持ちだった。たったその四通だけで、背負ったリュックがどっと重くなった気がした。わたしのか細いなで肩を厚かましい肩紐が食い込んで苛む。大変な仕事だ。
けれども、仕事は大変であることは当たり前で、必ずそれと釣り合うくらいの報酬がなくてはいけない。
わたしは使者だ。だから、生徒会長と真っ先に会う義務がある。と、同時にそれはわたしにとってこれ以上無いくらい妥当な報酬なのだ。
なんて幸せなポジションなんだろう。それだけでわたしは頑張れる。
わたしがシャチからファンクラブのことを聞いて呆れたのは、何で今更? という先駆者としてのプライドの現れだ。
会長に会いたい。会長に最も近く、熱烈に会いたいと思っているのは、絶対にわたし。
使者になってから、ずっと燻っていたこの気持ちは、リュックにファンレターが混じることで段々と変わってきた。
この手紙を全て手放す時のことを考えると、胸がドキドキする。頬や耳が熱くなる。突然、スキップしたくなったり、どうしようもなく気分が沈んだりする。会えた時のことを考えて、どんなことをして一緒に過ごす妄想から、いきなり時間がワープして、わたしがあの人の名字になったら……とか考えて、とんでもないことだと自分の浅ましさを恥じる。
会長はいないんだ。一度だって忘れたことはない。会長はドーナッツの穴だから、わたしはその周りをぐるぐる回り続けることしかできない。この思慕は最初から負けが決まってるわけ。
一応、他の使者の皆がわたしと同じように、そういうモチベーションで働いているわけじゃない。
だからわたしは過去に、使者仲間の保賀くんに訊いてみた。
「わたしって何でこんなに生徒会長に会いたいんだと思う?」
「僕もそれについて考えてみたけど、多分、普通にしてたら精神が持たないからだと思うんだ」
真面目で背が高くてシャープ眼鏡な保賀くんは、透き通るような声でわたしの思いを見事に分析してみせた。
「まず、この学校に会長はいない。で、僕達は会長に生徒の声を届けるのが役務だから、生徒から手紙を受け取って会長に届けなくちゃいけない。でも、会長がいないからこの仕事はいつまでも生きたまま、僕らの成すべきこととして残り続ける。これは人間にとってキツイことだ」
「ふむふむ、たしかに」
「でも僕らは折れることもできない。折れて辞退した瞬間に、僕らが届けるはずだった手紙は謂わば不良債権になる。まあ、民の声を阻害したってことでこれは誓約違反になるから、結局僕らは使者を降りられない。降りられるのは会長に手紙を届けて手ぶらになった時だけだ。でも、会長はいない」
「やめられないキツイ仕事だよね」
「同じ理由で、死ぬこともできないしね。どうあってもドロップアウトができない。そういう状況で僕らの脳が考えなくちゃいけないのは、いかにこの仕事のストレスを緩和するかってことじゃないかな」
「ほうほう、続けて」
「キズナちゃんの場合は、会長に『会いたい』という気持ちに付加価値を与えることで、このストレスを和らげようとしてるんじゃないかな。原理的に僕らが会長に会いたいのは、この山とある手紙を渡して使者としての重い責任から解放されたいからだ。会って楽になりたいから会わなくちゃいけないってね。けど、キズナちゃんはその目的をすり替えてみせた。会長に会いたいのはわたしが会いたいからだってね。少なくともそう思って主体的に動く限り、使わされてる意識があるよりストレスは感じないんじゃないかな」
以上、分析終わり。
まあもう、目から鱗だった。びっくりするほど腑に落ちた。
「すごいすごい! 保賀くん、きっとそうだよ!」
わたしは文字通りぴょんぴょん飛び跳ねて、保賀くんを絶賛した。保賀くんは得意気に眼鏡をキラリとさせる……いや、これはわたしが飛び跳ねたから、そう見えただけか。
ともかく、わたしの「会いたい」という気持ちは、学校の中、手紙を預かり歩く内に、様々な後付の理由をくっつけて成長していった。
好きだから会いたいのじゃなくて、会いたいから好きなのだ。
まぁ、そういう倒錯もある程度は許されていいんじゃないかしら。使者として生きるのってそれくらい大変なんだ。ちょっとくらい狂っていかないとね。
生徒会長ファンクラブの活動は、日に日に盛り上がっていった。
ファンレターはたいてい一日三通、多いと七通受け取るようになった。これは使者一人あたりの話なので、六人合わせれば結構な量になる。
「ファンクラブって一体何人いんの……」
わたしはシャチから、相変わらずよくわからない甘言の炸裂するファンレターを受け取った時に訊いてみた。シャチは首を傾げた。
「うーん、わかんない。会合とかあるけど、面子毎回違うしね。一クラス分以上いるのは間違いないかな」
「体感もっといるような気がするな……その、クラブ会長とかいないの?」
「いるのかも知れないけど、会ったこと無いなあ。あ、生徒会長リスペクトでファンクラブの会長もいないのかもね」
ドーナッツに別の穴がまた一つ、ってことか。
使者仲間の龍ケ崎くんは、ファンクラブの誕生と拡大はわたしの影響だと笑った。
「キズナの会長好き好き大好き超愛してるって気持ちが、生徒に感染ったんだろ」
彼も斜がけにしたスポーツバッグに、わたしと同じくしこたま手紙を溜め込ませている。
行き先不在の数多の文が、ゴミに見えるか書類に見えるかは、使者の性格に依る。例えば、後輩の使者マヤはズボラだからシュレッダー待ちの紙の束に見えるけど、龍ヶ崎くんはチャラ男っぽい見た目に反して(実際チャラいけど)マメで、丁寧にジャンルごとにファイル分けしている。字が綺麗な手紙を読むのが好きなんだとか。
