プロローグ 悪夢を見て、夢を見て
その村には何もなかった。
目立った特産品も無く、皆小さな田畑を耕し、離れた町に仕事に出かけ、どうにか暮らしていた。
何もない代わりに、争いもなく、人々はただ一つ残った平和を胸に日々を過ごしていた。
草原を駆ける子供達。その姿を見ながら笑顔を浮かべる大人達。
そんな平和で平穏な村の風景が崩れ去り、ただ一つだけ残った平和が崩れ去ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。
ゴゴゴゴコゴゴゴ
地響きのような音。
地の底から聞えるようなその音に、人々は驚き、そして恐怖した。
一体何が起こった。
揺れる視界の中、右往左往と動き回る村人。
そして、村の中央に創られた、安っぽい花で埋め尽くされた花時計。しかしそれはどんなに小さくても、村人が少しでも村を明るくしようと創った物。その村の象徴たる花時計の下からヒビ割れの音が聞えた。
――次の瞬間。
花時計を形作っていた円状の柵が壊れ、中心の花が地面ごと盛り上がり、やがてそれは、宙へと持ち上がっていった。
高く高く、花を。上へ上へ。
代わりに眼前にそびえ立ったのは、巨大な壁。後ろに下がらないとその全容を見ることは出来ないだろう。
そして後ろに下がればもう一つ、新たな事実が分かったはずだ。
それは壁ではない。
巨大な四角錐の形をした物体。水に濡れ、全体を緑色のコケと海草に覆われたそれ。大人達は恐怖した。それが何であるか、分かったからだ。
逆に何も知らない子供達は、この何の変化もない村に現れた新しい物を歓迎し、皆嬉々としてそれに近づいて行った。
「おい! やめろ。それに近づくな!」
声を上げる村の男達。
その声は届かない。
未だに続く地響きの音に遮られて、届くことはなかった。
「それは――」
続けて言葉を発した大人の声に。ただ一人、少年が足を止めて振り返った。
その声が少年にとって聞き慣れた声だったからだ。隣に住んでいる友人の父親の声。振り返れば未だ微弱に震える視界の中で、男が必死に自分達に向かって手を招いているのが見えた。
「お兄ちゃん?」
妹の声が反対側から聞え、少年はそちらを見直す。
「今行く!」
大人達の制止の声よりも好奇心が勝り、再びあの巨大な柱に近寄ろうとして、少年は踵を返し、その直後、地面に落ちていた石を踏み、足首を捻ってその場で派手に転んだ。
「痛てっ」
「お兄ちゃん!」
悲痛な妹の声。痛みから、ほぼ自動的に涙を浮かべそうになる自分を堪え、大丈夫だ。と言ってやろうと少年は顔を上げた。
上げてしまった。
顔を上げた少年の瞳に、それはまるでスローモーションのように映った。
妹を含め、友人達がこちらを振り返り、転んだ少年を笑っていた。そして、その笑顔のまま、少年の前から姿を消した。
地面がひび割れ、少年と子供達の間に壁が持ち上がる。あの巨大な壁が。
「お兄ッ」
途中で途切れた声。妹の声。その最後の声は。
少年の耳にこびり付いた。
「え?」
妹が、友人が、姿を消した。目の前には壁、手を伸ばせば届くくらい、直ぐ近くの距離に壁が出来ている。見上げても、その先端は見えず、太陽の光がこんな時にも無遠慮に辺りを照らしているだけ。
「あ、あ、あぁ……」
「オーイ! こっちだ、こっちに……」
声が、後ろから聞え、また途切れる。
少年は後ろを見た。
何か考えていた訳ではない。ただ、茫然と声に反応して振り返っただけ。頭の中は未だ、突然現れた壁とその向こう側に消えた友人、妹、それらが一緒くたになって混ざり合っていた。
その視界に映ったのは。
