後編
「出て行って。大声を出すわよ」
母親は絞り出すような声で言った。背後で娘はまだ、卵を抱いたままだった。
濡れたスーツ姿で、男はポケットに両手を突っ込んだまま母親を見つめた。
「寂しいアパートですね。ここ以外、住人の気配がほとんどない」
「いいえ、ほかにも住人はいるわ」
「腐りかけたダイレクトメールが郵便受けに詰め放題で電気メーターが動いてないのが2戸、この雨で洗濯物を出しっぱなし・つまり留守なのが2戸、そして窓から見えた一階の婆さんの部屋はテレビの音が異様に大きい。つまり耳が遠いというわけだ。叫んでも誰にも届かないな」
母親は驚いたように黒目がちの大きな瞳を見開いて、男を睨んだ。
「ということで、ちょっと上がらしてもらっていいですかね。用が済んだらさっさと帰りますよ」
「お金ならあげるわ、だから帰って。でも大した金額じゃないの。ほんとに、ないの」少女の前に立ちはだかるようにして、母親は言った。
「金が欲しいんじゃない、そんなものがほしけりゃこんなところに入らない」
男は母親にずいと近づいた。
「お金以外であげられるものなんかないわ」右手を伸ばして壁にじかに立てかけてあった黒い蝙蝠傘をぐっと握る。
「舐めないで。殺すわよ」
「怖いな。殺される前にお嬢ちゃん、その袋くれないか」
男に言われて、少女は手の中の袋を見た。そして母親の背後から、卵のパックをそっと男に渡した。
「割れた卵は、もう夢を見られないよな?」
「……うん」
「じゃあ、おいしく食べるしかないな」
「うん」
母親ははっとした表情で、ふたりを交互に見た。娘と男は意味ありげに視線を交わしながら、うっすらと微笑んでいる。
一階の部屋からのど自慢のカーンという鐘の音がひとつ響き、笑い声が続いた。
「ちょっと台所借りますよ」男は靴を脱ぎ棄てるとずかずかとシンクの前に進み、勝手に冷蔵庫を開けた。
「おっ、ネギとオクラがある」
呆気にとられている母親の前を通り、少女は男の後ろから冷蔵庫を覗き込んだ。
「スライスチーズもあるよ」
「よし、それも使おう。まず、オクラを茹でる」
少女は壁にかけてあった小鍋を外した。
「この大きさでいい?」
「十分だ」
「あとね、ちくわも一本あるよ」
「よし、それも入れちゃおう。ええと、調味料は何があるかな」
少女が調味料棚から塩や醤油、粉末いりこだしやつゆの素、粉末鶏がらスープの素などを取り出して男の手元に並べてゆく。男は水道の蛇口をひねって鍋にざっと水を入れ、二口だけのコンロにかけた。湯を沸かしている間に、シンクの下から包丁を取り出し、トントンと長ねぎを刻む。少女は隣で果物ナイフでちくわを刻む。それから割れた卵をどんぶりにあけ、小さな手で殻をつまみ出す。刻んだネギ、茹でたオクラ、細切りにしたチーズとちくわを投入した卵を、男がかちゃかちゃと軽快にかき混ぜる。
母親は額に手を当てたままふたりの後ろ姿を眺めていたが、小さく息をついてほつれ毛をかき上げると、テレビ脇のコーナーラックから茶筒を取り出した。
やがて卵の馥郁としたやさしい香りが、部屋中に暖かく漂い始めた。
六畳間の中心におかれた円卓には、母親の入れたお茶が3つ、湯気を立てて置かれていた。
「あ、これはどうも」
男が頭を下げ、盆に乗った卵焼きの皿を3枚、円卓に並べる。少女が箸を3膳、それぞれの皿の前に置く。
母親は小さなワゴンに乗った炊飯器のふたを開けて、ほのかにあたたかいご飯を、薄い水色の茶碗3つに黙ってよそい、のりの佃煮の瓶詰をとんと卓上に置いた。
「いただきます」
息を合わせたわけでもないのに、3人はほぼ同時にいい、手を合わせた。
ふくふくとした卵焼きは、多すぎるぐらいの具で膨らみ、かじると甘い卵汁がとろりと舌の上に落ちた。
「……おいしい」
少女が思わず口の中でつぶやくと、男は「うん、うまい卵だ」と満足そうに言った。
母親はふた口飲み込んだ後、顔をしかめて、唇に乗った何かを手でつまんで皿の端に出した。
「なに?」
少女が覗き込む。
「殻よ」
男は目を上げて、そりゃ失礼、と軽く言った。
「殻とったの、わたしだから」少女がかばうように言うと
「殻はカルシウムがあるんだ。食っても栄養になる」
「それとこれとは別。ぞっとするのよ、しゃりっとくると」