「それじゃ、いつものものを……」
「はいはい。今週は一八通だな」
ぽん、と手紙の束を手渡される。全部、会長へのファンレターだ。
ある時期からわたしは耐えきれなくなって、他の使者に預けられたファンレターをわたしの元に集めるようお願いしている。よくわからないけど、会長への好意が人の手にあるのが許せなかったのだ。
さいわい誓約では、使者間での手紙のやり取りは禁止されていない。場合によっては、民の声が届きやすくなるからか知らないけど、都合のいいことだ。
わたしはほくそ笑みながら、見返りに達筆な手紙を彼に差し出す。わたしの元にしかやってこない、結構レアな代物だ。龍ヶ崎くんは品を確かめて、へへ……と舌なめずりをする。
「変質度で言ったら、わたしよりも龍ヶ崎くんの方が高そうだよね」
「う、うるせえな」
「書道部のコなのかな。その手紙、すごい字上手だよね。内容はひどいけど」
活字とも見紛うような美文字で書かれるのは、家族への恨み辛みだった。特に弟への攻撃が激しく、人はそこまで貶すことができるんだ、って感じで、逆に新鮮さを覚えてしまうほど。会長に届いて解決する問題なのかわからないけど、宛先が明確に会長である以上、捨てるわけにもいかない。
「そんなこといったら、会長へのファンレターだってひでぇだろ。よくあんなオナ…………いや、自己満な文章書けるよな」
「龍ヶ崎くん、よく呑み込んだね」
わたしは端的に思ったことを言いつつ、もしかしたら会長がいないから、人は赤裸々に自分の感情を書けるのかも知れないな、とふと思った。
ネットSNSでは誰もが好き放題喋っているように見えるけど、実は複雑な人間関係が埋めこまれている。一人で複数のアカウントを持つのも当たり前の時代だし、結局のところ、見せても大丈夫な自分と受け入れて欲しい自分をうまく落とし込んで演じるしかない。
けれども、会長はいないから、ドーナッツの穴だから、それなのにお便りを出せる仕組みになっているから、皆あられもない姿を安心して紙面に投げ出せるんじゃないのかな……とかなんとか。
だって、そこに人間関係はないんだもの。読んでくれる人はいるけど、いない。こんなに安心できる空間が他にあるのかしら? もしかすると、これこそ人の求める故郷なんじゃない?
だから、この仕組みは、書いたものを読んで欲しいという人の欲求をびっくりするほど掻き立てる、んだと思う。
皆、何故それほどまでに喋りたがり書きたがるんだろう。保賀くんなら知ってそうだけど、今思ったことを正確に伝えられるかは怪しかった。
わたしは使者だから会長に便りを出すことはできないし、不在の会長にお便りを出す生徒のモチベーションはわからない。けど、同じような考えの筋道で、生徒はわたしの会長に会いたい気持ちを理解しないのだ。
「えー、会いたいって……会長はいないんだよ!」
わたしの会長に会いたい発言を受けたシャチは、それはもう至極まともな反応をしたものだった。
それもそうで、だって、わたしの会いたいという気持ちと、彼ら彼女らが会長を好きと思って手紙を綴る気持ちは、全然別のことなんだもの。
わたしがファンレターを蒐集するのは、このギャップを埋めようとしたからなのかも知れない。
十一月から十二月にかけて、ファンレターの数は指数関数的に増えていき、わたしのか弱いなで肩をその重みでいじめた。リュックの底が抜けた時、それがわたしの使者としての寿命なのだな、と諦めなのだか覚悟なのだか、よくわからない気分で過ごしていた。
期末テスト明けの水曜日の放課後、わたしがいつものように廊下を歩いていると、誰かが後ろから突っ込んできた。
「キズナちゃんセンパイ! 会長っすよ、会長!」
きゃいきゃいと甲高い声は、後輩使者のマヤだった。慌てて振り向くと、満足げなネコのようにわたしの肩を頬ずりしている。
突然降って湧いた情報量に、わたしは混乱した。
「会長って……どういうこと?」
「だから会長がいるんっすよ、見に行きましょうよ!」
マヤはわたしを追い越し、わたしの腕を取って引っ張る。これがまたすごい力で腕がもげそうになり、マヤのダッシュに合わせて走らなければいけなかった。彼女の肩をかかる大きなトートバッグから覗いた、大量の会長へのお便りが溢れ出しそうで、こっちが勝手にヒヤヒヤする。
連れて行かれたピロティには、人だかりができていた。走らされて否応なしに早められた鼓動と、本当に会長に会えるのかという緊張が、その光景と相まって、わたしの身体を冷やしたり熱くしたり忙しない。
「な、何なの一体……」
「いいからいいから」
マヤはニコニコニコニコしているばかり。
最初はわけわからなかったけど、そのうち冷静になってどういうことかわかってきた。
「生徒の皆さん、御機嫌よう」
ピロティの柱の陰から、二の腕に綺羅びやかな腕章をつけた生徒会長が、颯爽と現れた。そのセリフに飢えていたらしいギャラリーが、うおおおお、きゃああああ、と歓声を上げる。
「本校の生徒会長です。期末テストが終わりましたが、如何でしたか?」
難しかったー、キツかったー、わりといけたー、と声が上がり、生徒会長は楽しそうに笑う。
「そうかそうか。生徒の声を直に聞くのは良いものだな……」
「か、会長ー! こんなところにいたんですかぁ!」