繰り返し。
今見たものがもう一度、繰り返されるだけの景色。違うのは配役だけ。
妹や友人がいたその配置に、大人達がいて、その足下から、瓦礫と化した地面を抉り上げながら高く高く登る、それ。
「う、ああ……」
何処かで悲鳴が聞えた。
耳元で鳴り響くように大きく、でも、どこか遠く。
「ウァァァアァアアアアァァアアアアァァアアアァァァ」
その悲鳴が自分の声だと少年は気づくことが出来なかった。
悲鳴が止むまでずっと。少年は閉ざされ、光りを失ったその空間の中で、ただ、膝を抱えて、時間を流し続けた。
何も考えず、何も見ず、何も聞かず、ただずっと。平凡で幸せだった日々を頭の中で思い描きながら、時間だけを流していった。
そんな少年を正常へと戻したのは、思い出でもない、痛みでも、悲しみでもなく、食欲だった。
自分の腹が鳴った音で、彼は顔を持ち上げた。
そうして左右をゆっくりと見渡す。辺りは暗いが、それでも完全な闇ではない、僅かに光りがこぼれ出ている。
右上、左、天井。
三つの光りが帯のように伸び、少年の元に明かりを届けている。
その僅かな光りの中で少年は自分の手を見た。小さな手は、何があったのだろう。拳に裂傷があり、血が土と混ざり有り、どす黒い色となって固まっている。
そっと、少年は自分の頬に手を当てた。つい今し方、夢で見ていた自分の体は事も特有のすべすべとした肌触りと柔らかさを有していたのに、そこにあったのは、頬が凹み、ざらざらと水分の無くなった肌。
自分が自分でなくなってしまったかのような、そんな感覚。
もう良い。もう解放してくれ。
だらんと下がった手が、僅かに湿ったそれに触れる。細かい繊維が集まって出来た、藻の感触。川遊びをした時に、触ったことのある感触だった。
自分の目の前にある大きな何か。
少年の小さな手が、爪が、それに触れ、同時に藻ごと掻きむしる。指に掛かる圧力、爪の間に走る痛み、それでも、少年は再び手を広げ、目の前にある壁を掻きむしる。何かを掴もうとするように、何も掴めずに。
コツン。
小さな音が聞えた、爪が、硬い何かに触れた。
「……」
何も言わず、断続的になる腹の音も無視して、少年は壁に爪を立て、抉り、引っ掻き、むしる。
やがてそれは、少年の前に姿を現した。
藻の下に存在する。硬い壁。本当の壁。
十指の内、幾枚かの爪が剥がれ、生暖かい液体を拳に伝われせながら、少年はその壁に手を触れた。
冷たい。
水や氷のような自然な冷たさではない。
温度こそ、それらより高くとも、そこに自然の暖かみを感じない、人工的な冷たさ。
少年はそっと首を傾げた。冷たい温度が手のひらを冷やして行く。ドンドンドンドンと冷えて行く手のひら。同時に少年は気がついた。
これだ。
これが自分の人生を、世界を、平和を変えた物。
冷たくなって行く手のひらとは逆に、心臓に、熱い何かが生まれ、それは鼓動と共に、全身に送られて行く。
「お前が」
乾ききった唇は、言葉を発しただけで裂け、ぴりりと痛みと共に、鉄の味を口の中へと誘う。
「お前が」
繰り返す言葉。心臓の音共に、流れる熱さ。
ただ心臓を動かしているだけだった少年の、その心が動き出す。
「お前がッ!」
吐き捨てる言葉と共に、握った拳を叩きつける。冷たく硬いそれはビクリともしない。それでも少年は拳を振るい続ける。狭い空間に壁を殴打する音だけが響いた。
「出せっ! 俺を。ここからッ、出せ!」
音はむなしく反響する。
「出せよ。畜生、お前が、お前がッ」
拳まで、心の熱さが伝わって行った。
「絶対に許さない! ぶっ壊してやる。お前を絶対欠片も残さず、ぶっ壊してやる!」
