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そのビジネスホテルでは、朝食がついてくる。グリッツェン王国の宮廷で王子が食べるものと比べると粗末にすぎるものだが、それでも食べられるだけありがたいと、エリアスは噛みしめているようだ。
これからのことを思うと気が重いのか、会話はない。ヴィクトアとしては話してもいいのだが、王子からは拒否する空気が流れているのだった。
そんな二人の後ろで、宿泊客らが話していた。
「なんかうまくネット繋がらねえんだけど、俺だけ?」
「いや、俺も。なんか台風のせいらしいよ」
彼らはスマホと呼ばれる個人用の端末をいじっていた。そのさらに後ろにある検索用のパソコンは、一台残らず故障中の紙が貼られている。台風と言うが、外の景色はまだ静かなものだ。
「「ヴィクトア」」
食事も終わり部屋へ戻るエレベーターの中で、ついに王子が口をきいた。昨夜彼が、「働く」という単語を機械的に反復して以来のことだった。
「「なんでございましょう」」
「「明日のイベントのことだが」」
「「……」」
この期に及んでまだ言うかと思ったヴィクトアだったが、そもそもエリアスはその目的のためにヒノモト皇国までやってきたのだから、それを果たすのは当然と心得ているのかもしれない。
否、それ以外はどうでもいいと考えていても不思議ではない。
「「王子はまだ事態が分かっておられないようですね」」
「「な、何を言う! 私だって分かっている。だから、最後の晩餐的な……!」」
「「今残っている所持金は僅かたりとも無駄にはできないのですよ。仕事が見つからなければ、野たれ死ぬだけです」」
「「仕事が……」」
エレベーターの上昇に伴う奇妙な感覚に三半規管を狂わせたかのように、虚ろな目をして王子が問いかけた。
「「ヴィクトアよ。この国に王子の私にできる仕事があるのか?」」
「「王子の仕事はありませんが、一般人としての仕事ならいくらでもあると聞きます。職業安定所なる場所へ行けばあらゆる職種を紹介してくれるそうですが、王子の仕事はないでしょうね。そもそもこのヒノモト皇国は天皇と呼ばれる皇帝が治める国ですから、その嫡子は王子ではなく皇子といって」」
「「もういい、分かったから。私が悪かった」」
「「何かしてみたい仕事がおありですか?」」
「「任せる」」
「「御意」」
エレベーターが着いた。扉の向こうで待っていた女性が、二人の会話の最後を聞いてしまったようで、ぎょっとしたように目で追ったが、ヴィクトアは王子の金髪が印象に残らないように自らの体を盾にして隠した。染髪した若者が珍しくない国だとはいえ、やはり金は目立つし、それが目的ではないのだ。
とはいえ彼らが喋っていたのはグリッツェン語だ。内容までは分かるまい。
「「では、職業安定所とやらへ、行くか……」」
「「お待ちください」」
荷物をまとめおえたエリアスが、処刑場へ向かう殉教者のような重い口ぶりで宣言するのを、ヴィクトアは苦々しく止める。せっかく嫌々ながらもやる気になっていたところを削ぐのは本意ではないが、仕方ない。
「「今日明日と、職業安定所はお休みです」」
「「なんだと? なぜそれを先に言わないのだ、無能め」」
「「イベントには行きませんよ。チェックアウトにはまだ時間がありますので、それまでに」」
一瞬でテンション爆上げになったエリアスだったが、華のかんばせに叩きつけられた冊子に押しとどめられた。
「「なんだ、これは? 薄い本だな。ドウジンシか」」
「「違います。ロビーで無料配布していたので戴いてまいりました。求人情報誌という、仕事の募集が乗っている書籍でございますよ」」
「「ほう。しかし重さといい厚さといい、ドウジンシのようだ。……中身はそんなことないが」」
文字だらけだと顔をしかめて呻くエリアスから冊子を取り上げて、それを片手にヴィクトアは電話に向かう。
「「既にいくつか目星をつけていますので、ここから電話をいたします。知っていましたか、王子。このホテルはチェックインしている間ならいくら電話をしてもタダなのです」」
「「うーん。わが国には電話すらないからな、そう言われても実感がわかないぞ」」
ドヤ顔で伝えた従者からの情報は、王子にはいまいちピンとこないようだ。薄い反応にもめげず、ヴィクトアは電話を掛ける。彼も王子に負けず劣らず、流暢なヒノモト語を話せるのだった。イベントに行くたび付き添う必要があるから、当然と言えば当然なのだが、電話を終えて振り向いた先ではエリアスがあからさまな不満顔を晒していた。
「「僕がヒノモト語を話すのが気に入りませんか」」
「「お前まで話せるとなると、私がグリッツェンで話せる価値がなくなるじゃないか」」
「「そんなことはございませんよ。王子と王子の従者では、価値が違いますから」」
「「まあその国も、ないんだけどな……」」
ヴィクトアにしては珍しく掛け値なしの本音だったのだが、亡国を思って俯くエリアスにはあまり伝わらなかったようだ。気分を変えるように、ヴィクトアはあえて明るい声を出す。