そこへ、スクールバッグを抱えた生徒が飛び出してくる。いや、生徒じゃないな、バッグは遠目からわかるほど大きな封筒が突き刺さっていた。
「やあ、使者くんか。今日もお便りを持ってきてくれたんだね」
「そうですよ、クレームほっぽって今日も遊び歩いて! はい、これ、生徒からのお便りです!」
「いやあ、参った……でも、これも会長の仕事か。正直、面倒くさいけど目を通しておくよ」
『面倒くさい』という言葉に反応して、生徒が笑う。それが冗談として通用するのは、この学校独自の点というか。
まあ、何かと思えばここのピロティは演劇部の活動場所だ。それで、この学校の生徒会長をネタにした劇を上演しているというわけだった。
「もー、最初からそう言ってよ」
マヤに文句を言うと、彼女は一しきりにひひと笑って観劇に戻った。
そこからのストーリーとしては、会長が使者と一緒に校内を巡って事件を解決する話だった。鍵をかけてもすぐに解錠されてしまう屋上のドア、突然壁から落ちる校内の見取り図、やたらとよく滑る第二体育館前の廊下……よくも殺風景なピロティで、めくるめく場所を全部を再現できるなあ、とわたしは感心した。
カーテンコールの後、演劇部で一番滑舌の良い女子が出てきて、ぺこりと一礼した。
「生徒会長ファンクラブの後援でお送り致しました……」
なるほど、シャチ達の手回しでこの劇が作られたらしい。
隣で熱心に見入っていたマヤはぱちぱち拍手しながら、あはは、と軽快に笑ってみせた。
「会長かっこよかったし、これは会員増えるんじゃないですかね~。ファンレターの数も!」
「まさか……ここにいる人は皆、ファンクラブの人達でしょ?」
なんて言うわたしの希望に反して、その後一週間に預けられたファンレターの量はおびただしいものだった。
一日あたり十通は当たり前、使者全員分集めると百通にも達する日もある。中身は漏れなく会長に対する好き好き合戦。クオリティは玉石混淆。文芸部の靭やかな書き手ならともかく、文章に不慣れな生徒はかくも「好き」を表現する方法を持たないのかと、赤字で添削したくなる。もちろん使者的にはアウトだからしないだけど。
個人的には、奥手なサッカー部員の男子(意外と存在するものよ)が、素朴な言葉遣いで会長への好意を伝える手紙が一番グッと来たけど、グッと来るだけだし、何で色紙なんかに書くかな、重いしかさ張るし泣きたくなった。
演劇部の活動に触発されて、他の部活も生徒会長へのリスペクトをこぞって表現し始めた。生徒会長のテーマソングとか生徒会長体操、Webサイト、生徒会長のお弁当、生徒会長の肖像画(顔は深い霧で覆われている)の流布とかは当たり前、テニス部は審判の向かい側に生徒会長席を誂え、野球部は会長専用のユニフォームを作成、サッカー部は予算不足に喘ぎ、水泳部は会長の凄さと敬意を独自のシンクロナイズドスイミングで表明し(当然温水プールで)、美容部は生徒会長コーデを提案して流行させようと目論見、アイドル研究会は「生徒会長の彼女にふさわしい女子総選挙」を企画し、生徒会長女性説またLGBT説、神秘的存在説の立場を取る生徒達の反感を買い炎上した。
どれもこれも、期末テストから年末に学校が完全封鎖されるまでの三週間という、非常に短い期間で起こった出来事だ。わたしのリュックを支えるなで肩は、会長への愛の重みで傾斜が更に激しくなりそうだった。
「会長……本当に……会いたいよ……」
会長ブームに燥ぐ校内を一人彷徨いながら、わたしは小さくぼやく。
本当に会長に会おうとしているのは、この学校でわたし一人だった。
元旦を迎え、三が日を過ぎると学校の完全封鎖は解除される。
例年、年越しを学校で過ごそうとする生徒がごろごろいたけれど、今年度は一人もいなかったらしい。これが生徒会初の実績なんじゃないかしら、と思った直後に、生徒会長のいない生徒会はありえないことに気づく。現実と正面衝突する、かつての常識が鬱陶しい。
一月の始まり、わたしは開放された学校に行って、存在しない生徒会長に生徒からの手紙を届けるべく廊下を歩く。
年明けしたばかりというのに、学校にはほぼ全ての生徒が出揃っていて、思い思いの過ごし方に興じていた。
今日も今日とて手紙は届く。
VR空間における性交シミュレーションのためのスパコンの導入検討について。
テコンドー部創部に対する明らかな偏見に基づく抗議文。
周辺地域の方々との懇親会のタイトル案。
UFO・UMA発見時における報奨額設定の打診。
各部・各宗派から寄せられる大講堂建設の嘆願書。
会長へのファンレター。すきです。
お使いちゃんへ。すきです。メルアドはhoshino_hoshihoshi@zzweb.ne.jp。破棄。
つくづく思うけれども、結局会長を通さなくても何とかなりそうな(通しても何ともならなさそうな)ものばかりだ。真に会長を必要としているのは、ファンレターだけなんじゃないかしら。
「……?」
わたしはそう考えた途端に、何かしらの物足りなさを覚えた。その正体を掴めないまま、もやもやとした気分で保賀くんに会いにいく。
「やぁキズナちゃん……会長へのファンレターだね」
保賀くんはわたしの要件を心得ると、登山用なのかとにかく大きなバックパックを探って、ファンクラブ会員の手紙を取り出し手渡してくれた。
それを受け取って、わたしは物足りなさの原因を知る。
明らかに量が少なくなっていた。十二月の半分程度にまで、ファンレターは減っている。
わたしは学校を駆けた。
残る四人の使いから、同じように会長へのファンレターを受け取る。
