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「「そうか、粉々になった『りあむたん』はいないんだな……ってお前、また騙したな!」」
「「すべて王子のためですよ」」
「「そう言えば許されると思……っ」」
下りのエスカレータを呼んでいるのだが、なかなか来ない。外した銃弾がめり込んでいるせいだろうか。あまりもたもたしていて犯人たちが目を覚ましても困る。一応彼らの服で拘束してあるが。
その間に胸をなでおろしたと思ったらすぐに激昂に至ったエリアスが、目を剥いて絶句していた。その理由は、マミがヴィクトアの背後から抱き着いたためであった。
「マミさん?」
「ごめんね、ちょっとだけ。前はエリアス君のために空けてあるから。……ヴィクトアくんて、強いのね。銃持った人に素手で立ち向かうなんて」
マミの手は小さく震えていた。脅威は去ったとはいえ、まだ恐怖に囚われているのだろう。ヒノモトは平和な国だ。一般的な善良な民にここまでの危険が迫ることは、生涯ないとすら言える。ヴィクトアは安心させるように、震える手にそっと手を重ねる。
エリアスが物言いたげに下唇を噛んでいたが、彼は彼で震えているだけだった。こちらは恐怖ではないだろう。それはそれで問題だが。
「照準もろくにあっていませんでしたからね。それに、仕事ですから。しかし、巻き込んでしまって申し訳ありません」
「謝らないで。あなたが謝るべき相手は、エリアスくんでしょ?」
マミが抱きしめる手に力を込めたが、見た目よりうんと質量のある柔らかいものが押し付けられただけだった。しかし彼女の言いたいこともちゃんと分かっている。
「「王子。嘘をついたことは申し訳ないと思っています。けれど僕は、あなたにニートを脱してほしかったのです。民に蔑まれない王子がいることを、知ってほしかった。それだけです」」
「「でも私は、第三王子だ。兄上たちもいるし、何も持っていないし……」」
「「この国で働いたことは、無意味でしたか」」
エリアスはふるふると首を横に振った。つらい仕事の日々が去来して、けれど得たものも報酬以外にもあったはずである。まだまだ甘ちゃんだが、国を出る前のだらけた王子の姿はそこには微塵もない。
「「あれらの仕事を、祖国でしろとは申しません。しかしあなたには伸び代がある。お兄上方とは違い、学んだことを吸収できるのです。どうぞ、王子の自覚と自信をお持ちになってください。第三などと、卑下せずに」」
「「兄上たちはそんなにひどいのか……」」
実情を知らないエリアスは若干引き気味だった。マミはまだ背後に張り付いたままだ。横を見ると、エレベータがようやく登り始めたようだ。長旅もやっと終わりを迎えられるとヴィクトアは胸をなでおろしながら、エリアスにそっと囁いた。
「「せっかくのマミさんのご厚意ですよ」」
「「何を言ってる。お前になんか抱き着くものか」」
「「でも今なら、マミさんに触れられますよ?」」
「「ふん、私がそんな浅ましい人間に見えるか」」
しかし結局、エリアスは言われるままにヴィクトアの胸に飛び込んだのだ。途端に鼻息を荒くした背後のマミになんとか手が届いたところで、エレベータが到着してしまったけれど。
外交問題になることを恐れて、偶然居合わせただけと口裏を合わせることにした三人だったが、それでも事情聴取される運びとなった。それでも最終的には、不逞外国人が暴れた事件として処理されるだろう。
警察官に誘導されてタワーから降りた三人に、群がっていた野次馬の中から飛び出した女性がいた。長い黒髪に色つきメガネをしたその人は、警官の制止を振り払って即座にエリアスに抱き着いた。
「青々山先生?」
「母上?」
「えっ」
「え?」
マミとエリアスが同時に喋り、そして二人して困惑をあらわにした。ヴィクトアとしてはすかさず警官に、親子であることを説明する義務があった。
「「エリアス、無事でよかった」」
「「母上……ヒノモトにおられたのですね」」
「すみません、少しだけ待ってもらっていいですか。……海外におられることは知っていたのですが、なるほど。そういうことでしたか」
警官に告げつつ、感動の再会に浸る二人からそっと離れて、ヴィクトアは目を白黒させているマミに説明する。
「わけあって、宮廷から離れておられたエリアス王子のご母堂です。髪は染めておられるのですね。目を見たことは?」
「ないわ。いつもあのメガネをされているし。でもそっか。それでグリッツェン語が分かったのね」
「ええ。その上、確かゼルマ殿のお母上は、ヒノモト人だったはずです。僕も会うのは初めてですが」
だからこそツイートに語られている人物がすぐに息子と分かっただろうし、その後も注視していたのだろう。DMまで送ったのは、マミの捜索ツイートを見て、気が気でなかったからに違いない。
「あ、先生のペンネーム、『青々宇山ゼルマ』って言うのよ」
「そのまま名乗っておられるのですか……しかし、確か同人作家でしたよね」
血は争えないものである。そのことに、すぐにマミも気づいてしまったようだ。
「そっか。『りあむたん』って、ちょっと前の魔法少女よね。そっち系あんまり見ないから分からなかったわ。ってことは、エリアスくんもオタク系だったのね。だからヴィクトアくんも、腐女子の意味知ってたんだ」
