その出逢いは未だ運命ではなく
自分の物とは違う真っ白な自転車を前に、アオハルは熱く息を吐いた。
「おお。これがアンタの自転車か。凄いなカッコイイ」
特にここが、と言ってアオハルはハンドルを撫でた、アオハルの物とは違い、ハンドルが途中で直角に曲がり、そのままUの字を横にしたような形になっているハンドル、細いタイヤと、汚れのない純白のフレーム。
「そうしたハンドルをドロップハンドルと言うそうですよ。ですけど、ありがとうございます。やはり自分の愛機が褒められると嬉しい物ですね」
「ハイこれ」
パンクを修理するための道具。としてアオハルは細長いパイプ状の物体を取り出した。
「……これは?」
私の知っている修理道具とは違います。と言いながら、彼女は受け取ったそれをジロジロと眺める撫子。
「俺も以前立ち寄った町で買った物で、まだ使ったことはないんだけど」
一度渡したそれを再度受け取り、アオハルはキャップを開ける。
白いキャップの中には、細長い金属の棒が刺さっていて、その金属の棒には穴が空いていて管になっている。
「この先を、タイヤのここに差し込みながら押すと、空気が入って一緒にタイヤの穴も修復するって言ってたけど、本当かな」
「そんな怪しい物を私に使わせようと言うのですか?」
「だって俺、今これ以外に持ってないし、町に連れてってやろうにも、俺の自転車には荷物積んでるから二人乗りは無理だし、コイツも置いてはいけないだろ?」
「あの妄想が得意な彼女の乗り物はどうですか? あれに乗せて頂ければ」
「あー、無理無理」
撫子の発案を聞き終える前に却下し、アオハルは自分の前で手を振った。
「アイツは死んでも、自分の乗り物に他人は乗せないよ。俺が風邪引いて死にそうな時でも中に入れないで外に放置したままだったし、まあ、スゲー分かり易い、実は心配しているんです台詞吐き捨てながら毛布だけはくれたけど」
「……謝礼でしたら出来る限りお支払いしますが」
アオハルの言葉に何か妙な裏でも読み取ったのか、撫子は首を傾げたまま言う。
「幾ら積んでも無理だと思うよ。アイツの実家、金を溶かして家を造るくらい金持ってるらしいし、あの乗り物だってあれ一台でそこらの町の住人全員分の生涯年収くらいの金が掛かってるらしいぜ。アイツ自身、アホになる程金持ってるし」
「むぅ。私の自転車に妙なものを入れたくはないのですが、背に腹は代えられない、と言うところですか」
「何それ、どういう意味?」
「私の実家に伝わる諺で、何物も別の物で代用は出来ない、してはいけないと言う意味です」
「とにかく、ツッコムぞこれ」
話が進まないとばかりに、アオハルはしゃがみ込み、タイヤに着いた突起を塞いでいるゴム製のキャップを外し、そこに修理道具の先端を向けた。
「いやらしい」
「何がだよ」
「ツッコムだなんて、これだなんて。ああ、おぞましい、そうやって私を言葉責めて楽しんでいるのですね。私はこの通り、貞淑な少女なんですから、そうした言葉に耐性は無いんですよ?」
自分の身体を抱くように手を両肘に回しながら、撫子は身体ごとアオハルから逸らすようにして、目だけ彼を見ながら言い捨てる。
「……はい、ぶち込みましたー」
「きゃー。お止めになってー」
冗談交じりなのだろうが、唐突にそんなことを言い出した撫子の態度に苛立ちを覚えたアオハルは、棒読みのまま先端を差し込んだ。
同じく棒読みで返してくる撫子を無視して、手に力を入れる。
プシューと空気が漏れ出るような音を立てながら、パイプの先端から何かがタイヤの中へと入って行く。外れないように押さえながら、暫く立つと、今まで目で見て分かる程凹んでいた地面に接している部分のタイヤが、ゆっくりと膨らみ始めた。
「おっ、ちゃんと直るもんだ」
「なるほど、これは便利かも知れませんね。使い方が卑猥なことを除けば」
「……恋して無くても女の妄想力は無限大らしい」
「失礼ですね、私のは妄想ではありません。本音が口から出てるだけですよ」
「さっきアンタが言ってた貞淑って言葉、訂正しろ」
「断ります」
そんな軽口の言い合いをしている内に、徐々に空気音が小さくなり、それが完全に止まった頃にはタイヤは完璧に膨らみ、タイヤを潰すように押してみても、堅く、殆ど凹まなくなっていた。
「よし。これで大丈夫だろ」
「ありがとうございます。本当に助かりました。一時はどうなるかと思いましたが」
「それ、俺の台詞ね」
「ふふ」
目を細め、子猫のような笑みを浮かべる撫子。口元を隠しながら上品に笑う様に、アオハルは一瞬、心臓の音が高くなった気がした。
「……じゃ俺はこれで、リアルも待たせてるし、多分アイツの妄想もそろそろ終わるだろ」
「そうですか、君はこれからどちらへ?」
「この先の村、風呂が付いた宿に泊まりたいって、我が儘姫がね」
撫子と出会う前、進んでいた方向を指さしながら言う。その方向に目をやってから、撫子はああ、と言うように一つ頷いた。
「確かにあの町には、宿がありました。お風呂も付いていたと思います」
「あれ、知ってるの?」
「ええ。私、今朝その村から出てきたところです」
「そうなんだ。だったら良かった、正直半信半疑でさ。宿はあっても風呂が付いてなかったらアイツうるさいからな」
苦笑するアオハルに合わせるように撫子も笑う。
「アンタはこれからどこに?」
「ここから西に。貿易が盛んな町があると言うので、そちらで色々と揃えようかと思っています。あれ、があったら買ってみることにしましょう」
あれ、とわざとらしく言いながら、撫子はアオハルの手の中にある空のポンプを指さした。
「お薦めだよ。俺も今日初めてお薦め出来るようになったんだけど」
「私もそうですよ」
軽口を言い合った後、二人の間に一拍の間が空いた。もう、話すことは無い。それを実感するための間だ。
「じゃ、俺はここで。いつかまたどっかで会えたらいいな」
「そうですね。それは良いかも知れません。こうしてまた出会えたのなら、それはきっと運命です」
「ハッ、そうかもな。じゃあ貞淑な少女、また運命の交差点で会おう」
「ええ、いずれ星々がそれを望んだ頃に」
互いに別れの言葉を口にして、アオハルは彼女に背を向けると元来た道を真っ直ぐ戻り始めた。
その後ろ姿をジッと見つめ、撫子は地面に置かれたままの荷物の蓋を開け、中に手を入れた。
少し肌寒くなってきたため、脱いでいた服を取り出すことにしたのだ。
「運命、かも知れませんね。本当に」
でも、と撫子は言葉にせずに続けた。
「貴方は本物ではない」
バックから取り出した服に袖を通し、金属製の丸いボタンを一つずつ閉めていく。
アオハルはこちらを振り返ることはない。振り返れば何か反応を示すだろうか。
そんなことを考えながら、一番上までボタンを閉め終え、最後にカラーと呼ばれる立て襟を閉めた後、彼女は改めて自転車のハンドルに手を掛けた。
「次があったら……」
続く言葉を飲み込んで、撫子は自転車のペダルを踏んだ。
長い黒髪が自転車の発進と共に風に乗って流れていく。真っ黒い服、ガクランを身に纏った少女は首に巻かれたカラー、その中央に着けられた四角いバッチを太陽の光によって輝かせながら、彼女は道無き道を駆けて行く。