そして、どれも同じようにその量を減らしていることを確認するのだった。
「ねえシャチ、ファンレターの数減ってない……?」
わたしは相変わらず手を拭かずにトイレから出てくるシャチに、ハンカチを貸すついでに訊いた。シャチは、あー、と口をまん丸く開き、それから、えー、と口を楕円に変形させた。
「そんなことなくない?」
「あるよ。年明けた瞬間にドカンと減ったよ」
「まさか、気のせいだよ。あ、ごめん、あたしこれから部活で先輩の卒業発表の手伝いしなくちゃいけないんだ。じゃあねえ」
わたしにハンカチを返すと、シャチは手を振り、踵を返そうとする。
咄嗟に、わたしはその生乾きの腕をガッと掴んだ。
「ちょっと!」
「ぎゃー! 何々、どうしちゃったの!」
「ファンレター渡さないの!?」
顔を合わせば毎回と言っていいほどファンレターを押し付けてきていたシャチが、今回は何も用意していないって、わたしにとっては驚天動地のとんでもない出来事だった。
「あー……それねー……」
シャチは困ったように笑って、せわしなく視線を巡らせる。
「なーんか、年明けてから落ち着いちゃったっていうか……別にあたしがやらなくても平気かなーって」
なんてこと。
わたしはシャチと別れると、急いでピロティに向かった。演劇部は卒業公演に向けて、シェイクスピアのベニスの商人をベースに据えた現代劇の準備を進めていた。吹奏楽部は春の演奏会に向けた練習、ロッシーニらしい。美術部は同じような展覧会への作品作り。運動部は普段と変わらず練習に励み、サッカー部は三つのサッカーボールをうまく使い回していた。
そこにあるのは、会長がいてもいなくてもあるような日常だった。
生徒会長バブルが弾けたのだということをきちんと理解するのに、その後半月はかかった。会長宛てに無窮の好意を表明したことで、すっかり満足できました、とでもいう具合に、ファンレターの数は目減りしていき、一月の終わる頃には一日一通来れば良いくらいになっていた。
そして、誰もがその事実に鈍感だった。
「まぁ、実際こんなもんなんじゃねえの」
とは、龍ヶ崎くん。
「あー、確かにめっちゃ減った気がしますね」
とは、マヤ。
他、使者三人も同じ感じなので省略。
尤も、ファンレターの減少に敏感だったのがわたしだけだった、という話なのだと思うけれど。生徒達の生徒会長への好意を自分の好意の代弁としてかき集めていた、異端の使者としてのわたしだけが、感じられる痛み。
大量に預かればその重さで苦しくて、数が減ってみればその衰退が痛く悲しい。わたしは、皆が生徒会長を慕ってくれて嬉しかったんじゃなかったの。その手紙の重さも嬉しかったんじゃないの。
なのに、どうして後に残るのは、ネガティブな気持ちだけなのかしら。
そもそも会長に会いたいから会長が好きだなんて、わたしの脳が勝手な防衛機制を働かせなければ、こんな思いをしなくて済んだのに。保賀くんや龍ヶ崎くんやマヤみたいに、普通のまっとうな使者としてこの学校での生活を全うできたのに。
わたしは悲しかった。わたしは寂しかった。
でも、どうしようもないんだ。このわたしはこんなわたしだもの。誰かが選んだわけでもわたしが選んだわけでも、かと言って選ばなかったわけでもなく、恣意と強制と感情をごった煮にした時間の流れが、わたしをこんな風にデザインして、ここまで押し流してきたのだ。
……わたしは怖く、そして、悔しかった。
このまま、会長がドーナッツの穴として、忘れられてしまったら、という恐怖と。
そして、そうなることを恐れながらも、使者という立場上何もできないわたしの無力さ。使者は王である会長と民である生徒を結ぶ媒介。伝達に齟齬が出ないよう無色透明であることが望ましいから、わたしに出来ることなんて――いや。
わたしは、深夜の、誰もいないピロティに一人立った時、ふと思い直した。
皆、無色透明であると信じたいのだ。
自分の思い描いた心の中が、全く純粋にストレートに余すところなく伝わると信じなければ、誰が言葉を発しようと思うだろうか。話の通じない、感情も通じない人間だらけの場所で、誰が何かを喋ろうと思うだろうか。一瞬でも、言葉の全能性を信じなければ、約束されていなければ、託していなければ、到底できない芸当だろうじゃないか。
しかし、その挑戦が尽く失敗するだろうことを、多くの人が知っている。すれ違い、勘違い、いさかい、挑発、暴言、無理解、誤解、糾弾、緘黙、は、わたし達が話す動物である以上、不可避のエラーだ。その軋みが最終的に暴力へと行き着くことは、歴史が何度も証明してくれている。
絶対に伝わらないことによって絶対に伝わる、という不在の生徒会長と無色透明な使者のシステムは、そんな不安を言葉から取り除く、のだ。
だから、嘆願書からファンレターまで、汲々と喋りたがり齷齪と書きたがる。
全てが明晰に伝わる世界は、少なく見積もってかなり素晴らしい。
「はて、こんな考えをして、一体何の役に立つのかしら……?」
わたしは舞台の上で、ひとりごちる。
明かりは落ちていた。無法に広がる深遠な暗がりの中へと、わたしの声は吸収されていく。
「人々がドーナッツの穴へと、氾濫した河の水のように言葉を投げ込む学校で、わたしは会長のために、結局、何ができるというの?」
「何でもできるさ。君は、恋をしているのだから」
答えて、会長は言った。深淵の中から。
「何でも?」
