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9月15日 第9話、侵入者キョン、島を揺るがす

伊豆大島では、特定外来生物キョンの爆発的増加が農業被害だけでなく、生態系や地域経済の持続性をも脅かしている。だがこの危機は、地域が主体となり自然と共生しながら「元気なまち」へ再生するための起点にもなり得る。報奨金制度をきっかけに、市民科学、ジビエ活用、森林再生など多層的な取り組みを重ねることで、外来生物対策を地域資源化し、次世代につながる持続可能なまちづくりの新たな可能性を示す挑戦が今、始まっている。


はじめに:生物多様性の危機とまちの活力の喪失


伊豆大島で深刻化する特定外来生物「キョン」の問題は、単なる農業被害の話ではない。これは、生態系のバランス崩壊、地域経済の疲弊、そして島の「元気」を奪う構造的な課題である。東京都が導入した捕獲報奨金制度は、その対策として重要な一歩だ。しかし、生物オタクとしての視点から見れば、この問題は「まちを元気にする」ための、むしろ絶好のチャンスと捉え直すべきではないだろうか。キョン問題の本質を生態学的に解き明かし、報奨金制度の可能性と限界を分析し、それを超えた「元気なまちづくり」への道筋を探る。


1. キョン問題の生態学的核心:単なる「害獣」を超えた生態系攪乱


キョン(Muntiacus reevesi)は中国原産の小型シカ科動物である。その生態的特徴こそが、伊豆大島での問題の根深さを物語っている。


· 驚異的な繁殖力と適応力: キョンは年間を通じて繁殖可能で、妊娠期間も短く(約7ヶ月)、生後間もなく繁殖可能になる。この高い繁殖ポテンシャルが、逃げ出した数頭からわずか数十年で約1万7000頭という爆発的な個体数増加を可能にした。島という閉鎖環境は、天敵の不在と相まって、彼らの繁殖をさらに加速させた。

· 食性の広さと食害の多面性: キョンは典型的なブラウザー(木の葉や芽を食べる)であるが、草や果実、農作物も幅広く摂食する。ニュースにある年間200万~300万円の農業被害は、サツマイモ、野菜、果樹など多岐にわたる。しかし、問題はそれだけではない。森林の下層植生を過度に摂食することで、在来の草本植物や樹木の稚樹の再生を阻害し、森林の構造そのものを変化させる。これは、島固有の生態系サービス(水源涵養、土砂流出防止、在来種の生息環境提供)の劣化を意味する。

· 在来種との競合と生態系の単純化: キョンの大規模な個体群は、限られた資源(食物、生息空間)をめぐって在来の草食動物(例えば、ノウサギや昆虫類)と激しく競合する。また、その採食行動が植生を単純化し、多様な生物が依存する複雑な生息環境を破壊する。結果として、島の生物多様性が著しく低下する。生物多様性の喪失は、生態系のレジリエンス(回復力)を低下させ、将来的な環境変化や新たな脅威に対して島全体が脆弱になることを意味する。


このように、キョン問題は「農業被害」という経済的損失の裏側に、島の生態系基盤そのものの侵食という、より深刻で長期的な被害を潜ませている。生態系の健康こそが、持続可能な「元気なまち」の土台なのである。


2. 報奨金制度の可能性と限界:住民参加の促進と持続性の課題


東京都の報奨金制度(1頭8000円)は、特に猟銃が使えない市街地での捕獲を強化するための現実的な施策である。その意義は大きい。


· 住民参加の促進と問題意識の共有: 報奨金は、単なる経済的インセンティブ以上の意味を持つ。わなの設置・管理を都が行うことで、住民は「自分たちの問題」としてキョン問題に向き合うきっかけを得る。捕獲成功による報奨金は、行動への直接的なフィードバックとなり、問題解決への主体性と達成感を育む。これは、地域コミュニティの結束を高め、環境問題への関心を喚起する上で極めて有効だ。生物オタクの血が騒ぐのは、この「市民科学」的な側面である。住民が生態系の一部として関わることで、自然への理解が深まる。

· 市街地対策の有効性: キョンは市街地周辺の植栽や庭園も食害し、人間生活圏に深く浸透している。猟銃使用が難しい地域でのわなによる捕獲は、被害の最も身近な場所での対策として不可欠である。報奨金は、この労力を伴う作業への対価として妥当と言える。


しかし、この制度だけに頼ることには明らかな限界がある。


· 持続性と財政負担: 1万7000頭という個体数を考えると、報奨金だけで個体数を管理レベル(生態系への影響が許容範囲内)まで大幅に削減するには、膨大な時間と財政負担が伴う。捕獲効率が頭打ちになる段階(個体数密度が下がり、捕獲が困難になる)では、報奨金の効果も減衰する。税金で賄われるこの制度が、いつまで続けられるかという持続性の問題は避けられない。

· 捕獲後の処理と資源化の欠如: ニュースには捕獲後のキョンの処理について触れられていない。捕獲した個体を単に廃棄するのでは、資源の無駄遣いであり、持続可能性の観点から問題だ。キョン肉は食用としての可能性を持つ(ただし、衛生管理や食文化の受け入れの課題はある)。また、革や骨など他の部分の有効利用も検討されるべきである。捕獲を「コスト」から「資源」へと転換する発想が求められる。