母親は男にそういったあとで
「でも、おいしいわ、ほんとに」と小声で付け足した。
そして少し間をおいて、
「この子を車に乗せてくださって、ありがとう」
視線を斜め下にむけたまま、ぽつりと言った。
「……どういたしまして」
男は箸をおいて、お茶をひと口飲んだ。そして少女の顔を見て微笑み、
「よかったな」と言ってもうひと口飲んだ。
「おじさん、もしかして、わたしのお父さん?」
男は口の中の茶を勢いよく吹きだした。母親はあわててサイドワゴンにかけてあったタオルに手を伸ばした。
「ちょっと何を言い出すのよこの子は。バカじゃないの」娘を睨みながら怒鳴りつける。
「だって、お父さんのことよく知らないし、でもお皿はいつも3つあるし、お母さんなんだか待ってるような気がしてたんだもん。だから、いつか帰ってくるのかなって、それでいま、ここで一緒にご飯食べてるから」
「一緒にご飯を食べているのはあんたがたまたまこの人の車に乗って雨宿りしたからでしょ。それにお父さんはもういないって何度言ったらわかるの」
「そっか……」
男は母親から受け取ったタオルで口の周りを拭きながら笑った。
「説明する前にいきさつをわかってくれて、ありがたいな」
母親は受け取ったタオルを手に取るとシンクに向かい、そのまま後ろ向きで少し立ち尽くしていた。少女は頬張った卵焼きを飲み下すと、男の顔を見上げながら言った。
「おじさんて、じゃあ、何してる人なの」
「何してる人に見える?」
「昔は正直だった、泥棒さんなの?」
「かもな」
「ずるいよ、そんな答え」
そのとき窓の外から、こんちはー! と男の子の元気な声がした。
いつの間にか雨もやみ、外は薄く陽がさしている。
「あ、ゆーきくんだ」少女は伸び上って、窓から顔を出し、はあい、ごめんちょっと待って、と返事をした。
「忘れてた。一緒にチョウトンボの産卵見に行く約束してたんだ」
「じゃ行きなさい、道はぬかるんでるから長靴のほうがいいわ」陽に焼けた麦わら帽子に母親が手を伸ばすと
「帽子はこっちにする」少女は壁際の小さな学習机の上のブルーの野球帽をかぶった。
そして気づいたように食卓に戻り、皿を重ねてあわただしくシンクに運ぶと、走って玄関に行き、帽子掛けにぶらさがっているチェック地のリュックを片手で持った。
「足元に気を付けるのよ。暗くならないうちに帰ってね」
「わかってる」
答えながら汚れたスニーカーに足を突っ込むと男を振り向き、
「おじさん、夕方までいる?」
「泥棒かもわからないのに、家にいてほしいのかい」
「それ、帰ってからちゃんと聞くからね!」
勢いよくドアを閉め、階段をがんがんと下りて行った。
いつの間にか階下のテレビの音もやんでいた。窓の外からは雀の声が聞こえている。母親は扇風機のスイッチを入れ、モードを強にした。
「いい子ですね」
「ええ」
「しかしすごい雹だったなあ」
そのまま二人は沈黙した。母親はつと下を向くと、独り言のようにつぶやいた。
「……馬鹿なことを考えていたわ。
あの子が言ったことが本当だったら。
あなたが、どこかで生きていたあの子の父親だったら。
そして整形してわたしのもとに現れて、こんな風にみんなで食卓を囲めたら、わたしは……」
男は驚いたような顔をして母親を見た。母親は自嘲めいた笑いを浮かべた。
「くだらない話。そんなの、ドラマか小説の世界のことでしかない。
だいいち、わたしがこの手で……」
「……手で?」
男の言葉には答えず、母親は目の下で、両手を広げた。そしてその掌を、くっと握りこんで続けた。
「雹も、大雨も、わたし嫌いじゃないんです。
雹なんて、今まで一、二度しか体験してないんですけど。屋根が安いスレートだから、すごく音が響くんです。
その音を聞いてると、怖いようなわなわなするような気持になって、でもなんだかそれを通り越して異次元に連れていかれるような感じになって、
……聞いていると、何も考えられなくなって。いいことも、いやなことも。
だから、少しだけ好きなの」
男の戸惑った視線の先で、視線を逸らしたまま、母親は続けた。
「あなたは守ろうとしたのでしょ」
「え?」
「わたしの怒鳴り声が聞こえたから、それで来たんでしょう。あの子を守るために」