「そう、それも会長が落ち目の時ほどね。十二月の生徒会長ブームは、いわばルネッサンスだった。この学校の理論の根源は生徒会長だ。しかし、その会長はというと、いないということによって初めて存在している。そんなものが実在するのか、段々わからなくなってくるだろう。そこで、生徒会長という不安の捌け口が本当に存在するのか、それを再確認するためにお祭り騒ぎを起こしたのさ。結論としては、やっぱりあったねということで皆、安心して、落ち着いたという感じだね」
「生徒会長は生徒の不安の捌け口じゃないわ」
「それはそういう側面もある、という話だよ。何と言って、『生徒会長』は空白であることによって作用する機械仕掛けなのだからね。機械なら、使い方次第で効用は変わってくるだろう」
生徒会長は空白であることによって作用する機械……そのセリフはあまりにも良く効いた。
「それじゃあ……わたしの背負ってしまった生徒会長へのお便りは何なの? この重さの、この好意の、この愛の、素直で純粋な気持ちの、宛先は? 一体、誰に譲ればいいというの?」
わたしの長台詞は、悲愴の闇に溶けていく。あたかも、会長の腕に優しく包まれているかのよう。
そして、会長の声は更に高らかにこう告げるのだ。
「全部、君のものさ。君自身、今しがた気づいたばかりなんじゃないのかい? 生徒達による数々のだらしのない好意、純粋な愛、闊達な悪意、奔放な思い、その他諸々が、無色透明の透徹した地肌にこびりついて、決定的な模様を浮かび上がらせていることに。それは、常に生徒会長へ迫らんと歩く君が、媒介者であることを超えて生み出した、新しい穴のカタチなんだよ」
……日付を跨いで家に帰ったわたしは、めちゃくちゃ親と兄に怒られた後、部屋にこもって『文芸部の靭やかな書き手』による、ファンレターを読んでいた。
拝啓、生徒会長様。
僭越ながら、ファンレターというものを書かせて頂きます。ただ、私には不在のあなたに対する一角の因縁がありますので、美辞麗句を弄して単純な好意を表したところで何の意味もないのでしょう。
ですので、先に告げてしまいます。
好きですよ。
さて、紙幅が余ってしまったので、私はこれから、次に来る人のためにこの手紙を認めます。あなたなら、これくらいの稚気も許してくれますよね。
お前が永く深淵を覗くなら、深淵も等しくお前を見返すだろう(wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.)、と云いますね。これは怪物と闘う者(Wer mit Ungeheuern kämpft)への忠告として書かれています。お前も怪物にならないよう注意せよ、と。
では、この「怪物」とは一体何でしょうか。
あなたならお気づきでしょう。あなたの身近で一体誰が闘っているのか、も。
さて、この有名に過ぎてどうしようもない文を書いた作者は、別の作品でこれまた有名に過ぎてどうしようもないキャラクターを登場させます。たまにこのキャラクターを超人であると見なす方が居るのですが、そんな途方もない誤読を会長がなさっているはずはありませんよね? 超人は未だ到来していないのですからね。
この明るい星と名を冠する人物はこう語りました。
「人間は綱だ、動物と超人とのあいだに掛け渡された――深淵の上に掛かる、一本の綱だ」
深淵はドイツ語でAbgrundです。abは取り消し、遮断を意味する接頭辞、grundは地面や大地、基礎や土台を意味するほか、理由や根拠など、英語でいうreasonの意味を持ちます。
以上のことから、Abgrundは直訳で「根拠も理由も取り消されたもの」、ちょっと意訳すれば「根拠も理由もないもの(場所?)」、それを我々の言葉で深淵と表現するのです。
深淵とは、単に深くて暗い谷のような空間ではないのです。ちょっと賢くなった気がしますね。私もたった今調べて、そうなんだ、と感心しているところです。
しかし、そうなると、この根拠もヘチマもない空間に綱のように渡された我々人間が、根拠もヘチマもないものに見返されるというのは一体、どういうことなのでしょうか。
というか、そもそも根拠も理由も理屈も理性もない場所って、一体全体何のことなんでしょう。っていうか、ここでいう「ない」って、一体何を指すのでしょうね。
無学な私には見当もつきません。できることならぜひ、あなたの解釈をお聞かせ願います。
……今日はこれくらいにしておきますね。恥ずかしながら、普段使わない脳細胞を使ったせいで、眠気が蟠ってきているのです。
それでは、良い眠りを、おやすみなさい。
会長殿。
文芸部 三年 広垣 花蓮
わたしはベッドの中、温もりに包まれて呟く。
おやすみなさい。
愛しの空白。
その日の朝会に、わたしは使者の代表として登壇した。普段の朝会とは違ったスケジュールに、生徒達は軽くざわつく。校長先生の挨拶の後、生活指導教諭の説教の前、そこは生徒会長の話が入るべき場所だった。
「皆さん、おはようございます」
大半の生徒たちは、使者が壇上に出るということはどういうことかをきちんと説明できないだろう、けれども何かしら切迫した何かが始まるのだろうと感じ取れる感官を持っているはずだ。
朝、わたしが登壇の許可を求めに行った時、上様はそう言ってわたしの顔を見つめた。
「これから起こることは、私の手には負えないでしょう。あなた自身で、どうにかしなくてはいけません」
「わかっています」
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「皆様の使い、絆地乃生です」
