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 土曜日は快晴だった。が、予報ではにわか雨があるでしょうとのことだった。

 俺の家の裏でも釣れる時期なので、待ち合わせは我が家だった。迎えに行くつもりだったが、昨晩の携帯メールで家の人が車を出してくれることになったと連絡があった。

 今日の昼飯は冷麺でもふるまおうと思い、材料を短冊切りにしていたところにインターホンが鳴った。大声で返事をしつつ、きゅうりを手早く切り終わってタッパーに入れ、冷蔵庫にしまう。エプロンをはぎとりながら玄関へ向かう。

「おはよう」

 うきうきしてドアをあけた先に、たしかに可南はいた。けれど、

「おは……、おはようなのだぅお」

 恐ろしく低いテンションで斜め下を向きながら妙な挨拶をした彼女は、青い色をした、顔をすっぽりと覆う帽子をかぶっていた。薄桃色の花柄チュニックと半端丈の紺色レギンス、ビーズのペンダントや華奢なミュールに不似合いで季節外れなボア地の帽子は、よく見るまでもなくマンボウだった。

「はーいおはようございますはじめましてっ!」

 凍りつく俺と可南の間に、すこぶる脳天気な男の声が割り込んできた。

「僕、さかなちゃんのいとこで津々井伊織(いおり)、と申します。大学生やってます! きみが二見甲斐くんですね? おーきいなぁ。よろしくー」

 可南のいとこのわりに細目な伊織さんとやらは、俺の手をつかんでぶんぶん振った。そして、ドン引きした俺を一瞬、鋭い目で睨んだかと思うと、これみよがしに可南の肩を抱きよせた。

「僕のさかなちゃんに手を出したら許さないよ?」

 凄みのある陽気な声というものをはじめて聞いた。聞き間違いかと思ったほどだ。

 手を出したら、許さない。

 僕の、さかなちゃん?

「えーと、可南?」

 どんよりしている彼女に伺いをたててみようとしたが、伊織さんに阻まれた。

「可南なんて呼ばないでくださいねー。さかなちゃんはさかなちゃんです。こういうキャラクターなんですから、そこんとこわきまえてくださいね」

「いや、どう見ても本人いやがってるんですけど」

「照れ屋なだけなんです。本当は学校にもかぶっていきたいのに、できない。ああ切ないジレンマ~~~」

 俺は可南の腕をつかみ、玄関に引き入れてドアを閉めて鍵をかけた。ドアががすがす叩かれている。今のうちに本音を聞き出そうと可南を見れば、ぽろぽろと涙をこぼしてチュニックの裾を握り締めていた。

 これはもはやイジメだ。伊織の野郎、いい年して親戚の女の子を泣かしてどうするのだ!

「裏から逃げよう」

 帽子を外してやり、靴を脱ぐのを待つのももどかしくて、俺は可南を抱き上げた。勝手口からだと玄関先から見えてしまうので、ばーちゃんズがのんびりしている居間の窓から脱出することにする。縁が出ているのでサンダルも置いてある。

「甲斐やぁ、おまんじゅう食べていかんかね」

「甲斐、女の子を泣かしちゃあいかんよ」

 まんじゅうを食べてる場合じゃないし、俺が泣かしてるわけでもないし!

 俺はばーちゃんズを適当にあしらって窓をあけた。吹きさらしだったゴムサンダルは弾力がなくなっていて歩きにくいが、四の五の言っていられない。

 海岸に降り、右手の磯方面へ走っていった。海に突き出した岬を目指す。岬の先へ行くには、地元民しか知り得ない入り口を通らなければならない。そこまで逃げおおせれば、伊織は追ってこられまい。

 干潮の磯は生き物たちであふれていた。伊織の姿が見えた気もするけれど、それでも豆粒状態だ。足元のカニのほうがでかい。

 途中から可南も自分で歩きはじめた。手をつなぐ。時々よろける彼女を助けながら、俺がリードする。

 波打ち際ではじける水の玉が太陽の光を照り返しては、きらきらと消えていく。徐々に、可南に笑顔が戻ってくる。

 沖の水平線は空との境にはっきりと走り、入道雲の白さは青の中に際立っていた。天気予報どおり、いずれにわか雨が降るだろう。

 岬のたもとの地肌にまだ蕾のシオギクが群生しているのを横目に、人がやっと一人通れるほどの登り道を見つけた。ここにも木々が覆い繁っているので、それと思って探さなければ何も道はないように見える。

 最初は思い切り屈んで通り抜けなければならないが、そのあとはもう楽なものだ。しばらく誰も通っていないのだろう、ところどころ踏み均されていなくてサンダルやミュールでは難儀したけれど、五分もかからずに一般の参道に出た。