「……」
「いえ、守ってくださってありがとうと言わなければならないわね。
あの子を助けてくださってありがとう。
雷と、雹と、……酷い母親から」
男はまじまじと若い母親を見た。皮膚の薄そうな額と頬は、やつれてはいるが白く滑らかで、涙袋の上に影を落とす長い睫とどこか寂しげな面差しが少女とよく似ている。
「そんなにひねくれないでほしいな」
男は箸をおくと、少し声に力を込めた。
「ぼくはただ、あの子が卵を割って困ってたから、壊れた卵ごと何とかしたかったんだ。一生懸命な目をしたかわいい子だったから、けなげに思った。それだけですよ」そして思い出したように付け加えた。
「お父さんの靴がとってあるそうだけど、その先の尖った靴がぼくのと似ていると話してくれてたな。それで父親とぼくとが重なったのかもしれない」
「……」
白い顔をして沈黙する母親に向かい、男は思い切ったように問いかけた。
「失礼な質問かもしれませんが、あの子のお父さんは、今……」
「刺したんです」
「え?」
「わたしが刺したんです。あの子が3歳のとき」平坦な口調で、母親は繰り返した。
男は取り出しかけた煙草の箱をそのまま卓上に置いた。
「仕事がホストだったから女関係が派手なのは仕方ないし、裏接待が重要なのはわかってたんです。でも子どもが生まれてもしょっちゅう家を空けて、何を聞いても嘘ばかり。
たまに帰ったときは、子どものことはとてもかわいがってくれてたんです。あの子にとってはやさしいおじさんみたいな変なポジションになってました。
でもある夜、女性関係でもめて、お酒の勢いもあって大喧嘩になって、一方的に殴られて……
わたし、刺しちゃったんです」
「……」
「彼は逃げろって言ったんです。血まみれで倒れたまま、おなかを押さえて、はやく逃げろって。
泣きながら彼に取りすがっていたら、視界の端に、起きてきて呆然としているあの子の姿が。記憶はそこまでで……」
組んだ手に口元を埋めるようにして、母親はしばらく黙った。
「あとのことはよく覚えてないんだけど、わたし、自分で警察に電話したらしいのね。
泥酔してたのと、自分で警察呼んだのと、子どもには母親が必要だということで、温情判決で懲役4年。模範囚として1年刑期が短縮されて、3年で出所。
幸いだったのは、娘が小さくて、……あるいはショックのせいなのか、事件のことは何も記憶していないらしいことなの。
それだけは、今も神様に感謝してる」
吹き込んできた夏の風が扇風機とともに母親のほつれ下をふわふわとたなびかせた。
男は慎重に聞いた。
「お母さんがいない間、お嬢さんのことは、誰が面倒を見てくれていたんですか」
「彼もわたしも家族との縁が薄くて、あの子は施設に預けられていました。
事件のことは、強盗が入ってきてママとパパを襲ったと、パパは助からずママは重傷で遠い病院で治療を受けていると伝えてあったと聞いたわ。
それでも、あの子に会うのは怖かった。わたしのことをどう思っているか、会いたいのか会いたくないのか、そもそもあの子に会う資格が自分にあるのか、何もわからなかったから。
出所して、恐る恐る様子を見に行ったら、あの子はゴムまりみたいに飛びついてきた。
その瞬間、わたし、残りの人生はこの子のために生きようと決めたんです」
母親はいったん唇を引き結ぶと、先を続けた。
「わたしたち親子のことを知る人のいないこの土地に来て、刑務所で習った美容師の腕を生かして、今の美容院に就職したのが、3年前。
事件について、本当のことを話さなきゃならない日がいつか来る。それはわかってる、でも今は考えないでおこう、今日はまだいい。そう考えて日々を送ってきたんです」
「その彼の靴を、とってあるわけだ。……あなたも昔のことを思い出して、辛いでしょうに」
男の静かな口調に、母親はすっと、玄関の靴入れに視線を移した。
「……あの子は父親を失いました。
わたしはわたしを愛してくれていた唯一の夫を失った。そして、彼は彼自身を永久に失いました。
全部自分がしたことです。どうやっても取り返しはつきません。
でもわたし、そのことだけは忘れずに生きていこうと決めたんです。忘れることを、決して自分に許さないで生きようと。