マイクで拡張された自分の声は、まるで彼方で喋っているかのように、遠く響いた。体育館の天井付近にくぐもる残響だけが、わたしの耳に返ってくる。
「年が変わって早一ヶ月、前年以上に生徒の皆さんの活動が精力的であることを、喜ばしく思います」
それは他でもない、会長ルネッサンスの効果なのだろう。あの狂騒的なブームのお陰で、生徒達は誰がこの学校を好く治めているのか、はっきりと自覚することができた。そのため、安心して日々を謳歌することができている。
だからこそ、この復興運動はこの先、何度でも起こらなければいけない。
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上様は言った。わたしの心を問いただすために。
「このシステムがあるので、次期生徒会長選出の時期まで放っておいても、学校崩壊する心配はありません。人間、同じことを続ければ倦み飽き困憊しますが、そうして落ち込みかけた精神を会長像の再生産によって自動修復するからです」
「そして、吸い出した疲れを誰かに押し付けているのですよね。例えば、わたしみたいな、会長に会いたいと思ってしまった、不幸な使者に」
「押し付けているわけではありませんよ。ただただ、あなたは貧乏くじを引いてしまっただけのことです」
「わたしが悪かった、と……」
「あなたを悪いと言うつもりはありませんよ。人に責任を丸投げして自分だけ免れようなどとは、思いません。これは善悪の彼岸のお話ですから、皆が当事者なのですよ。そして、不幸な人だけが盤面を狂わせる能力がある、そう私は思うのですが、どうでしょう?」
「幸福な人は盤面を狂わせる必要がないですから当然ですね」
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「さて、今回わたしがこうして我らが生徒会長の居るべき場所に立っているか、その本意についてお話します」
わたしは、背負っていたリュックを肩から外すと、演台の上に一旦置く。
それから、ジッパーを開けて中身を生徒達に見せてあげた。これだけシンプルな情報なのだ、体育館の一番後ろで、壁に寄っかかった生徒でも見落とすことはなかっただろう。
リュックの中身は空っぽだった。
「先日、生徒会長に手紙が全て渡りました」
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「上様……こんなに個人的な事情で、わたしは壇上に上ってしまって良いのでしょうか」
わたしは壇上で生徒達に姿を見せる直前、急激に不安になって訊ねてしまった。
上様は優しくも厳しくもない、ただしっかりと伝えようという意志の奔る調子で、答えた。
「あなたのそれは、十分に社会的な事情ではないですか」
生徒会長に、会いたいのでしょう?
そりゃあ、もう。
なら、十全。
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思えば、簡単なロジックの話だった。
机上にBの六つ並んだあの日、わたし達は生徒会長の使者ではなく、生徒の使い走りとして誕生することとなった。そうならざるを得なかった、何せ生徒会長がいないんだもの。
で、生徒の使いとして生徒会長に会えなくて苦しいなら、生徒会長の使者としての仕事を果たせば良い。
わたしが空っぽのリュックを見せつけた時、生徒たちは遡及的に、わたしの辿ったであろう過去を推測することで、一つの結論に達せざるを得なくなる。
使者、絆地乃生は、生徒会長に会った。
どう逆立ちしても会いようのない、存在しようもない会長に会った。
「そして、今、ここに文芸部三年生、広垣花蓮さんへの返事が届いています」
わたしはそう言って、ポケットの中から便箋を取り出した。
拝啓、広垣花蓮様
お便り、ありがとうございました。文芸部の本領発揮といったところですね。
僕達は思い出します。この学校がかつて、生徒会長の制度、使者の誓約に縛られていなかった昔のことを。昔と言っても、三、四年前の話ですが。大人はつい最近のことであるように、この年月のことを話しますが、我々のような子どもにとっては人格すら簡単に変わってしまう、恐ろしい年月でもあります。
さて、深淵に見返されるというのは何だろう、そもそも無根拠って何だろう、とあなたは仰りましたね。
世界の広さは途方もありませんから、それについて普遍的な回答を与えることは僕達の手に余りますが、僕達の手中にある事柄なら、つまりこの学校についてなら喋る事ができると思います。
まず、僕達生徒会長はドーナッツの穴です。そして、生徒はドーナッツの生地、使者はドーナッツの輪郭。この学校は会長という不在の空白を中心に成立しているのです。
ところで、この会長という穴は深淵ではありません。会長はそれ自身で論理の根源ですから、理性なき空間とは言えませんよね。
では、この学校における深淵とは何か……それは、穴を失ったドーナッツです。生地でも、輪郭でもなく、穴を……何故なら、穴のないリングドーナッツはリングドーナッツではないからです。それはこの学校がこの学校でなくなることを意味し、生徒が生徒でなくなることを意味します。
生徒でないのなら、この学校におけるあなたは一体何者なのでしょうか?
僕達のいないあなたとは?
僕達がいて、ようやくあなた達は生徒としての身元を保てるのではないのでしょうか?