 岬にはえびす神社がある。とはいえ、地元民しか訪れないような小さな社なので、参道もただの砂利道だ。俺たちはその道を神社とは反対方向へ急ぐ。

「えびすさんじゃ行き止まりになっちまうからな」

「じゃあ、どこへ行くの」

「ティクターリクの洞穴」

 あそこであれば、気味悪がってまず誰も寄り付かない。洞穴に隠れていさえすれば、伊織をやりすごすのもたやすい。

「あいつはまだ磯にいるだろ。見つからずに行けるよ」

 振り向くと、入道雲がぐんぐん勢力を伸ばしてきていた。ティクターリクの洞穴に着く頃には、地を揺るがすような低音の雷鳴が響きはじめていた。

 なんの照明も持っていないので、入り口付近で隠れているつもりだった。けれど雨風が強くなり、もう少し奥へ入らざるをえなくなった。

 付近にティクターリクの気配はなかったが、潜んでいるのは彼だけとは限らない。俺がケガをするぶんには構わないが、可南だけは守らなければ。

「……ここ、どこまで続いてるのかな」

 薄暗がりの中で可南がぽつりと尋ねた。

「ティクターリクは、ここに住んでいるのよね? ほかにもいるのかな?」

 普段の調子を取り戻したらしく、興味津々といった風情で奥のほうを覗き込む。

「それって、確かめに行くつもり?」

 そうなのだろうなと思いつつ、一応、確認をとってみる。

 可南はもじもじしたあと、こくんと頷いた。なんて好奇心旺盛な女の子なのだろう。俺でさえ真っ暗闇の洞穴を探検するなんてことは恐いと思うのに。

「これ、これねっ、光るんだよ」

 取り繕うように、可南はペンダントロケットを掲げてみせた。頼りない薄青色の光が、可南の目を浮かび上がらせる。とてもとても闇を照らす威力はない。そのことは可南も心得ているようで、肩を落としてしょんぼりする。

 しばしの沈黙のあと、俺たちは壁にもたれかかるようにして腰をおろした。堅い土の壁はひんやりとすべすべしていて、元はなんのために掘られたのだろうと考えた。聞いた話ではじーちゃんがこどもの頃にはすでにあったはずだ。炭鉱跡や、戦時中の魚雷格納庫というわけでもないらしい。小学校の時の郷土史の授業でも取り上げられたことはなかったように思う。

 横穴自体はよく見かけていたものなのに、ただの横穴としてしか捉えていなかったことを今になって悔やんだ。

 はっきりとしているのは、ティクターリクと思われる生物が生息している、きわめて妙な場所だということである。なんの装備もなしに、気軽に踏み込んでいいところではない。

「なぁ可南、気になるのはわかるけど、せめて今日はやめとこう?」

「……でも」

「でもじゃない」

 可南はまだ何か言いたげな顔をしている。強情なコだ。

 恐いんでしょ、と挑発されたら素直に頷いてやろうと覚悟していると、

「甲斐くん」

 名前を呼ばれて気が緩んだ隙に、ぎゅう、と左腕を抱きしめられた。

「なっなにっ」

「甲斐くんは、伊織ちゃんみたいにならないよね?」

 至近距離で見つめられて、思わず俺はのけぞった。そんな俺に追い打ちをかけるように、可南は膝で立ち、にじり寄ってくる。俺の左足をまたいで、シャツの胸を両手でつかむ。

「伊織ちゃん、昔はあんなんじゃなかった。釣りを教えてくれたのも伊織ちゃんだよ。わたしの趣味にも付き合ってくれて、なんでも言うこと聞いてくれて。でも突然、人が変わったみたいに、わたしのこと拒否したの。そして、あの帽子をかぶれって――」

 中学の三年間と、高一の一学期を、「さかなちゃん」として過ごすことを強要されたという。伊織とはいとこ同士で、家も近所だったそうだ。

 はじめは優しいお兄ちゃんだったのに、可南に突飛なキャラクターを押し付けるようになったということか。さすがに俺は、そんなふうにはならないと思いたいのだが……。

「俺も伊織みたいになると思った? なんで?」

 訊くと、可南は目を潤ませて首を振った。小さな子がイヤイヤをする感じだ。

「甲斐くんといると、すごく心地よくて。うん、でも……そうだね、甲斐くんは優しいけど、ダメなことはダメって言ってくれるよね」

「伊織はぜんぶ受け入れてくれてたんだ?」

 負けた気がして、少々傷つきながら俺は言葉を返す。

「伊織のこと、……好きだった?」

 可南は唇を噛み、頷くでもなく、否定もしなかった。これ以上はやめておこう。俺がツライ。

 俺から離れ、可南は膝を抱えてちんまりと座り込んだ。顔色をうかがおうとすると、ふいと向こうを向いてしまう。無理にこちらを向かせる気にもならず、俺は差しだしかけた手でこぶしをつくり、ぐっと腹にあてた。

