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運命の出会いというものを、俺はそれまでついぞ実感したことがなかった。
――、が。
少し前を歩く女の子が、ショルダーバッグのポケットからハンカチをとりだしたとき、はずみで落っこちたそれに、俺は何気なく目をとめた。
本当に何気なく、だったんだ。たとえばポケットティッシュだったら、そのまま素通りしていたに違いない。拾ってあげるなんてアクションは、初対面の人限定だが極度の人見知りである俺にはありえない。
そんな俺が、歩みを止めて、しかも腰をかがめてまで拾った、彼女の落し物。歩道のアスファルトから浮き上がるようなそれは、蛍光色のオレンジと黄色がまばゆい、親指の先ほどの大きさの玉ウキだった。
「あのっ! 落としましたよ」
ほとんど勢いで声をかけていた。こんなことは初めてだ。振り返った彼女と何を話したらいいかとか考えずに、よもやとびきりの美少女だったらいいなぁとか期待することもなく、ただ、反射的に呼び止めた。
だから、
「ありがとうなのだうお!」
とかなんとか、よくわからない音が語尾についたお礼の言葉が真夏の日差しとともに飛び込んできても、即座には対応できなかった。
「うっかりここに入れたままだったんだぁ。拾ってくれてありがと」
「……、うお?」
「やだあ、うお、なんて言ってないよぉ」
女の子は手をひらひら振りながら照れて笑うと、落っこちそうに大きな目をくりくりさせて俺を見上げた。
メバルみたいだなぁ、と俺は彼女を見つめ返しながら思った。メバルはカサゴ目フサカサゴ科、この春先の堤防でもたくさん釣れた魚だ。さすがにあそこまで目は飛び出ていないけど、女の子はそれぐらい印象的な目をしていたということだ。
「ん。この匂いはっ」
女の子は小さな鼻をひくつかせて、俺の胸のあたりを嗅いだ。
俺はというと、異性とここまで接近したことがついぞないので、すっかり硬直しきっていた。
「海の近くに住んでるの? 魚屋さん? それとも、釣りキチさんかなぁ?」
その通り釣りキチです、と答えようにも声が出ない。
女の子は玉ウキをバッグの中のポーチにしまい、
「わたし、引越してきたばかりなんだ。もし釣りをする人なら、ポイント教えてね?」
そのあと自己紹介をしたような気がするが、俺はしっかり聞き逃していた。かわりに、彼女の髪が身動きのたびに揺れるのとか、ほんのり色づいた唇がカワハギみたいにちっちゃいなぁとか、ほっぺたがつるつるしていて手触りよさそうだなぁとか、考えていた。
やがて、反応のない俺に愛想を尽かしたらしく、女の子はじゃあねと苦笑して、曲がり角に姿を消した。通りすがりのおじさんが、でかい図体で道の真中にしゃがみ込む俺に、憐れみの視線を残しつつ去っていった。
……異性の釣り仲間ができようかってのに、俺は! 俺は~!!
情けなくて涙が出た。がっくり項垂れる。
なんて名前の子だったんだろう。どこに住んでいるんだろう。このあたりなら同じ高校かもしれない。とはいえ夏休み中だから転入生がいるかどうかわからないし、隣町には私立のお嬢さん学校だってある。そもそも中学生かもしれないし。
人生初ともいえる――しかも俺の十六の誕生日目前、神様のプレゼント的な「出会い」を不意にしてしまった俺は、予定していた夜釣りに出かける気力もなく、タオルケットにぐるぐるくるまって早寝した。
そして、夢を見た。タイやヒラメが舞い踊る、竜宮城の夢。
巨大メバルに腰掛けた乙姫様は、俺に「大事な玉ウキを拾ってくれてありとうなのですぅお」などと言い、紐のゆるんだ玉手箱をよこした。玉手箱は受け取った瞬間にたちまち白い煙を立ち上らせ、竜宮城を包みこむ。
煙が立ち消えるのと同時に、俺の前にあったものはすべて消え失せてしまった。