怪物の正体についても、同じ事が言えると思います。
我々の闘うべき怪物とはつまり、本当のところ何者かわからない、けれども理由も根拠もなく存在してしまっている自分自身への不安のことなのではないでしょうか。
今、この手紙の文面を読んでいるあなたには、この深淵を理解できるのではないでしょうか。あなた自身の怪物と対峙できているのでは。
くれぐれも、自身も怪物とならぬようご注意ください。深淵を覗きこむものは、また深淵に等しく見返されているのですから。
……冷える日が続きます。お体にお気をつけて、残り少ない学校生活をお楽しみ下さい。
生徒会長はドーナッツの穴。
ドーナッツの穴の消し方は二つある。一つは生地で埋めてしまうこと、もう一つは食べ尽くしてしまうこと。
この手紙によって、生徒会長はドーナッツの穴でなくなった。
そこで、生徒達に許された解釈は二通りある。一つは、自分の存在が会長に追いついたと思うこと。もう一つは虚無に自分の存在が食い尽くされてしまったと思うこと。
楽に思い至るのは、後者でしょう。
あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。あ。
壇上というのは実に見晴らしがよく、生徒達の顔色が次々と消え失せていくのがわかる。
皆、みるみる気が付いていく。気が付かなくても気が付いていく。
存在しない生徒会長から、手紙が届いてはいけない。それは、この学校を支配するロジックの破綻を意味する。
あなたがドーナッツなのは何故? それは、穴が空いているから。
あなたが生徒なのは何故? それは、会長がいるから。
この学校の論理は生徒会長を軸に回る。だから、いないことによって初めて存在する生徒会長は、いることになったら存在しないことになっちゃう。そうすると、いないことによって存在する会長を前提に保証されていた、生徒の身元すら存在しないことになる。
それはまさに、自分という存在の根拠が消失したことに他ならない。
そうして、深淵に堕した世界は完全に停止した。
さっきまで朝会のために体育館に集合していた生徒達は、ぽかんとした表情を晒したまま突っ立っていた。そこに感情はなく、理性もなく、自分もなく、かちんこちんに凍結している。
ぽとぽとぽとぽとぽと、と、音がした。何かと思えば、生徒手帳が生徒の制服を抜けて、地面に落ちている。まるで、この状況の辻褄をあわせるかのように、ぽとぽとぽとぽと、生徒手帳の驟雨って感じ。
やがて、静寂が訪れる。
大量に散らばった生徒手帳と、一面に広がる青い顔。
参照先を失ったコンピューターさながら、無機質な静寂にこの空間は凪いでいた。心臓の音すらも消し去って。
わたしはこの、世界史の資料集で見た兵馬俑さながらの光景に拍子抜けした。
「上様……これはセーフティですか?」
覚悟していたのは、血で血を洗うような混乱だった。何せ、深淵なんて仰々しく言うくらいですもの。隣人に殴られたらそのまた隣人を殴るくらいの無秩序が出てきてもおかしくないと思っていた。
けれども、実際のところ、現れたのはまったく真逆の静かな空間。
傘が強風で壊れるのは、持ち主が傘もろとも吹っ飛ばないよう守るためだ。大きな危険を防ぐために自壊するのは、何かしら自己防衛めいた意図を感じてしまうけれど。
すると、上様は壇上へ上りわたしの隣まで来て、同じ景色を見やりながら答えた。
「いいえ……私は知りませんよ。けれども、この展開はあなたにとって好都合ではないですか? あなたもこの学校の一員なのですから、深淵のとばっちりを喰らっては堪らないでしょう」
まぁ確かに、隣人殴りの連鎖の果て、上様に殴られてしまってはたまらない。
「そうですね、忘れかけてました……ここに立つと、うっかり神様にでもなったような気になるので」
あいにく神様ではないからこそのフリーズというわけで。
でも、頑張れば上様くらいにはなれるんじゃないかしら。
「それじゃあ、行ってきます」
わたしは演台の裏に隠しておいた本当のリュックを手にとって、壇上から勢い良く飛び降りた。
固まった生徒の間を抜けて、わたしは進む。一応、散らばった生徒手帳を踏まないように気をつけながら。
その間、わたしは完全に凍りついた生徒を幾人か見てしまった。会長という拠り所を失った衝撃で、クラッシュしてしまったのだろう、か……そう、わたしがもたらしてしまったのはそれだけの危うさのある、人の命だって失われておかしくないものなのだ。
それでも……だからこそ、わたしは何としても生徒会長に会わなくっちゃいけない。
この深淵の生み出した停止を――無限に拡大したドーナッツの穴の上を歩いて。
「やっちゃったね、キズナちゃん」
「やっちまったなあ、キズナ」
「やっちまったっすねえ、キズナちゃんセンパイ」
人形のように直立する畜群の間から、保賀くんと龍ヶ崎くんとマヤが声をかけてくる。今まで出番のなかった二人の使者、可児くんもシェラちゃんもいる。使者はドーナッツのカタチそのものだから、実は生地がなくとも穴がなくとも全然平気なのだ。「三角形」ってどんなカタチかを知ってれば、別に書かなくてもいいのと一緒。
彼ら彼女らは、今、わたしの使者。
そして今のわたしは、会長の使者だ。
「皆、ありがとう。それじゃあ、この深淵の縁にしがみついてる人を探そっか」
わたしの号令に、うん、とか、オッケー、とか各々返しながら散っていく。
それじゃあ、わたしも探さなくちゃ。わたしの次に来る人を。
……。
……はぁ。
会長、会長。
やっと、会えますね。
手紙、やっと届けられますね。
ただ、一つだけ、謝らせて下さい。
わたし、勝手に返事の手紙書きました。
だって、そうしないと会長出てこないから。
でも、あの手紙、実は会長の署名ないんですよ。
だから、使者の誓約的に全然問題ないってわけです!