 どのくらい二人でそっぽを向きあっていただろう。

 そろそろ昼時かな、という腹具合になって、俺は身じろぎをした。ここからでは外がどんな天気だかわからない。にわか雨ならばもうとっくに過ぎ去っていてもいい頃だ。

「もう伊織も諦めてるだろ。帰ろう」

「……うん」

 可南は少し泣いていたようだった。上げた顔がぼんやりとして、まぶたが腫れぼったい。

 それには気付かなかったふりをして、俺は手を差し出した。可南は躊躇したらしい。おどおどと手を重ねてきたので、わざと力を入れて握ってやった。

 昔、伊織のことが好きだったとしても関係ない。

 今、そばにいるのは俺なんだから。

「痛いよ、甲斐くん」

 可南がかぼそい声で咎めるのを、ちょっといじわるな気持ちで無視をした。

 俺が怒っていると勘違いしたらしく、可南は俯いて、ひぃんと弱々しい声を漏らした。うわ、すごい罪悪感。

「ごめん」

 すぐさま謝る俺は意気地がないのだろうか?

 ソフトに手をつなぎ直して、洞穴の外へ出た。

 ――眩しい。太古の昔、長らく水中で過ごしていた生物が陸上に出た時の衝撃とは比べようもないだろうが、太陽があまりにも元気なので目眩がした。

 静かに深呼吸をしたあと、大きな伸びをして反り返り、ティクターリクの洞窟を見る。

「――、あ」

 こちらを見つめている奇妙な生物がいたような気がした。しかし、体勢をととのえて振り返った時にはもう姿はなかった。

 可南はまったく気がつかなかったらしく、口惜しそうに何度も何度も洞穴を覗いた。

「ねぇ、甲斐くん」

「なに」

「今度、探検しにこようね?」

「あー……。きちんと下調べして、準備してからな」

「うん」

 雨上がりの帰り道、俺たちの足はどろどろだった。俺のボロいサンダルは問題ないが、可南のかわいらしいミュールは目も当てられないほどに汚れてしまっている。

 洗えばいいよと言う可南に、俺は半ば勢いで新しいのをプレゼントすると宣言してしまった。すると、

「誕生日は冬だから、ブーツのほうがいいな」

 可南は肩をすくめて笑った。ちゃっかりしている。


   *


 その後に聞いた話によると、かつて可南と伊織は山で遭難したことがあるそうだ。可南が小学校を卒業して、中学生になる前の春休みのことだ。

 天然のイワナを求めて川の最上流を目指したはいいが、そんな源流域に年端も行かないこどもだけで入渓していいはずがない。しかし、年下のいとこにベタ甘だった当時の伊織は、じゅうぶん危険を承知していたはずなのに、可南の好奇心の赴くままに付き合った。結果、遭難したあげくに年上だった伊織はこっぴどく絞られたようで、以降、人が変わったとのことである。可南に振り回された伊織に同情すべきか迷うところだ。

 伊織が大学がはじまるからと巣に帰っていくと、心底ホッとした。こちらに滞在中、彼はマンボウの帽子を抱えて執拗に可南を追い回していたのだ。

 可南は可南で、彼の変貌の原因は自分にあることを認めていた。だから三年と数カ月、黙って「さかなちゃん」を演じていたのだろう。いまだに、気を抜くと語尾に「ぅお」がついてしまうのだから根は深い。

 でもいずれは、そのわだかまりも解ける日がくるだろう。そう思いたい。


 おばあさんの四十九日が過ぎる頃、可南は学校でも、少しずつ周りに打ち解けはじめていた。俺と付き合っているという噂が立つと、恥ずかしそうにしていたが否定はしなかった。

 おかげで、俺はまた男どもにいじられる日々がはじまった。なんでこう恋愛がからむと、俺みたいな見てくれの恐いやつでも絡みやすくなるんだろうな?

 でも、悪くはない。教室に一人きりでいるよりは、理由はどうであれ、仲間とじゃれ合う毎日は楽しい。

 ふと、洞穴のティクターリクのことを思い出す。魚類と両生類のミッシングリンクは――俺と可南の架け橋となったあいつは、今も一匹ぽっちでいるのだろうか?

 いつのまにかあの洞穴は途中でふさがっていて、もはや彼に遭遇することはなかった。永遠に可南と俺、二人だけの秘密になってしまったのだ。



  *おわり*

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