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雹と卵  作者: pinkmint
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前編

 一面の水田に雨は沛然と降りこめていた。

 フロントガラスを最初の雨粒がたたいてからものの5分と経っていない。

 男はワイパーの速度をいっぱいに上げて、流れ落ちる水の幕をかき分けた。

 田んぼの稲穂に波模様を描きながら強風が吹きぬけてゆく。スピードを緩め、ハンドルを握る手に力を込める。

 そのとき、にじんだ風景の向こうに、青い服を着た子どもの後ろ姿のようなものが浮かび上がった。


 傘をさしていない。短パン姿だ。背を丸め、道の左端を一心に走っている。


 男はゆっくりと子どもを追い抜き、20メートルほどワゴン車を先に進めて止めた。

 バックミラーの中で、子どもはおびえたようにこちらを見ている。

 見たところ10歳前後だろうか、びしょ濡れの髪が顔に張り付いて男か女か判別できない。子どもは胸の中の買い物袋を抱え込み、そろりそろりといった調子で車の横を通過しようとした。

 男は助手席側の窓を開けると、雨音に負けないように大声で呼びかけた。

「乗ってかないか」

 子どもは首を振り、俯いたまま通り過ぎる。男はのろのろ運転のまま並走した。どろどろと低い音で雷鳴が曇天に響き渡った。

「ほら、雷も鳴ってるぞ」

「いい」

「おうちは近所?」

 声からして女の子のようだ。

「あのな、おじさん有機農場の徳田さんの家探してるんだ。このへんじゃ有名だと聞いたんだけど、道に迷った上にこの雨でね。きみ、知らないかな」

「知らない」

 少女の駆け足が早くなった。

 雷鳴が地鳴りのような音を立てて轟く。次に見たとき、少女は足元に袋を取り落して耳をふさいでいた。

 男は車を止めて運転席から出た。

「ここらは平たんだから雷に打たれる。乗ったほうがいいよ」

 後部座席のスライドドアを開けて指さす。少女は耳を抑えたまま首を振った。

 足元に落ちている買い物袋を拾って中を見ると、透明な卵ケースの中に赤玉の卵が6つ並んでいて、そのうち3つが割れていた。

 少女は慌てて袋を引っ張り、中を覗いて あ、といった。

「勿体ないなあ。お使いだったの」

「あっち行って」

「あのな、おじさん悪い人じゃないぞ」

「悪い人はみんなそう言うって」

「お母さんが言ったのか」

「……」

「雷とお母さんとどっちが怖い?」

 言い終わると同時にあたり一面にフラッシュがたかれ、同時に空気を裂くような爆雷がとどろいた。至近距離に落ちたようだ。少女はうさぎのように開いたドアから車の中に飛び込んだ。

 と思うと、あわてて袋を抱えたまま降りようとする。

「わかったわかった、じゃあおじさん外にいよう。それならいいだろ」

 少女は車内からきょとんとした顔をこちらに向けた。

「中からロックしていいぞ」

 男は外からスライドドアを閉め、車の外にしゃがみ込んだ。

 窓が少し開いて、小さな顔がこちらを見下ろした。男は首をねじって言った。

「入れてもいいかって気になったら声かけてくれな」

 白い顔が引っ込んで、がちりとロックされる音がした。

 脇の下に両手を差し込んでうずくまる。豪雨は10秒ごとに激しさを増すようで、雷鳴はもうひっきりなしだ。風が巻き上げたゴミや葉っぱがばしばしと顔にあたる。気温は異様な速さで下がってゆき、頬をたたく風はすでに冷水のようだ。安物のスーツが芯まで濡れてゆく。