悲鳴は叫びへとなる。
「返せよ! 返せ、俺の村を、家族を、友達を、俺の全部を!」
願いは怒りとなり、
「返せよォオオオオォォォオォォオォォォォオォオオオォォォ!」
喉が焼き切れる程に振り絞った声は、希望へと繋がった。
その声は光りを脱け、外へと漏れ出して行く。
それが少年にとって、一度壊れた世界を作り直すための呼び声となった。
「誰か。そこにいるのか!」
男の声が聞えた。聞いたことのない男の声、だが、少年はそれに耳を貸さない。
「絶対に絶対に、何年かかっても、俺が、俺がお前を」
「待ってろ。そこを動くんじゃねぇ! 今」
声は一度離れ。
それでも耳を貸さない少年は、天を仰ぎながらもう一度、声を張り上げた。
「ぶっ壊してやる!」
「ぶっ壊してやる!」
二つの声は重なり合う。
一つは未来に向け、一つは今に向け。
そして、今へと向けられた声は、その言葉を真実にした。
ピシ
ヒビが入る音。
少年を閉じこめた世界にヒビを入れる音。
見上げた天井に、光のヒビが走っていく。初めは小さく、やがて大きく。そして。
「伏せてろ!」
その言葉を合図にするように、天井は音を立てて光を落とした。
頬に細かな欠片が降ってきたと思った瞬間に、その光は青白い閃光となり、ヒビ割れの音は轟音となって少年の耳をつんさき、空気すらも止まっていた静寂は、風となって狭い世界をかき回した。
光と音と風。
それら全てが一緒になり、少年の目を耳を肌を貫く。
「う、うわ、あ」
悲鳴を上げるより早く少年の体は風で舞い、地面を二度三度と転がった。体に振り注ぐ硬い何か、体中を駆けめぐる痛み。
そして、目を瞑っていても感じる、瞼の裏から届く赤い暖かな光り。
僅かに漏れていたあの頼りない光でもなく、目に入り込んだ、青白い閃光でもなく、ただただ暖かい。
慣れ親しんだ光。
太陽の光だった。
「ハッ。運の強い奴だ。生きてやがる」
どこまでも明るい声は、少年の上から降り注いだ。同時に瞼越しに感じていた太陽の光は消える。
「ほら、立てよ。手は貸してやる。が、男の子は自分の力で立て」
ゆっくりと目を開いた。逆行の中で誰かが少年に手を差し伸べていた。
顔はよく見えないが、その手だけはハッキリと見えた。
「坊主、名前。なんて言うんだ?」
「……ハル」
小さく自分の名を呟く。
「聞えねぇよ。もっとデカイ声で叫べ、さっきみたいに」
「アオハル。俺の名前は、アオハル」
声を張り上げて、同時にその手を掴んだ。
未だに自分の手に残る熱さ、だが、その手が掴んだ誰かの手は、自分の手より、遙かに大きく、そして熱かった。
「立てアオハル。お前の明日を始めるために」
「アンタ、は?」
炎のように熱い手のひら。その熱さを感じながら少年、アオハルは光りを背にアオハルを見つめる影に問うた。
「俺か? 俺は!」
男の声と共にアオハルは手を引かれ、とっさに、地面を蹴って立ち上がった。
腰を曲げてアオハルを見下ろしていた男がそのまま腰を伸ばし、アオハルと向かい合う。
黒い腰を超え脚元近くまで伸びた長い布地の服。中央に規則的に並んだ銀色のボタン。首をグルリと囲むように円を描く立ち襟。
見たことの無い服を着た男は向かい合ったアオハルを見つめながら、唇をニッと持ち上げ笑った。
「――だッ!」
男がその言葉を叫んだ。それは男自身の名ではなかった。その名は――
パシンッ!
アオハルの頬に鋭い痛みが走り、
「アオハル! 起きろ!」
男の声をかき消す程の声量がアオハルの耳を支配した。
そして。
夢は終わり、あの日見た未来を進む少年の物語が、今始まる。