「「それはともかく、朗報ですよ。今電話したところがこれからすぐに伺ってもよろしいとのことです。幸いなことに履歴書もいらないと」」
「「リレキショとはなんだ?」」
「「自己紹介と自己PRを兼ねた書類ですね。しかし所在の怪しい我々のような外国人も受け入れると言うことを、ご承知ください」
「「うむ……よく分からないがそういうことなら、行こうか……」」
ヴィクトアの忠告の意味をまるで分かってなさそうなエリアスは、いかにも重たそうに腰を上げた。気のせいでなければその顔も、若者らしからぬ渋さであふれていた。今なら反乱軍も見逃すかもしれない。
二人が訪れたのは、「弥勒組」という看板の掲げられたプレハブ小屋だった。事務所だというが、間違っているのではと住所を確認しなおしたほどだ。エリアスの方はといえば、初めて目にするその珍しい建物に興味津々といった様子であったが。
「「王子」」
「「何だ」」
「「これから一つ、僕は彼らに嘘をつきますが、どうかお目をつぶっていただきたい。王子の安全のためなのです」」
「「? まあそう言うなら、任せた」」
「「それから、あなたに対して少々馴れ馴れしくなりますが、どうぞお許しください」」
「「え、それは嫌だなあ」」
嘘をつくことは許容しても、王子と従者の垣根を越えられるのは嫌らしい。しかし答えは聞いていないとばかりに、ヴィクトアは粗末な造りの扉を開ける。
「失礼いたします」
「よし、採用!」
入室と同時に聞こえた声に、馬鹿な早すぎると狼狽えたヴィクトアだったが、どうやら先客がいたようだった。細長い作りの奥の方にあるソファで、作業着の固太り男性とほっそりした影が向かい合っている。よく見るとまだ若い女性のようであるが、採用通知を言い渡されたのは彼女だった。
「あら、さっき電話くれた外人の方?」
手前の事務机で作業していた中年女性が二人に気づいた。
「あらまあ、随分かわいらしいのねえ。何もこんなところに来なくても仕事ならありそうなのに」
「事情がありまして」
「あら、ヒノモト語がお上手ね。待ってね、今終るから。社長~、面接の子~」
「はいよ。じゃあ、ちょっとそこで待っててくれ」
採用を告げられた女性と入れ替わるように、二人は社長の前に進み出た。活発そうな顔立ちのその女性は思っていたよりずっと若く、もしかしたら二人より年下なのではと思えるほどの幼さを残していた。
彼女はすれ違う時に、にこっと微笑みかけてきた。現実の女性にまったく慣れていないエリアスはどぎまぎしながら目を逸らしていた。ヴィクトアは会釈してやり過ごす。
「じゃあここに簡単なプロフィールを書いて。あ、ヒノモト語分かるかな」
「大丈夫です。住所はまだ決まっていないのですが」
「ああ、じゃあ空欄でいいよ」
住所氏名と生年月日。実にざっくりとしたプロフィールである。聞くのもしゃべるのも問題ない二人だったが、書く機会にはこれまで恵まれてこなかったため、その字はどちらも同じくらいひどい出来だった。にもかかわらず、王子はじっと従者の書いたそれを見て面白くなさそうな表情を浮かべていた。また希少度が奪われたと思っているのかもしれない。
「えーと、ヴィクトアさんに、エリアスさん。苗字がないけど、二人はどこの国?」
「グリッツェン王国です」
「また遠いところから来たねえ。土木作業の経験は?」
「ありませんが、力はある方だと」
「そうだね。お兄さんの方は大丈夫そうだ」
「彼も、細く見えますが、体力はありますよ」
「そうなのかい?」
社長は二人を見比べるように視線を動かした。本名を名乗っても、王子とその従者であるとは全く露見していないようだ。しかし視線の意味が分からないエリアスが、小声のグリッツェン語で囁いてくる。
「「私たちは兄弟という設定なのか?」」
「「違います。そういう意味じゃないんですよ」」
「うん、まあ、仕事はいくらでもあるし、力仕事がすべてじゃないからね。人手も足りないし、よし、採用だ!」
眼前の外国語の囁き合いを無視して、社長はあっさり決めてしまった。先刻の女性が採用されたところからしても、エリアスの細身でも問題なく通るだろうとは思っていたが、この会社はもはや誰でもいいレベルで雇い入れているのかもしれない。
「じゃあ現場に向かおうか」
「あの、お願いがあるのですが」
「うん?」
立ち上がろうとした社長を制するように、ヴィクトアが慌てて声を上げる。すぐにでも仕事を与えられるのはありがたかったが、その前に言っておかねばならないことがあった。
「できれば二人とも同じ現場にしてほしいのです。離れたくなくて」
ヴィクトアは、エリアスの手を握った。ぎょっとした王子の顔が見えたが、何も言わないようにと手に力を込める。痛みに呻きたいところを、どうやら俯くことで耐えてくれているらしい。
「僕たち、将来を誓い合った仲なのです」
事務所の中が、静まり返った。事務の女性も、先刻採用された女性も注視しているようだ。そんなに珍しいものではないはずだがと、ヴィクトアが自分の演技に不安を覚えた頃、事務の女性が助け舟を出した。