小さいコミュニティだし、いつか過去のことが噂になるかもしれない。それはそれでもう仕方ないと腹を決めています。
わたしたちは正直に生きるしかないんです。二人で、嘘をつかずまっとうにまっすぐに。どんなに後ろ指をさされても、世間を恨むまいって。そして、あの子だけは守り抜こうって、そう決めたんです」
そこまで語ると、母親は冷えたお茶を飲み干し、その煙草くれないかしら、と卓上のラークを指さして言った。
男は一本取りだして、母親がくわえた煙草に手持ちの百円ライターで火をつけた。
そして自分も一本唇に挟んで火をつけた。
「久しぶり。一年ぐらいかしら」そういって微笑すると、母親はテーブルの下からコーヒーの空き缶を取り出し、コップの水を注いで男の前に置いた。
「でも、だめね。一番大きな嘘をあの子についてるのは、わたし。
そのうえこうして、飛び込みの泥棒さんに説教されてるようじゃ」
男は首をかしげて小さく笑った。
「泥棒かあ。そういう肩書きにしようかな」
「でも、嘘でしょう。自分を悪者にして強引に入り込んだのよね」
「残念ながら、そう言い切れるわけでもないんだな」
男は頬をすぼめて煙を吸い込んだ。
「中古車販売の仕事してたんだけど行き詰まって、しまいにまあ、盗難車を海外に向けて流したりしてたんですよ。完全にアウトの商売ですね。
ヤバい仕事ばかりしてる連中とも知り合いになって、ろくでもない知識ばかり増えてった。実のところ、資金繰りに困ったとき、取引のあった事務所の金をその、くすねたことがあるんです。
そんなこんなが妻にばれて、3か月前に愛想つかされて追いだされた。娘は4歳でした」
母親の瞳に影が差した。男は顔を横に向けてゆっくりと煙を吐き出した。
「まだ警察のご厄介にはなってないけどね。通報しなかった妻に感謝すべきかな」
母親は黙って男の手の煙草を見つめている。その物憂げな瞳に向かい、男は尋ねた。
「がっかりした? こんな男で」
小さく首を振って、そんな資格ないでしょう、と笑いながら言うと、母親は煙草をにじり消した。
「それで、この街には何の用で来たの?」
「学生時代の友人が、仕事のあてを見つけてくれたんですよ。S県で大きな有機栽培農園を経営している知り合いが働き手を探してると。ぼくもいいかげんまともな仕事に就きたかったんで、ぼろ車で200キロほど飛ばしてきたわけです。ここにいくために」
男は空の卵パックを引き寄せ、ロゴを見せた。
「あら」
母親は目を大きく見開いた。
「大きな農場で、働き手も経理も同時に欲しいのだと聞いた。金勘定なら得意だ。土いじりも悪くない。でも道に迷って、そこでお嬢さんにあった」
男は吸殻を缶の中にねじ込むと、テーブルの上で両手を組み、改まった調子で言った。
「あなたはいいお母さんですよ。あのとき、突然の闖入者の前で体を張って娘を守った。
母親にしかできないことだ。立派なことです」
「……」母親は頬を赤くして視線を逸らした。
「世間様は勝手なことを言ってあなたたちみたいな母子の上に氷の雨を降らせるけど、あなたは立派な傘だ。ぼくの車なんかより、よほど頑丈で頼りになる。
森進一の歌じゃないけどね」
母親は何か言いたげにしたのち、黙り込んで両手で頬杖をついた。
そのまま何も言わないので、男は言葉を継いだ。
「しかし、すごいことぼくに言っちゃったよね。
いいんですか、もしかしたら極悪人かもしれない正体不明の男に。こんな弱み握ったら、どう利用されるかわかったもんじゃない」
「いいのよ。……人生、こういうこともあるのよ」
頬杖をついたまま答えて、母親はふっと笑いながら男を見上げた。
「あなたみたいな人に弱みを握られるのも、いいかもしれない。いえ、いっそその口から伝えてもらうのも」
「まさか、いや、ぼくはなにも言いませんよ。あなたもわかってるだろうけど」
男は内心の動揺をごまかすようにごしごしと顔をこすった。
そしてテーブルの上の卵のパックを見ると、言った。
「ぼくとあの子とは、卵だけのつながりだ。
次に会えたら、卵の話をしようと思う」
「卵の話?」
男はお茶の残りをゆっくりと飲んで、目の前の漆黒の瞳を見た。
「有機農法の農場で働こうと思ったぐらいだから少しは勉強したんですよ。