 そのうち、ばらばらばらと音を立てて、氷のかけらが道に跳ね返り始めた。

 雹だ。

 見る見るうちに雹は本降りになり、怒りの礫のように道路を、車体を攻撃し始めた。

 ばんばんばんばらばらばら、という音は、やがて表現しがたい轟音に代わり、水しぶきとともにあたりを白い霞で覆った。

 男は両手で頭を抱え、車体に体を押し付けた。車の下に潜り込もうにもすでに道路の表面は土気色の濁流におおわれている。

 車の窓が開き、また少女が顔を出した。困ったような顔でこちらを見下ろしている。

「大丈夫さ、おじさんこう見えて打たれ強いからな」男は精いっぱいの笑顔を見せた。

 顔が引っ込み、ロックを解除するかちりという音がした。

 がたがたとドアを開けようとする気配がしたのち、また顔がのぞいて言った。

「あかない」

 男は立ち上がって両手で一気にスライドドアを開けた。

「入っていいですか」

 少女が頷くと同時に男はするりと入り込み、力いっぱいスライドドアを閉めた。

「ありがとう、助かった」

 雹の立てる轟音が車内いっぱいに響き渡る。

「ダウンバーストっていうんだ、こういうの」

「え?」

「ダウン・バースト。最近の夏は気がふれてる」

 言いながら男はドアの内ポケットからタオルを引っ張り出し、びしょ濡れの顔と体をばさばさと拭いた。そして、じっとこちらを見る少女に気付き、湿ったタオルを濡れた前髪に近づけた。小さな顔が驚いたようにのけぞる。

「ああごめん、自分でできるよな。先に使っちゃって悪かったな」

 その声も雹の轟音にかき消された。

 いまや氷の礫は視界すべてに降り注ぎ、雷鳴と稲光が追い打ちをかける。 荒ぶる風雨と狂気のような雹に、中古のワゴン車は細かく揺れた。少女は渡されたタオルを握りしめて窓の外を見ていたが、男の視線の先でその口元にうっとりとしたような笑みが浮かび、薄氷のように溶けて消えた。