「社長、いいじゃないですか。引き離したら可哀そうですよ。ねえ?」
「ええ、はい。あたしもそう思います」
話を振られた若い女性もうなずいた。社長はまだぽかんとしているが、あと一押しだと感じた。
「彼が近くにいると、僕もいつも以上に頑張れると思うのです。だってかっこ悪いところなんて、見せられないじゃないですか」
「そうよねえ」
「あたしも分かります、それ」
「うーん。まあ……そういうことならいいよ。前例はないけど」
「ありがとうございます」
女性陣の助け合ってか、社長は首を縦に振った。ついて来いと言われたので、女性と共に社名の入ったワゴン車に乗り込む。社長は運転席、雇われ組は後部座席の前と後ろに座る。
「いや、偏見のつもりはないんだよ。でも初めて見たからね、実は都市伝説か何かだと思ってたんだ」
「何言ってるんですか、もう何組もいますよ」
社長が言い訳のように言うのを聞いて、前シートに座った女性が笑っている。グリッツェンではほとんど走っていない車を珍しがってしきりにきょろきょろするエリアスの手を、ヴィクトアはそっと外す。
その瞬間に王子も、状況を思い出したようだ。というか車に気を取られて忘れる方がどうかと思うが。
「「どういうつもりだ、お前……!」」
「「将来を誓い合った仲だということには、間違いないと思いますが?」」
「「何い?」」
「「あなたは王になり、僕はその側近になると言う意味です」」
「「国もないのにか」」
「「まあそこは、過去形ということになってしまいますが……」」
グリッツェン語だが狭い車内ということもあってか、エリアスは小声でヴィクトアを責めた。
「「あったとしても私は後を継ぐとは言ってないだろうが」」
「「しかし僕の夢はそうなので」」
「「お前の夢など知ったことか。というかもう、なんだったんだ、さっきの演技は。あれじゃあこの先私たちが結婚すると誤解されるだろうが」」
「「それが狙いですから」」
エリアスははっとしたように、自らの二の腕を抱いた。
「「もしや私の体をエロドウジンのように!?」」
「「王子、まさかとは思いますが、そのエロス系のドウジンシを買っていたりしていないでしょうね? ……目を逸らさないでください、こちらの法律では年齢的にアウトのはずですよ。ずっと一緒に行動していたはずなのに、どうやって手に入れたんです」」
「「痛い痛い」」
「あ、いちゃついてるー」
暴力的なホールドで顔の向きを強制的に変えさせている場面を見て『いちゃついている』と表現するのはどうかと思うが、前シートの女性はどうやら社長との会話に飽きたようでこちらに狙いを絞ったようだ。
とはいえ、恋人という設定である。王子の顔が苦痛に満ちていては速攻で露見してしまうので、仕方なくヴィクトアはホールドを諦めた。
「誤解です。少々じゃれていただけです」
「そういうのをいちゃつくって言うんだよ? あ、あたし間宮真美。マミって呼んで」
「ヴィクトアと申します」
「……」
「こちらはエリアス」
「よろしくね」
恥ずかしがって口もきけなくなっている王子に代わって名を告げる。女性の前だとここまで大人しくなる性質だったろうか。王妃の前では確かに俯いてそっぽを向くことが多かったが。着飾ったすまし顔の女性しか見てこなかったから、勝手が分からないのかもしれない。イベント会場で幾多の女性とすれ違おうとも、目当ては薄い本でしかないから。
「ねえ、二人は結婚するためにヒノモトに来たの?」
「そこまでは考えていませんでしたが、しかしそれには帰化が条件では」
「それだけ喋られれば大丈夫だよー。えっと二人はグリッツェンだっけ? 同性婚はできないのかな」
「ええ、無理ですね」
「ヒノモトに来るのは初めて? ナガトタワー登った?」
「来たことは何度か。そのタワーは初耳です」
「まあ転落事故あったから、しばらく営業できないんだけどね」
マミの目が向いていなければ平気なのか、顔を上げて話す二人を見ていたエリアスが、不満を呈するように強くヴィクトアの服の裾を引っ張った。
「「おい、何を話している?」」
「「ヒノモト語はお分かりでしょう」」
「「そうではない。同性婚とか……まさかお前、私と結婚したいのか?」」
馬鹿なことを言い出す王子の頬を抓ってやりたかったヴィクトアだが、マミの手前、笑顔を保つしかない。
「「ヒノモトでは同性婚が許されているのです、その分税金を多く取られますがね。だからこそ同性カップルが珍しいと思われない。重要なのはその点です」」
「「だからって、なんで成り済ます必要が」」
「「あなたを見張るためですよ? サボったり逃げたりしないようにね」」
「きゃー、いちゃついてる!」
これ見よがしにエリアスの髪を撫でるヴィクトア。だが王子の表情は恐怖政治に怯える民衆そのものであり、笑っている従者は王子を働かせるためなら手段を問わない者のそれであった。マイナー言語である分、いかに愛とは無縁の会話をしていようとも誰にも疑いを持たれないのが、利点である。