第1話 破滅フラグの席次表
扉が乱暴に開かれる音で目を覚ました。
見慣れない天蓋つきのベッド。壁には家紋入りのタペストリー。磨きこまれた銀の香炉から、バラと乳香がほどよく混ざった甘い匂いが漂っている。
――ここは、ゲームの中だ。
鏡に映った私は、金の巻き髪に碧の瞳。侯爵家の長女、セシリア・ド・ルーベン。乙女ゲーム『薔薇の王国の婚約者』に登場する、学園パートでヒロインを虐め抜き、終盤に王太子から公開の場で婚約破棄される悪役令嬢だ。
そしてその後、彼女に訪れる結末は――修道院送り、あるいは処刑。ゲームの難易度を跳ね上げる通称「破滅ルート」である。
侍女のリネアがカーテンを引き、朝の光が雪のように白いレースを透かして部屋に降りた。
「お嬢様、起床のお時間でございます。本日は、陛下主催の春季外交晩餐会。王太子殿下もご臨席に」
私は喉奥にひっかかった息を押し流す。晩餐会。――ここで、破滅フラグが「動き出す」のを、私は知っていた。
王太子派の公爵夫人が、ヒロインを貶めるための罠を仕掛け、それに私が「乗った」ことにされる。悪役令嬢にふさわしい振る舞いを示す証拠として、彼らは私のドレスに仕掛けを施し、場で嘲笑を引き出す。それが序章。
だが、私はもうシナリオを知っているセシリアだ。
同じ轍を踏む気はない。
「リネア、夜会用のドレスは変更。王太子殿下から賜った真紅のものではなく、群青のシルクにしてちょうだい」
「えっ……でも、殿下のご意向に背くことに」
「彼は『私が真紅を好む』と思い込んでいるだけ。今日は隣国ゲルデンの使節が来るわ。王太子の機嫌より、相手国の配色に合わせるほうが礼儀にかなう」
リネアの目がきょとんと丸くなる。
ゲーム内でのセシリアは、常に「王太子の好みに盲従するお飾り」だった。だが外交を重んじるのなら、相手の国旗――金獅子と群青の盾――に配慮するのが常識だ。
私はドレスと宝飾の段取りを矢継ぎ早に指示していく。耳飾りはサファイア、首元は控えめに。扇は白檀。匂い袋は薔薇よりラヴェンダー。
そして、侍従頭に招待客の席次表を確認させた。
席順は政治力学そのものだ。ゲームでは、私は王太子の隣という栄誉を与えられながら、ヒロインの席にわざわざ絡んで自滅する。――馬鹿らしい。
私はむしろ隣国使節団の末席に椅子を所望した。会場中ほど、王の視線も届き、だが陰謀の矢が飛び交いにくい角度。
夜が来た。
王城大広間は、百本の燭台に照らされて黄金色にゆれていた。上手に王族席、下手に貴族席。中央に長い卓、両端に楽団。
私は裾を払って歩く。群青のドレスが燭光を吸って、深い湖面のような艶を見せた。視線が集まるのを感じる。ざわめきには覚えがある――以前なら、私はそれを悦楽と勘違いしていたのだろう。今はただ、冷たく計算する。
(王太子派が仕掛けてくるなら、開会の辞の直後。みんなの視線が散っている、次の瞬間……)
その予測は、半分だけ外れた。
開会の辞のあと、楽団が調べを変え、ワインが注がれはじめたとき――私の前に、静かに一人の青年が立った。
整えられた黒髪。無駄のない所作。薄い灰色の瞳。
そして、刺繍の少ない正装。貴族らしからぬ、節度の美。
「初対面にて失礼する。石田三成――ゲルデン王国使節団、軍務顧問」
心臓がひやりと冷えた。
三成。
ゲームの世界に、なぜ戦国の軍師がいるのか。
史書で読んだ彼の語が、冷水のように脳裏を流れる。秩序、律義、論理――そして冷徹。
「セシリア・ド・ルーベンと申します。本日はようこそ」
私は扇を開いた。彼は視線をわずかに下げ、席次表に目を落とした。
