8.隠していた悩み
「じゃあ弟が来る日が決まったんだ?」
数日後の夜。イオルはリコルとベルロイと夕食を共にしていた。
「そう」
「思ってたより早かったね」
「ルイフィス様が頑張ってくれたみたい」
こんなにスムーズに事が運ぶとは思ってもみなかった。それも、ルイフィスが金額を厭わずにズールを買ったからなのだが、その金額はイオルが何度聞いてもルイフィスにはぐらかされるだけだった。
「良かったね、イオル」
「うん」
イオルは笑顔を作るが、そこにいつもの元気はなかった。
「あ、そろそろ行かなくちゃ!」
リコルは店の時計を見ると、慌ただしく食事をかき込む。
「今日はこれからキース様のところ?」
「うん」
もぐもぐと忙しく口を動かしながらリコルは少し照れくさそうに微笑む。この時間からキースに会うということは今日は寮には戻らないということだろう。
「いってらっしゃい」
「じゃあね!」
リコルは水でご飯を流し込んで、お代を置いて店から出ていった。
「まったく、慌ただしい」
イオルがやれやれとため息をつくと、ベルロイがそれに同意するように微笑んだ。
あれから、ベルロイは普段と変わらずにイオルに接していた。ルシェとは告白の後からなかなか自然に話すことができなかったのに、ベルロイの変わらなさにはイオルは拍子抜けだった。まるで告白なんてなかったかのような自然な空気なのだ。初めはぎこちなかったイオルも、次第にベルロイに対しては元通りになっていた。
「ズールくんが王都に来る日は休みを取るの?」
「そのつもり。言わなくてもルイフィス様なら休みを入れてくれそうな気がするけど」
「そうだね」
ベルロイはいつものようにお酒を飲んでいる。
「俺も落ち着いたらズールくんに会いたいな」
「会って面白いものでもないわよ」
「そんなことないさ。イオルに似てるのか、とかいろいろ興味がある」
「似てないわよ、全然。あたしなんかよりずっと優しいもの」
「イオルだって優しいと思うけどね」
さらりと口にされたその言葉にイオルはグッと喉をつまらせる。告白がある前からベルロイは自分の気持ちを素直に言うタイプだけれど、ベルロイの気持ちを知った今ではその言葉が特別な意味を持つように感じられるのだ。
食事を終えた二人は店を出る。歩きながらベルロイが、
「この後イオルは何か予定ある?」
と、尋ねる。
「ないわよ。寝るだけ」
「俺はこの後寮の裏手でいつもの訓練をしようと思ってるんだけど、よかったらイオルもどう?」
ベルロイは仕事のある日でも夜の鍛錬を欠かさない。ベルロイはすごく重い斧で戦う。それを振るう筋力が衰えないために、毎日鍛える必要があるのだと言う。
「あたしは訓練なんてしないわよ?」
「見てるだけでいいよ。たまには夜に外で過ごすのもいいものだよ」
イオルは少し考えて、
「わかった。付き合ってあげる」
と、頷いた。ベルロイは何も言わずに微笑んだ。
***
ブンッ! ブンッ!
夜の暗闇の中でベルロイが斧を振り下ろす音だけが響く。一定の速度と間隔で斧を振り下ろしているベルロイを見て何が楽しいんだろうと不思議に思うイオルだったが、それを見ているのは意外にも苦ではなかった。大きめの石に腰かけて、頬杖をつきながらイオルはそれを眺めていた。
どのくらい時間が経っただろう。ふーっと息を吐き出してベルロイが汗を拭いながらイオルに近づいてきた。
「お疲れ」
「ありがとう」
荒い息のベルロイは地面にドカッと腰を下ろす。
「毎日やってるの?」
「そうだよ。もうこれをしないと落ち着いて眠れないくらいだ」
「ふーん、熱心ね」
「仕事のためっていうより自分のためって感じかな。こうして身体を動かしているのが好きなんだ」
「そうなの」
どちらかと言うと身体を動かすことが苦手なイオルにはよくわからない。だけど、清々しい表情をしているベルロイを見ると、自分のためというのは少しわかる気がした。
「悩んでる時もさ、身体を動かすと気持ちが軽くなったりするんだよ。イオルもどう?」
「あたしには必要ないもの。見てるだけで十分お腹いっぱいよ」
「そうか」
ベルロイはふふっと笑う。そのまま二人並んで何もない暗闇を見つめたまま黙る。お互いに何かを考えているようだった。
「ズールくんのこと」
沈黙の後、ベルロイが口を開く。その名前にイオルはピクリと反応した。
「何か悩んでる?」
「え?」
イオルは目を見開いてベルロイを見返す。ベルロイは困ったように笑う。
「ずっと元気がなかったから」
「そんな……」
そんなこと誰にも指摘されなかったのに。イオルは視線を彷徨わせてから、観念したようにはぁと小さく息を吐く。
「……怖いの」
小さく呟いた言葉には重みが宿っていた。
「ズールに会うのが、怖いの」
ベルロイは何も言わずにイオルの次の言葉を待った。
「あたし達は仲のいい姉弟だった。それは間違いないわ。でも、それは母親が死ぬ前の話。母親が死んでからあたし達は別れた。ズールは下僕、あたしは兵士に」
イオルは泣きそうな表情で続ける。
「ズールがどんな扱いを受けているのか、あたしには想像がつかない。きっと、想像以上に酷い扱いを受けているはず。そんなズールが、例え救われたからといって兵士として安定した暮らしをしてきた姉をどう思うのか、怖いのよ」
ずっと溜めてきた不安を吐き出す。吐き出し始めると、それは止まらなかった。
「ズールだってもう子供じゃない。あたしの後ろをついて歩いていたあの頃とは違うの。そうわかってはいるのに、恨まれていてしかるべきだと思うのに……」
イオルは言葉を詰まらせた。懸命に涙を堪えているようだった。
「イオル」
いつの間にか震えていたその小さな手をベルロイがそっと握る。ハッと顔を上げたイオルとベルロイの目線が交差する。
「軽々しく大丈夫だ、なんてことは言えない。だけど、イオルはズールくんが優しい子だと言ったね? そんな弟を信じようよ。もし恨まれていたとしても、ここからまた信頼を取り戻していけばいい。血の繋がった姉弟なんだから」
「ベルロイ……」
イオルの頬に一滴の涙が伝った。
「イオルはもう一人じゃない。ズールくんにだって、ルイフィス様やルシェの家族がいる。ここからまた始めればいいさ」
「うん……うん」
一度伝った涙はどんどん溢れてイオルの頬を濡らしていく。
「一人で会うのが怖ければ誰かに着いてきてもらえばいい。イオルはもっと誰かに頼っていいんだから」
「……っく」
イオルは肩を震わせながら泣いた。何度も何度もベルロイの言葉に頷く。
「少し頑張りすぎだ」
ベルロイは低い声でそう言うと、握った手にぎゅっと少しだけ力を込める。イオルが泣き止むまで、ベルロイはそうしてイオルの手を握っていたのだった。