 やがて少しずつ雹は小やみになり、氷ではなく雨粒だけになり、風が収まり、あとには雷鳴だけが残った。

 少女はふと胸の中の包みに目線を落とし、中を覗いて眉根を寄せ、唇をかんだ。

「特別大事な卵だったの?」

「……ゆうせいらん」

 少女は小さな声で答えた。

「なるほど有精卵か。そりゃ精がつくな」馬鹿な答えだと思いながら、男は先を続けた。

「誰かに届けるところだった?」

「うちにもって帰って、お母さんが朝、目玉焼きにする」

「いつも目玉焼き?」

「忙しいからそれしか作らない」

「生みたてならさぞおいしいだろうな。卵は好きかい」

「有精卵はきらい」

「どうして」

「あたためればひよこになるのに、食べちゃうから」

 男は笑った。

「売り物はいくら温めてもだめだよ。それにきみも、ひよこの育ったの……鶏の肉は食べるんだろ。じゃあ同じだろ」

「お母さんもそういう。でも、それでも、有精卵はいやなの」

「なんでかな」

「有精卵は、きっと、……夢を見ているから」

 男はじっと少女の顔を見た。細くくっきりした眉毛の下の黒目がちの大きな目は切なそうに細かく揺れ、長い睫はまだ濡れている。

「何の夢を」

 少女は卵に視線を落とした。

「いのちの、これからいのちになるいのちの、……きれいな色の、あめ玉みたいな夢」

 男は買い物袋から半分出ている卵のパックを見た。割れた卵からあふれた黄味と白身がゆらゆらと揺れている。その揺らめきを見ながら、静かに尋ねた。

「お母さんにもそれ、話した?」

「うん。気持ち悪いこといわないのって怒られた」

 少女はパックをゆっくりと回転させると、反対側を男に見せた。

「?」

 パックに印字された小さな文字が目に入った。


「徳田農園」


 あ! と男は小さな声を上げた。

「ひどいな、最初に教えてくれよ。知ってたんじゃないか」

「言うと案内しなきゃいけなくなるから」

「ま、それはそうだ」

 苦笑した後、真顔を少女に向ける。

「道案内してくれとは言わないよ。気温も下がっちゃったしきみもびしょ濡れだし、まずは家まで送って行ってあげたいところだけど。……だめなんだろうな」

「もういい」

「何が? もういいって?」

「送って。乗っちゃったから」

 男は眉を寄せて尋ねた。

「乗ったからもういい? なんで?」

「絶対絶対絶対、知らない人の車に乗っちゃだめって言われてたの」

「お母さんにだろ。それはまあ普通だ、だけど今日のは緊急避難だろ」

「説明したって無理。きっと死ぬほど怒られる」

「じゃあ黙ってればいいじゃないか」

「それも無理」

「なんで」

「わたしはお母さんに嘘はつかない」

「そう約束させられたから?」

 少女は断固とした口調で繰り返した。

「嘘はついちゃだめなの」

「……」

 少女は後ろを向くと、窓ガラスの向こうを指さした。

「この道をまっすぐ戻って、公民館の看板のところを右に曲がって、小さな川を渡って行き止まりまで行けば、徳田農園」

 雨はまだ蕭蕭(しょうしょう)と降り続いていた。

「わかった、ありがとう。ともかくきみを家まで送ろう」

「……」

 少女は俯くと、小声で呟いた。

「うちじゃなくてもいいな」

「え?」

「どこか遠くに行きたい。どこでもいいから」

 男は少女の横顔を見た。鹿のように長い睫がかすかにふるえている。

「おじさんといっしょにか」

「うん」

 明るくなり始めた曇天から、遠くなった雷鳴が長く尾を引いて響き渡った。

「お母さんに怒られたくないんだろ。それだけだろ」

「……」

「黙っていることはできないの?」

「できない」

「おじさんの車に乗って、それをお母さんに話さなきゃいけなくて、話すと怒られるから、家出したいのか」

「……」

「わからないな。お母さんに秘密にできれば全部解決なのに」男は車窓を見ながら言った。

 少女は男の靴に目を落とした。

「うちにも一足、そういうのある。お父さんの靴。箱に入れてしまってある」

 唐突に言われて、男は自分の足元に目を落とした。先のとがった革靴は、雨と泥で汚れきっていた。

「これか。ポインテッド・トウっていうんだ。長年の付き合いでね。おじさん今就活中だからちょっと気張ってんだ」

 運転席の背もたれにかけてあった物入れからティッシュを取り出し、靴を拭きながら男は尋ねた。

「きみ、何年生?」

「4年生」

「もしかしてお母さんと二人暮らし?」

「うん」

「じゃあお母さんの大事な宝ものだ」

 汚れたティッシュをまとめて蛸壷式のごみ入れに放り込むと、男は少女の目を見た。

「きみを連れてどこかに行くことはできないよ。おじさんの毎日もろくなもんじゃないからな。きみの毎日もろくなもんじゃなさそうだが、ひとは結局それぞれの場所で生きていくしかないんだ」

 少女は置き去りにされた鹿のような目で男を見た。

「さて、前に移ろう。きみはそのままで」

 男は少女の顔を見ないままいったん車を出ると、外から運転席に戻った。

 イグニッションにキーを差し込み、右に回す。目を覚ました車がぶんぶんと振動を始める。

 バックミラーの中で、少女は掌で目を拭いていた。


 倉庫や納屋や鎮守の森や農家が見え始めたあたりで、少女は車を止めてと男に声をかけた。

「家は近く? ここでいいの?」

「あのアパート」

 少女は低い山に向かって伸びる道の向こうの、赤い屋根の古ぼけた木造アパートを指さした。そして、大事そうに包みを抱えると、ありがと、と小声で言ってそそくさと車を降りた。