そして、ほとんど独り言のように呟く。
「王太子殿下の右隣を辞退して、我が使節団の列に座した貴女の判断。――合理的だ」
「分析がお好きなのね」
「職務ゆえに」
彼の言葉は乾いていた。だが不思議なことに、無礼さは微塵もない。言葉の端々が、無用な感情を削ぎ落とした刃のように澄んでいるからだ。
そこへ、王太子が笑い声とともに現れた。
黄金の縁取りの衣装。拍手と囁き。私は立ち上がって礼をとる。
「セシリア、今宵は一段と美しい。――だが、どうして赤を身につけない? 君には情熱の色が似合うのに」
「隣国の色に敬意を払いましたわ、殿下」
私が微笑むと、王太子の瞳が一瞬だけ細くなる。
その後ろで、公爵夫人が扇の陰で何かを合図した。
銀盆を持った下働きが、私のテーブルに近づいてくる。蓋付きの小鉢――ゲームと同じ。中身は、ヒロインが貴重な香辛料を無断で持ち出したと「証明」するための、ねつ造された香辛料の小袋だ。
私はゆっくりと席を立った。
銀盆が私の前に差し出される。周囲の視線が集まる。
――あの日、ゲームのセシリアは掴んでしまった。
だが私は、扇を閉じ、銀盆の蓋にそっと指先を触れ、やわらかく微笑んだ。
「殿下。外交の席で密閉容器の蓋を開けるのは、礼に反しますわ。香りは香の主権。拡げるのは、主の許可が必要ですもの」
ざわ……という波が立った。
誰もが「香り」を嗅ぎたがる。だが、香はもらい香こそが礼――そんな理屈、この世界に存在するだろうか。
存在しなくてもいい。私が作ればいい。
王太子は笑ってみせ、しかし退屈そうに肩をすくめた。「ならば許す。開けて構わん」
許可が出た瞬間、私は盆を持った下働きに顔を寄せ、ささやいた。
「――今」
下働きの少年は、小さく頷いた。
数瞬後、反対側の扉が開き、侍従長が慌ただしく走り込んできた。彼の手には、城内出入り書の写し。声高に告げる。
「御前失礼! 本日、香辛料庫の封蝋が切られた記録はございません! そして同時刻、王太子派の某公爵家の倉より、同型の小袋が――」
「やめよ」
王太子の声が低く響いた。
場の空気が凍る。
私は扇の陰で、汗をひとしずく拭った。間に合った。
下働きの少年――ルーベン家の密偵見習い。今朝、私は席次表を策定するのと同時に、彼に命じていた。香辛料庫の封蝋と出入りの記録を確認し、もし「偽の小袋」が出回るなら、同時刻の矛盾を作るように、と。
公爵夫人の扇が硬直し、まるで別の生き物になったみたいに震えた。
そのとき、私の隣で、石田三成が小さく拍手をした。
音は、ほとんど私にだけ届くほどの微かなもの。
彼は横顔のまま、低く言う。
「序は凌いだ。だが破が来る」
「破?」
「表の罠が破れた時、裏は刃を抜く。――出入りの記録を捏造した者を、君の側近に仕立てるはずだ。『セシリアの家は不正を行った』という形に」
背骨の芯が、氷に変わる感覚。
彼は、私が朝に出した指示と、王太子派の動きを同時に読み切っている。
「……どうして、ここまで?」
「合理性の問題だ」
三成はワインに手を伸ばさず、水差しを指先で示した。
従者が戸惑うと、彼は微笑を一枚、きっちりと重ねる。
「私は三度の献茶を好む。初め薄く、次に適度、最後に濃く。――人を見るにも、策を施すにも、順序がある」
三献茶。史書にあった逸話が胸を打つ。
彼は自身の作法で場を整え、順序を守って相手を測るのだ。
「あなたは、最初の盃をこぼさなかった。だから、次を注ぐ」
三成の灰色の瞳が、たしかに笑った。
その直後、彼は視線をほんのわずかに上げ、――天井を見た。