あの子は有精卵を食べるのが嫌だといった。温めればひよこになるものを食べるのはいやだと。有精卵は命の夢を見ていると。あなたにもそういったんですよね」
「……ええ」母親は幾分ひっかかりのある声音で答えた。
「有精卵と無精卵に、栄養価の違いはほとんどないんです。
有精卵は放置すると栄養価がある程度劣化していくけれど、無精卵はかわらない。そのぐらいの違いです。特に滋養があるわけでも健康にいいわけでもない。
雄と雌を一緒に飼っているとメスは有精卵を生む、有精卵をあたためるとひよこになる、無精卵はただの蛋白質だ。これは大きな違いです。
鳥かごでメスのインコだけ飼っていても、無精卵を産む。そしてそれを温めようとする。何も生まれないのに。あまり生ませるとカルシウムを消費しすぎて健康を損ねるから、ペットショップでは偽卵を売っています。それをたくさん抱かせると、メスは安心してもう産まなくなるんだそうです。
いのちをはぐくむ本能は不思議で、切ない。
これから命になる命を食べたくないという彼女の思いは、ぼくは汲んであげるべきだと思うんだ」
熱を込めた男の語りを、母親は真剣なまなざしで聞いていた。男は一息置くと、静かな口調で続けた。
「ぼくはひどい父親でした」
いったん唇をなめるようにして、先を続ける。
「いや、父親になる前から、父親失格だった。妻は母親になりたがっていたが、ぼくは子どもはほしくなかった。子育てにかける時間も金ももったいなくてね。
でも避妊はぼくじゃなく彼女がしていた……いや、させてた。
殺精子剤を塗ったフィルムを女性側が体内に装着する方法でね。危険があるので今では売っていないけど。正直、快楽優先の選択だ」
母親はかすかに眉間にしわを寄せた。
「彼女はそれを嫌がった。
子どもをはぐくむ機関の入り口に毒を仕掛けて、命の源を殺すなんていやだと。
ぼくはそのセンチメンタリズムにいらいらしてこう言ったんです。
女の生理だって男の自己処理だって命のもとを捨てていることにかわりはない。気持ち悪いことを言うなとね。
それでも子どもはできた。どんな避妊法も完全ではない。命は、ぼくの仕掛けた毒をすり抜けて懸命に芽生えたんだ。
ぼくらはお互い心にわだかまりを抱えたまま親になった。
生まれた娘は、それでもぼくになついてくれた。だんだん、だんだんに、命のいとしさみたいなものがわかってきて、娘を抱きしめるたびに、ああ、人が生きていく意味はここにあるのかもしれないと思うようになっていったんです。
そのやさきに、すべてを失った」
そこで瞳を上げ、黙って聞いている母親の真剣なまなざしに視線を合わせた。
「……あなたの娘さんは、こういった。
有精卵は夢を見てる。いのちの、これからいのちになるいのちの、……きれいな色の、あめ玉みたいな夢を、って。
命も人生も、あめ玉みたいにきれいでも簡単でもない。あなたが苛ついたのもわかります。
でもぼくはそのとき思ったんです。
このかわいらしい少女のこれからの人生に、ぼくのような人でなしが現れないといい。
その気持ちを理解して、ずっと、大事に守ってくれたらいい。
気持ち悪いなんて言わないで、心の奥をわかってくれる、そんな男に出会えたらいいなって」
母親の大きな瞳は、男の言葉の高まりにつれてかすかに揺れた。
「こんなぼくが言うのもなんだけど、ひとつお願いがあるんです。
あの子は自分の身に危険が降りかかることよりも、あなたに嘘を責められることだけを恐れていた。そこから逃げられるなら、見も知らぬ男と逃避行も辞さない状態だったんだ。
あなたのしていることを責めるつもりは全くない、あなたはよくやっている。
だけど、ときに必要な嘘をつくことを、その小さな自由をせめて彼女に許してやってください。
それなくしては、人は大人になれない。
あなたもわかっているでしょう」
母親はいったん瞳を伏せたのち、結んだ口の両端をキュッとあげると、視線を上げてきっぱりと言った。
「わかりました」
「ありがとう」
「あなたにお礼言われるなんて、変だわ」
「……そうですね。そりゃそうだ」
「わたしの子ですから」
「あなたの子です」