皆、あれが本当に会長からの返事だって信じてくれたのは、
わたしがこんなにもあなたのことを愛しているからなんですよ。
「広垣先輩」
わたしは、体育館の隅も隅に一人ぼっちで体育座りしている広垣先輩に声をかけた。
文芸部の靭やかな書き手さんは、憔悴した面持ちでわたしを見上げる。
「会長がお召です」
「わたしを……?」
「はい。立てますよね?」
わたしが手を差し伸べると、広垣先輩は不安そうな顔をしながらもしっかりと掴んで、地に足をつけて立ち上がった。
「意外なことに……立てたよ」
「先輩ならしがみついていると思いましたよ」
他の五人の使者達も、それぞれ自分の足で立っていられる人を連れてきた。皆、不安そうな顔をしていたけど、自分の生徒手帳はしっかりと持っているみたい。
よし。わたしは十一人の顔を見渡して、言った。
「それじゃあ、新しい会長、決めよっか」
わたしは生徒会長の席に腰掛けて、今さっき集めてきた六人を好きな場所に座らせた。
「あなた達には、生徒会長になるか使いの者になるか、この場で選択してもらいます」
言いながら、さっき行き当たりばったりに作った用紙を配布した。六人は緊張の面差しで用紙を回し、保賀くんの配る筆記用具を受け取る。
「それでは配布した用紙に、生徒会長になるならばA、使いになるならばBと、両方になる場合はCと、書いて下さい」
これでいいのかしら、とわたしは頭の中で呼びかける。わたしという使いへ、使いというわたしへ、そのどちらでもないわたしから。
会長に会いたい。
そう願ってやまない使いの宿命を、恋心であると勘違いした哀れな使いが、恋を始めるための新たな選択肢。
わたしの宣告に、六人は固い表情で用紙へと向き合い、よく考え、自らの答えを記入していく。
「……それでは、集めます」
六枚の用紙が裏向きになって、わたしの手元に手際よく集まってくる。それを、かつての上様がそうしたように机の上に六枚を並べた。
会長……待っていて……。
わたしは慎重な手つきで、伏せられた用紙を表に返していく。
それじゃあ。
さようなら、お使いちゃん。
生徒会長様
何て書こうとしたか、忘れました。
広垣 花蓮
わたしは、ぼんやりと学校内のバス停に立っていた。
本日最後の駅行きのバスが、十分後に来る予定になっている。空は塗りつぶしたように真っ暗で、そこに外灯の光を反射してぽやぽやと淡い光を放つ雪の粒が、静かに、静かに、舞い落ちていた。
ふと、校舎から出てくる誰かの影が見えた。近づくにつれてはっきりしてくるその人物の正体に、わたしの息が一瞬止まる。
「あ、倉敷くん……」
わたしの呼びかけに、ん、と彼は小さく反応をした。ネックウォーマーに顔を半分埋めていて、前髪の間から覗く切れ長の眼差しでわたしを見ている。
「キズナか。バス待ち?」
「うん」
「そっか」
それきり、喋る事がなにも思いつかなくなって、沈黙がおりる。
いや、わたしには言うべきことがあった。大体、概ね、二つくらい。せめて、一つくらいは言わなきゃ、勇気出せ勇気出せ。
「あの、さ……」
「うん?」
わたしのかすっかすな声の呼びかけに、彼は至って自然に返してくれる。わたしは唾をごくりと飲んで喉を湿らせてから、言った。
「倉敷くんの書いた、ファンレター良かったよ……会長への」
「会長へのファンレター? 俺、書いたっけ」
「ほら、あの色紙に書いた」
「あー、あれね、恥ずかしいから忘れてよ」
彼は照れ笑いを浮かべて言った。
わたしもつられて頬が綻ぶ。言われずとも文面を忘れてしまったのは惜しいところだけど、グッと来たことだけは覚えている。
あの色紙はもう、会長の手に渡ってしまった。返事が来ることはないだろう、会長はそんなことにかかずらっている暇はないのだから。
まあ、これで言うべきことの一つは達成。
残ったのは大体、概ね、一つだけ。
「ねえ」
「ん?」
彼の視線がわたしのそれとぶつかる。
ああ、いけるな……という、不思議な感覚が上ってきた。高揚感というのかしら、やぶれかぶれともいうのかしら。
わたしは、口を開いた。
「…………ごめん、何でもなかった」
「おう、そっか」
言えなかった。わたしの告げようとしたことは、わたしから奪われてしまったものだから。
悲しくはなかったけれど、悲しむべきだと思った。人を特別に好きになるということができなくなったら、皆悲しむと思うし、わたしもそれが正しいと思う。けれども、それはわたしの感情とは関係のないことだった。
それはちょうど、会長のいないことと、使者は会長にお便りを届けなければいけないことの間に、何の関係もなかったのと同じように。
わたしの会長に会いたいという気持ちと、わたしが会長を好きだったという気持ちには、実は何の関係もなかったのと同じように。
その関係のないこと同士を、無理やり無理なく繋げてしまうことで、わたし達は生きている。
彼は終バスに乗って去って行った。乗ろうとしないわたしに後ろ髪を引かれながら。
わたしは一人、夜の学校をさまよいながら、雪のちらつく空中に手を伸ばして、人差し指で一重の丸を描いてみる。
○
それは生徒不在の、使いと生徒会長二人きりの空間だった。
はー、いちゃいちゃしやがって、とわたしは勝手な恨み言を呟く。
恋する使いと、齷齪生きるわたしの間にも、これまた実は、何の関係もなくって――でも、それが繋がってしまったことを奇跡と言うのだとしたら。
何の関係もないもの同士を、最初から関係していたように見せること、思わせることを奇跡と言うのだとしたら、
この学校は奇跡で溢れている。
わたしの頬に寄る雪の粒は、柔らかな空気を孕み、仄かな暖かさを湛えていた。