私はその意味を即座に理解した。大広間の梁。飾り布。合図。
王太子派は、香辛料の罠が破れたなら、次は物理的な妨害を仕掛ける――飾り布を落として混乱を起こし、その最中に密偵見習いの少年へ罪を着せる。
「リネア」
私は侍女を呼び、扇の中に短く命令を滑り込ませる。「合図を出したら、白のハンカチを」
開会からわずか十五分。
楽団が小休止に入り、従者たちが料理の配置を整えるために動く。その瞬間、梁の上でわずかな影が動き――飾り布が、落ちた。
悲鳴。ざわめき。
私はリネアの白いハンカチを掲げ、声を張った。
「殿下! ゲルデン式の無礼討ちです!」
嘘だ。けれど、半分だけ。
ゲルデンでは、儀礼の混乱時に無礼を働いた側が布を落としたと見做される――という「習俗」が、あるかもしれない。
私は朝、ゲルデンの礼法書を読み、類似の一文を見つけて記憶に落としていた。
王は目を瞬かせ、視線でゲルデン使節を見る。
三成は、寸分の遅れもなく、頷いた。
「王の御前での混乱、我が国では布を落とした側の不作法に帰す例がございます。……もし該当するなら、責任者の呼名を」
公爵夫人の扇が、今度はへし折れた。
彼女の家の従者が梁に登っていたのだ。
私は王太子に向き直り、深々と腰を折る。
「殿下。ゲルデンの礼法に照らし、本件の責めは私ではなく、布を落とした側にあるようです。――どうぞ、正義を」
王太子の唇が、かすかに歪んだ。
彼は王を見る。王はゆっくりと頷き、侍従長に目配せをした。
侍従たちが、梁に登っていた従者を取り押さえる。
公爵夫人は蒼白になり、椅子に崩れ落ちた。
場は、かろうじて秩序を取り戻す。
私は指先に残る震えを、扇の骨で殺した。
そのとき、私の袖口に、紙片が滑り込んだ。
差し入れたのは、三成の従者。紙片には、ぎっしりと整った書字。
破滅の第二の刃は折った。
次は、第三。
準備あり。合図は、水。
私は目を上げる。
三成は、水差しの前に座し、ぴたりと揃えられた指先で卓布の皺を伸ばしている。
彼の世界では、まず机上が整わなければ、戦は始まらないのだろう。
「助力の理由は――『合理性』だけ?」
私が問うと、彼は一瞬だけ言葉を選ぶような沈黙を置き、答えた。
「合理は基礎だ。だが、人は基礎だけでは生き延びられない。――君の目に、恐れ以外のものがある」
「……未来、かしら」
「ならば共に設計できる」
そこへ、王太子が再び歩み寄ってきた。
顔には笑み。だが、その目に宿るのは、怒りでも羞恥でもない。――退屈だ。
彼はいつも、退屈を面白い玩具で紛らわせる。その玩具が、たまたま私だった。
「セシリア。君は今宵、よくやった。だが、君の婚約者は私だ。外交の場で勝手に立ち回るのは、可愛げがない」
可愛げ。
その言葉が、氷より冷たく、火より熱く、胸に刺さった。
――これが、私が破滅する根だ。
いつだって彼は、私の行動に「可愛げ」を求め、それ以外を切って捨てる。
「殿下。可愛げは、国を守りませんわ」
私が言うと、周囲が息を呑んだ。
王太子の眉が、不機嫌にぴくりと動く。
その瞬間、三成が水差しを持ち上げ、私のグラスに第一の水を注いだ。
彼は王太子にも、同じように注ぐ――等量で。
「初献。薄く、喉を潤すために。――殿下、次がございます」
王太子は、三成を見た。
それは、獣が新しい獲物を調べる視線。
「……次?」
「はい。第二献は、適度。語り合うために。第三献は、濃く。約束のために」
三成は笑い、そして王太子を卓の上の戦へと誘った。
王太子は、退屈を紛らわす新しい遊戯を見つけた少年のように、口角を上げる。