何かが張り詰めたような母親の表情には、けれど静かな明るさが漂っていて、少し細めた瞳は全体がうっすらと潤んでいた。二人はしばらく視線を交わしながら小さく笑いあった。
部屋の中に薄く漂う薄紫の煙が、首を振る扇風機に追い散らされて、窓の外に消えてゆく。
母親は、小さな声で さて、というと皿を手に持って立ち上がった。
「冷たい麦茶飲みます?」
「いや、いい。ぼくはもう行かなければ」
「もう? あの子ががっかりするわ」
「また会えるかも、とだけ言っておいてください」
「ああ、そうね。……うまく就職できれば」
母親は俯いてそういうと、背を向けて、シンクに皿を運んだ。
「あの卵焼き、何を入れてもいいのかしら」蛇口をひねりながら背中越しに聞く。
「ええ、あとはじゃことかしらすとか、かにかまなんかもいいですよ。味付けは今回はつゆの素とみりんだけど、しょうゆと酒だけでもうまくできます。基本、なんでもいいんですよ、好み次第で。コツは焼きすぎないでオムレツ風にすること」
「難しそうだけど、がんばって練習するわ」タオルで手を拭きながら母親は答えた。
狭い玄関にかがむと、目の前に汚れた小さなスニーカーと履き古したパンプスとサンダルがあった。
「チョウトンボが産卵している場所ってどこにあるのかな」紐を結びながら背後の母親に聞く。
「そこを国道に出て西に行って、一つ目の信号を右に曲がると小学校が見えると思うんだけど、その裏手の蓮池。行くの?」
「二人の邪魔をしないようにそっと覗いてみようかなって」
「そうね、邪魔しないでね。大事なお友だちなの」いたずらっぽく母親は答えて、付け足した。
「もしかしたら、あの子に卵を手渡す役目があなたになるかもしれないのね」
「そうですね」男は淡々と答えた。
立ち上がって、母親と真正面から向き合う。ひっそりと咲く花のようなしんとした顔がそこにあった。
「面接頑張って。うまくいったら、あの子に卵の話をしてやってね」
「ええ」
ふっと俯くと、母親は言いにくそうに言った。
「あの、お願いがあるんです。握手してくださらない?」
「握手?」男は思わずおうむ返しにした。
「ええ、握手」
母親の頬はうっすらと染まっていた。
「……わかりました」
男は微笑むと、肉厚の手を差し出した。体温の高い細い指がするりと絡みつく。瞬間、二つの脈が共鳴するようなくらりとする感覚を男は覚えた。足元から上がってきた血が、さあっと体を逆流する。
「ずっと、怖かったんです。まともに人に触れるのが」
囁くような細い声に、男はうっすらと背中に汗をかきながら答えた。
「……ぼくもです」
薄汚れた上着を手に、かんかんと鉄の階段を降りる。
外は午前の雹など知らぬげに真夏の日差しだ。
アパートを出てすぐ、道路の向かいの倉庫脇に古びた自動販売機があるのに気付いた。
男はズボンのポケットの小銭入れから百円玉を取り出して投入し、少し迷った後、麦茶のボタンを押した。
がこんと音を立てて麦茶のボトルが落ちてくる。
キャップを開け、ゆっくりと時間をかけてほろ苦い液体をのどに流し込む。
ふと、風に乗って甘い香りが漂ってくるのに気付く。
卵焼きの香りだ。
だんだん濃くなっていく香りをゆっくりと吸い込みながら飲み干すと、男はアパートの窓を眺め、笑みの浮かんだ口元をひと撫でして、ごみ入れに空のボトルを放り込んだ。
自分の靴の先を眺めながら、車までの道を歩く。一歩進むごとに、今まで見たもの聞いたことが、夢の中の出来事のようにひらひらと脳裏に開いては閉じてゆく。
――お父さんいつ帰ってくるの。
服の端を握りながら尋ねた幼い娘の声。
この子のためにまともに生きて、とささやいた、妻の悲しげな顔。
鼓膜を揺るがす雹の音。卵を抱いて涙ぐんでいた少女のぬれた髪。
自分の前で傘を握りしめた母親の美しい顔。
くびれた腰の後ろで結ばれたエプロンのリボン。その指から伝わった切ない体温。
小川ではいま、小鹿のような瞳の少女と少年の目の前で、青い羽根のチョウトンボが水面を切りながら、はたはた、はたはたと産卵しているのだろう。
肩を寄せあって、二人はたくさんの、小さな水紋を見ているのだろう。
これから見る明るい光景を開こうとするかのように、男は車の鍵穴にキーを差し込み、
ぐっと力を入れて右に回した。