後ろで警官が、まだかなという顔をしているが、ゼルマはまだまだ息子を放す気はないようだ。逆に野次馬の方が、飽きて散りつつあった。犯人たちは先に搬送されているから当然だ。待っていてもこれ以上何も出てくるわけもない。
「あの人たち、どうなるんだろう? 刑に服した後、ヒノモトに居座ったりしないよね?」
「犯人たちですか? 彼らは銃刀法違反に器物破損で裁かれたのち、強制送還されるでしょうから、報復の心配はありませんよ。それに、あなたへの暴行罪もありますね」
ヴィクトアは後の証言と矛盾させないために、顔を近づけ小声で囁いた。マミは唇を噛んで、彼を見つめる。
「告訴しますか?」
「怖かったのよ」
マミが、本当は抱き着いてしまいたいのを我慢するように、ぎゅっとヴィクトアの手を握ってきた。目ざとくそれを見つけたエリアスが飛んでいきたげな顔をしていたが、ゼルマの抱擁の中にあってはそれもままならない。
「あなたがいてくれたら、忘れられる」
「……」
偽らざる本音を伝えてくれたにもかかわらず、ヴィクトアは即答できない。その手を握りなおしながら、マミは悲しげに微笑んだ。
「分かってる。王子様の従者だもん、そうそう国から出られないよね。エリアスくんだって怖い目に遭ったし」
「さて……それはどうでしょう」
自他ともに認める生粋のオタクなのである。そもそもエリアスが誘拐されたことにどこまで恐怖を覚えていられるかの方が、心配になるくらいだ。すぐに忘れてまた攫われてもたまらない。
業を煮やした警官に諭されたゼルマがそろそろ、息子を離そうとしていた。その息子の方は存ぜぬことだが、申請した就労ビザではあと二週間はヒノモトにいられるため、聴取終了後いつでも会えるのである。しかし目の前で繰り広げられるのは、今生の別れのようにしんみりとしたものであった。
「あたし、待つのは苦手なの。堪え性ないから」
そんな二人を見ながら、マミが言った。手はしっかりと、ヴィクトアに絡みついたまま。
「あたしから会いに行ってもいいよね。そのためにも就職頑張らなくちゃ」
「そういえばマミさん、以前の正社員の事務は」
「ああ、あれ? 駄目だったの。ほんとは引っ越しなんてしてる場合じゃなかったんだけどね……今日も面接の帰りなんだよ?」
笑顔を見せるマミの柔らかな手を握り返しながら、ヴィクトアも笑って見せた。いろいろ思いすぎて、苦笑のようになってしまったけれど。
「きっとすぐ、会えますよ」
視界の端に、ゼルマから解放されたエリアスが、こちらに突進してくるのが見えた。
だらしなく寝そべるのをやめたエリアスは、豪奢なベッドで行儀悪く胡坐をかいて、一心不乱に薄い本を読んでいた。
「……王子。また生産性のかけらもないことをやっておられるのですか。本日はマルグリット王妃主催の宴にご臨席される予定でしょう」
ノックもそこそこに部屋に入ってきたヴィクトアが、まだ何の準備も整えていないエリアスを見て、ため息をついた。
「分かっている。だがもう少し」
「その本、昨日も読まれていましたよね。その前も」
「何度読んでも分からない箇所があってな。さすが、母上の造詣は深い」
肌色が多用されたそのドウジンシは、ゼルマ著のものであった。ヒノモトを発つとき、餞別にと彼女自ら手渡してくれたものである。エリアスはそれを、黙読する日々だった。
「大丈夫ですか。所謂腐向けというジャンルなのでは」
「母上がおっしゃるには、ライトなものを選別してくれたとのことだ。多少の気持ち悪さは飲みこもう」
「そのようなところで我慢強さを発揮なさらなくても」
「次に会うときまでに、分かっておきたいのだ」
しかし母のことを知りたいというエリアスの思いは、分からなくもない。ずっと離ればなれだったのだ。その悪口を聞きたくなくて部屋に籠るくらいには、これまでだって母を求めていたのだろう。
だが今日の宴は、その母親の悪口を振りまく王妃が主催だ。彼がどこまで耐えられるか、分かったものではないが。
それに加えてもドウジンシを読み込むのには、マミのことを忘れようとする現実逃避の要素もあるだろう。あれだけ威勢のいいことを言ったのに、ヴィクトアとマミが一緒にいるところを見て、もはや望みはないと見ているようだ。近いうちに彼女がグリッツェンに来るとのことだが、ヴィクトアはそれをまだ彼に告げていない。王子襲撃のこともあって、国は少しだけ混乱している。王子自身の混乱もあるだろう。
それでも民の生活は変わりのないものだが。
エリアスは以前よりは、積極的に王子としての責務を果たすようになった。民にも顔を見せ、「一番マシ」という印象を植え付けられたのは大きな功績だ。そこからどう唯一無二に仕立てていくかは、王子を支える従者の腕の見せ所である。
今のところは、尻を叩くことしかできないが。いずれ、自ら動けるようになってもらわねばなるまい。その素質は、あるのだから。
「王子、そろそろお支度なさいませ」
「うん、あとちょっと」
エリアスは本から顔を上げない。どうせ今日も、ヴィクトアが強制的に着替えさせるしかなくなるだろう。そのリミットまでにはまだ少し、時間がある。
ならばそれまで待つもの一興と、『りあむたん』へと伸ばしかけていた手をそっと背後に戻した。
End