「よかろう。――ならば約束をしよう、石田とやら」
私はグラスを握りしめた。
これが、三成の言う第三だ。
この約束で、王太子は自らの言葉を錨として打ち込み、動けなくなる。
そして、その隙を、私たちは未来のために使う。
第二献が注がれる。水はわずかに濃く、舌に輪郭を残す。
三成は卓上に置かれた席次表を指で弾き、整列させた。
王太子、王、私、ゲルデン使節、公爵夫人――彼は名札を並べ直すように、言葉で席次を再構築する。
「第二の約束。――本日の混乱について、殿下は客人の礼法を尊重したと公に言明なさる。王国はゲルデンとの友誼を確認し、不作法は取り締まる。よろしいですね」
王太子は頷き、退屈そうに笑う。「構わん」
「第三の約束。――セシリア様に関する根拠なき中傷が出たとき、殿下は必ず事実確認を命じる。――その場で」
王太子の手が、初めて止まった。
静寂。
私は息を詰める。
彼は、こちらの意図に気づいたのだ。
公開の場での婚約破棄。言葉の剣。――それを、事実確認という鞘に押し戻させるための契約。
長い沈黙ののち、王太子は、水を一気に飲み干し、唇の端を上げた。
「いいだろう。――約束しよう」
その言葉は、王国の証人である王と、客国の証人である三成の前で発せられた。
すなわち、彼は自分の言葉を縛られた。
三成は第三献を注ぎ、杯を合わせた。
水の音が、静かに鳴った。
夜会が終わるころ、月は高窓から銀の帯を垂らしていた。
人の波が引いていく中、私は三成に会釈する。
「助けられました」
「互恵だ」
「合理性、だけではないのでしょう?」
「君が『設計図』を持っていたからだ」
「設計図?」
彼は視線で、私の指先――席次表を示した。
そこには朝からの私の走り書きが残っている。席順の変更。香辛料庫の封蝋。梁の布。合図。
私の計画を、彼は一瞥で読み解き、補強してきたのだ。
「脆弱な梁には、添え木を。――それが私の役目だ」
「では、これからも添えていただけるの?」
「条件が一つ」
彼は、わずかに口許を和らげた。
風のない静かな湖面に、石が落ちて波紋を広げる瞬間のような笑み。
「感傷で舵を切らないこと。
そして、敗北を恐れずに、撤退を選べること」
「厳しいのね」
「戦は、残酷だ」
言葉は冷たい。だが、その冷たさは、私の背骨を支える鋼のようだった。
私は頷く。
「約束するわ。――でも、ひとつだけ、私からも条件を」
「聞こう」
「あなたがどれだけ冷徹でも、人を『道具』としか見ない提案には乗らない。そのときは、必ず反対する」
三成の瞳が、はじめて驚きの色を帯びた。
そして、その驚きは、すぐに承認に変わる。
「良い相棒だ」
彼はそう言って、手を差し出した。
私は扇を閉じ、その手を取る。
悪役令嬢と戦国の軍師。奇妙な握手。
未来はまだ、白紙だ。だが、設計できる白紙だ。
別れ際、三成は私の耳元に低く囁いた。
「次は『学園』だ。――君の婚約破棄が最も映える舞台。
王太子派は、公開の場で君を切る準備をしている」
「それを、事実確認で止める」
「止めるだけでは足りない。逆に切る」
「……どんな刃で?」
「成績と規律。
そして――水だ」
私は笑ってしまった。
彼は本当に、水が好きなのだろう。
けれど思う。
水は形を持たない。器があれば、どんな形にもなる。
ならば私は、器になる。
彼の知略を受け止め、拡げ、流し、そして、凍らせるときは氷に。
夜風が、群青の裾を揺らした。
遠くで楽団が最後の曲を奏でる。
私は扇を開き、深く息を吸った。
――破滅フラグの席次表は、書き換えた。
次は、学園だ。
私と三成の、第一の戦が始まる。