逃げるが勝ち
昨日と何も変わらない空を見上げながら、アオハルは町から少し離れた場所にあった小高く盛り上がった高台の上に立っていた。
妙に一部分だけ盛り上がったその高台はもしかしたら、遺跡が上がってくる途中で止まったものかも知れないと思い至り、アオハルは無言で地面を蹴った。
そんなことをしたところで残るのは虚しさだけだ。
「俺は」
どうすれば良いのだろう。
彼は自らに問いかける。遺跡を壊す、それだけを追い掛けて生きてきた。その夢とも言える目標が消え、進むべき道を見失い、アオハルは子供の頃村の外に遊びに出て、帰り道が分からなくなった時に感じたような、得体の知れない恐怖感に襲われていた。
怖い。
どこに向えばいいのか。まったく分からない。
あの時は、村への帰り道が分からなくなった時はどうやって戻ったのだったか。
霞かがった記憶を辿り、思い出す。あの時は確か――
「アオハル。何してんの、こんな所で」
思考を遡る旅は声によって引き戻される。声の方を見ると、そこに居たのはリアルだった。
シャワーを浴び終えたのだろう。髪の毛が僅かに水分を含んだままになっている。
彼女にしては珍しく無条件に微笑んでいる。
数日ぶりのシャワーでご満悦らしかった。
苦笑を返しながらアオハルは、ああ。と唐突に答えを思い出した。
そうだ。子供の頃自分が迷子になった時、あの時は――
「捜しに来てくれたのか」
「べべ別に、捜しに来たって訳じゃないわよ、あ、ああアタシは歩いてたらここに来ただけで」
リアルの顔が月明かりの下でも分かる程真っ赤になっているのはシャワーによって血行が良くなったからだけではないだろう。
その分かり易いリアルの態度にアオハルは笑ってしまった。
自分が迷子になった時は、母親がこうやって自分のことを捜しに来てくれたのだった。
もう思い出の中にしかいない母親の顔を思い描きながら、アオハルはリアルに笑いかける。その笑顔を別の意味で受け取ってしまったらしい、彼女はムッと唇を前に突き出して不機嫌さを表しながら、無言でアオハルの横に移動し、そのまま地面に座り込んだ。
「折角シャワー浴びたのに。ハンカチを敷かなくて良いのか? 俺は持ってないけどな」
地べたに座り込んで良いのか。そう言う意図で聞いたアオハルだが、リアルは不機嫌メーターである唇を前に突き出したまま膝を抱え、空いた手でアオハルの足下の地面を指さした。
「座れって?」
コクリと彼女はアオハルを見ないまま、頷く。
軽く息を吐いてから、その隣に腰を下ろす。乾いた砂の地面は夜になり急激に温度を下げたためか、座り込むと底冷えする冷たさが伝わって来た。
「あの女は?」
「……寝てるよ」
思わず嘘をついてしまった。彼女から逃げて来たと言うのに、それを口にしたくなかった。
「そのまま一生寝てればいいのに」
「毒舌だな。なんだかんだ言ってかなり心配してた癖に」
怪我の治療が終わるまでの間、リアルはただ黙って撫子のことを見ていた。本当に彼女を嫌っているのなら、撫子の事なんて放ってシャワーを浴びに行く筈なのに、彼女は真剣な目で治療を受ける撫子を見守り続けていた。
「ば、馬鹿言わないで。誰があんな女の心配なんて」
「あはははは」
「……突然笑い出さないでよ。怖いっての」
「アハハハハ、アハハハハハハハ」
「……もう好きにしろ」
何となく、笑ってしまった。
楽しくて、ではない。嬉しくて、でもない。では何だと聞かれても答えることは出来ない。その笑いの意味は彼自身にだってよく分からないのだから。
永い笑いが治まった後、アオハルはハァと一つ息を整えるように深呼吸をし、手足を伸ばして地面に寝転がった。
周囲には遮るものが何も無く、ただただ広い星空が視界一杯に広がっていた。
「何があったのよ」
星空だけが広がっていた視界に入り込むように、アオハルの顔を上から覗き込んで来るリアル。
寒くない程度にそよ風が吹き、リアルのウェーブがかった髪が揺れた。
それと同時にシャワーを浴びたばかりのリアルの身体から、女性特有の甘い香りが漂いアオハルの鼻孔を擽った。
「明日。あの遺跡を壊すんだって」
「あの女がそう言ったの?」
「ああ」
「……そう。そうなんだ」
撫子は寝ていると言ったのに、自分の言葉を即座に否定するようなことを言っていることに、アオハルは気づいていない。リアルはその事に気がついたかも知れないが、彼女はそのことには触れず、そっと寝ころんでいるアオハルの髪に手を触れさせた。
髪を洗って来たばかりのリアルとは違い、もう何日か髪を洗っていないアオハルの髪はきっと触り心地も悪いことだろう。
しかしリアルはそんなことには気にもせず、優しく彼の髪を撫で続けた。
細い指が何度となくアオハルの髪を梳く。彼はそっと目を瞑り、ああ。と一つ頷いた。
「アオハルは、どうするの?」
「俺は」
口火を切って、途中で止めた。