 振り向かず、小雨の中を背を丸めるようにして歩いてゆく小さな背中を、男はエンジンをかけたままじっと見送った。



 重い足取りで鉄の外階段を上がり、端がはがれかけた合板のドアをたたく。

「ただいま」

 数秒おいてドアが開いた。

 黒いサマーセーターは母親の体にぴったりと添い、豊かな胸のラインと引き締まったウエストをあらわにしている。

 額に垂れたほつれ毛をかき上げると、母親はほうっとため息をつくようにして言った。

「傘もっていかなかったでしょ。うちにあるもの」

「忘れたの」

「すごい雹だったわね。どこにいたの、心配したのよ。お迎えに行こうと思ったんだけど、行き違いになるとあれだから……」

 一階のお婆さんの部屋から、この時間いつも聞こえるのど自慢の音が素通しに響いていた。……三番、民謡、こきりこ節!

「体拭きなさい。でも、あまり濡れてないのね」母親はバスタオルを手にして、不思議そうに娘の髪や体をしげしげと見た。

「雨宿りしてたの?」

「うん……」

「どこで? 徳田さんのところ?」

 髪を拭かれながら、少女は頬を赤くして俯いた。

「どうしたのよ」

 母親はぞんざいに後ろでまとめたポニーテールを振るようにして言った。「なんで言えないの? 変な子ね」

「くる……」

「え?」

「くるま・の・なか」

「くるま? 車?」

 母親ははっとした顔つきになった。

「人の車に乗ってたってこと?」

「うん…… 雨だから、乗りなさいって。助けてくれたの」

「誰が。知ってる人?」たたみかけるような口調に、少女はおびえた目を上げた。

「知らない男の人」

 母親はかっと目を見開いた。

「男の人? あんた知らない男の人の車に乗ったの? そういうこと?」

「ごめんなさい」

「ごめんなさいじゃないでしょう!」テーブルにバスタオルを叩き付けると、母親は少女の両肩をつかんだ。

「殺されてもいいの? なんでいうことが聞けないの! どこの誰ともわからない男の人の車にやすやすと乗るのがどういうことか、あんたって子は!」

「ママ、ごめんなさい、だって雷が」

「雷が何なの! それは殺してくださいってことよ、そういうことよ。あんたは頭がおかしいの? 雨が風が怖いからってそれで、それだけで、この子は!」母親が振り上げた手の下で、少女は片手を顔にかざした。

 と同時に、ピンポンピンポンと忙しくチャイムが鳴った。

「ああ、うるさい」

 母親は苛立ちをぶつけるように振り向きざまに怒鳴った。

「誰?」

「佐山急便です」

 ドアの外から男の声がした。少女ははっとドアを見た。

「荷物が来る予定なんてないのに」母親は苛々とつぶやきながら玄関わきの小物入れの引き出しを開けて、シャチハタを取り出した。そして、チェーンをかけたままドアをあけた。

「どこから……」


 ドアの外にいたのは、制服も制帽もまとっていない、無精ひげを生やした、スーツ姿の中年男だった。


 母親が全力でドアを閉めようとした刹那、ドアの隙間に男の尖った靴の先ががっと入り込んだ。そして細い隙間から差し込まれた長い針金のような棒がたわんだドアチェーンを素早く上まで上げて、かたりと外してしまった。

 渾身の力でドアが引きあけられ、大柄な男が母親に体当たりするように部屋に入り込んで、ばんとドアを閉めた。

 突然のことに、母親の固まった喉からは何の声も出なかった。

 男は手にした道具を母親の目の前にゆっくりとかざして言った。

「旧式のドアチェーンはよしたほうがいい。長すぎるんだ、鎖が」

 母親は両手を広げて、娘を背の後ろに隠した。

「嘘つきは泥棒の始まりというけど、あれは真っ赤な嘘だね。

 俺は小さいころ、そりゃあ正直な子どもだったのさ」


 男はふたりを見ながら、後ろ手でチェーンをかけた。



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