自分は一体どうすれば良いんだろう。ここから逃げ出したところで答えが出ることはない。
撫子の元に戻り、ガクラン隊に入るために一緒に壊すと言うのか。それともそんなことに意味は無い、この町を破壊するだけで誰も救えない。だから止めろと言って撫子を止めるのか。
どちらにしても、アオハルはもう一度撫子の元に戻らなくてはならない。彼女の元に行かなくてはならないはずだ。
それは分かっているのに。
「どうすればいいか、分からないんだよ、俺には」
正直に、アオハルは言った。
何もしていないのに全速力で駆け続けた後のように心臓が早鐘を打ち続けている。
「なら」
髪を梳き続けていた手が止まる。その事にアオハルは閉じていた目を開け、リアルを見た。
彼女はこちらを見つめたままだった。背後に月を背負った彼女はどこか神々しく見えた。
「逃げればいいじゃん」
神々しさを携えたまま、酷く俗物的な台詞を告げるリアル。
「逃げる? そもそも俺は今、逃げてきたんだよ」
もう隠す必要も無い。アオハルはテントから逃げ出したことを自らの口で告白する。
リアルにはやはり嘘をつけない。
そんな思いと共に口にした響きは、やはり自嘲じみていた。それを隠そうともせずアオハルは喉を鳴らして笑い続ける。
「違う。そうじゃないわ、そんな意味じゃない。物理的にここから離れようって言っているの」
「……でも、それじゃあ」
何も解決しない。何も変わらない。
「逃げることは恥じゃない。人は逃げて良い、この町に住んでいる奴らの期待から、あの遺跡から、ガクラン隊から、そしてあの女から、逃げても良いよ。アタシはアオハルがどんな事をしても絶対に見捨てない。ずっと一緒にいてあげる。貴女が一緒にいて良いって言ってくれる限り、アタシが一緒に逃げてあげる」
真っ直ぐにアオハルを見つめたまま、リアルは彼に告げた。
その真剣な瞳に、アオハルはゴクリと唾を飲み込む。
リアルが言った台詞は昨日、彼自身が言った言葉だ。
リアルが良いと言ってくれる限り、一緒に旅をすると言ったアオハル。
アオハルが良いと言ってくれる限り、一緒に旅をすると言うリアル。
「アタシだって。ずっと逃げてきた。逃げて逃げて逃げて。ここまで来た」
「リアル……」
「アタシは自分の力が遺跡を呼び寄せると信じていた。だから家を出た。でもそれは家族を守りたかったからじゃないの。アタシは家族を嫌いたくなかっただけ。遺跡を呼ぶ娘って家族に思われたくなかった。そんなことを言う人達じゃないってアタシは信じることが出来なくて、家を飛び出した。この力が嫌いだった。この力からアタシはずっと逃げ続けて来た。そんな時、アタシを助けてくれたのは、貴方だったのよ」
「……」
何も言わず、何も言えず。アオハルはリアルの言葉をただ聞き入った。
「あの村で、馬鹿な村人に詰め寄られていたアタシを助けて、遺跡を破壊してくれた貴方に、アタシには遺跡を呼ぶ力があると、そう言った。なんでそんな嘘を貴方に言ったのか、アタシにも分からないかったよ。でも、貴方は途端に目を光らせてこう言ったの、覚えてる? 本当か! 凄い、お前は俺の女神だ。お前がいれば、俺は俺の夢を叶えられる! 誰にも触らせたことの無かったアタシの手を握りながら、貴方はそう言った」
そうだ。そう言った。
彼女と出会った時のことを思い出す。
まだ遺跡を憎んでいると信じ切っていたあの時はアオハルは、遺跡を呼び寄せると言うリアルの力に歓喜した。その力があれば遺跡を壊すことも、またその遺跡を追って現れるであろうガクラン隊と接触することも出来る。
二つの目的を同時に叶えてくれる。そんなリアルの存在は、何の進展もないまま無益に身体を鍛え続けていただけのアオハルにとって救いの女神に他ならなかったのだ。
「ああ言った。確かに言ったよ」
「その上で、アタシと一緒に旅をしてくれた。アタシの力が遺跡を呼ぶ力じゃないって正直に言った後でも一緒にいてくれた」
それは。と言いかけて、止める。
本当はあの時、彼女が持つ力が遺跡を呼び寄せるものでは無いと知った時、実はアオハルは落胆していたのだ。彼女には気づかれない程度にほんの僅かではあっても、確かに彼女に落胆した。
実際は彼女の力ではなくリアル自身が自分にとって必要だと気づいたのは、もっと後の話だ。
それでも、彼女にとっては違ったらしい。その出来事がとても大きな事だった。アオハルを見つめる慈愛に満ちた目がそう語っている。
だからアオハルは何も言わず、口を閉じた。
「行こう。今なら大丈夫、あの女も寝てる。町の奴らも宴会みたいに酒呑んで騒いでた。今なら誰にも気づかれず、逃げ出せるよ」
地面に落ちたアオハルの手、その指と指の間に自分の指を入れて握る。彼女が言う恋人繋ぎと言う握り方で、リアルはアオハルの手を取った。
「行こう」
もう一度そう言って、リアルはアオハルを連れ出した。
この場所から逃げ出すために。