· 根本的な侵入経路・再発防止対策の不在: 報奨金制度は、既に島に定着した個体群の「後追い対策」である。外来生物問題の根本解決には、新たな侵入を防ぐための検疫体制の強化、ペットとしての飼育・流通の規制、早期発見・早期対応体制の構築など、予防的アプローチが不可欠だ。これらが不十分なままでは、キョンに限らず、次の外来生物問題の発生は避けられない。


3. 「まちを元気にする」ための戦略的転換:キョン問題を地域資源へ


報奨金制度を足掛かりに、伊豆大島はキョン問題を「まちを元気にする」ための地域資源へと転換する可能性を秘めている。そのためには、以下の多角的なアプローチが必要だ。


① 「地域資源」としてのキョン活用の探索:


· 食文化の創造: 衛生管理を徹底した上で、キョン肉を「島の特産品」として位置づける。地元の料理人や加工業者と連携し、ジビエ料理の開発や加工品(ソーセージ、ハム、ジャーキーなど)の製造・販売を行う。これは、捕獲コストの一部を回収するだけでなく、新たな地域ブランドや雇用を生み出す可能性を秘める。島外からのジビエツーリズム(狩猟体験やジビエ料理を楽しむ観光)の誘致も視野に入る。

· 革工芸などものづくりへの展開: キョンの革は小さいながらも質が良いとされる。地域の伝統工藝や新しいデザイナーと連携し、革小物やアクセサリーなど高付加価値製品の開発を目指す。これは、捕獲副産物の有効利用と、地域のものづくり文化の活性化に繋がる。

· 教育・研究資源としての活用: 捕獲個体を大学や研究機関に提供し、生態学、獣医学、保全生物学などの研究材料とする。また、剥製や骨格標本を作成し、島の自然学習施設や学校で外来生物問題の教材として活用する。これは、次世代の環境教育に貢献すると同時に、島の「学術的価値」を高める。


② 「市民科学」による生態系モニタリングと管理の高度化:


· 報奨金制度に参加する住民を、単なる「捕獲者」から「生態系のモニター」へと育成する。スマートフォンアプリを活用した捕獲記録(場所、日時、個体の性別・年齢など)の共有、食害状況の写真投稿、在来種の観察記録などを集積する。このデータは、キョンの生態や行動、在来種への影響を詳細に把握し、より効果的で効率的な捕獲戦略(例えば、繁殖期前の集中捕獲、特定の高被害エリアへの重点配置)を立案するための貴重な基盤となる。住民が自らデータを収集・分析することで、生態系への理解が深まり、管理への主体性がさらに高まる。


③ 「元気なまち」を支える生態系サービスの再構築:


· キョン個体数の管理と並行して、食害によって荒廃した森林や里地里山の再生に取り組む。在来種の植栽、下層植生の回復促進、水土保全工事など、多様な主体(行政、NPO、住民、企業)が協働した「森づくり」を推進する。これは、生物多様性の回復、水源涵養機能の向上、美しい景観の創出、ひいては観光資源の価値向上に繋がる。健康な生態系がもたらすサービス(清浄な水、空気、食料、レクリエーション空間)こそが、持続可能な「元気なまち」の根幹をなす。


④ 地域コミュニティの協働と新たな価値創造:


· キョン問題を契機に、農業者、林業者、漁業者、観光業者、商工会、学校、NPOなど、島の多様なセクターが連携するプラットフォームを形成する。キョン肉の活用、森林再生、環境教育、情報発信など、各々の強みを活かしたプロジェクトを共同で企画・実行する。この協働の過程で生まれる新たな人間関係やネットワーク、そして「外来生物を乗り越えた」という成功体験が、地域の自信と一体感を醸成し、「まちの元気」の源泉となる。報奨金制度は、そのための「呼び水」として機能しうる。


結論:持続可能な共生へ向けての挑戦


伊豆大島のキョン問題は、外来生物がもたらす生態系の攪乱と、それに起因する地域経済・社会の活力低下という、地球規模で深刻化する課題の縮図である。東京都の報奨金制度は、その対策として重要な第一歩であり、特に住民参加を促進する点で評価できる。しかし、生物オタクの視点から見れば、この問題は「まちを元気にする」ための、むしろ大きなチャンスである。


キョンを単なる「駆除すべき害獣」と見なすのではなく、「地域資源」として再定義し、その活用(食文化、ものづくり、教育研究)を通じて新たな価値と雇用を創造する。報奨金制度を足掛かりに、住民を主体とした「市民科学」による生態系モニタリングと管理を高度化し、科学的知見に基づいた効率的な対策を進める。そして、キョン管理と並行して、荒廃した自然環境の再生に取り組み、健康な生態系がもたらす多様なサービスを「まちの元気」の基盤として再構築する。さらに、この問題解決の過程で、地域の多様な主体が連携・協働する新たなコミュニティを形成する。


このような多角的で戦略的なアプローチこそが、伊豆大島がキョン問題を乗り越え、外来生物と持続可能な形で「共生」しつつ、生態系の豊かさと経済社会の活力を両立させた「元気なまち」へと生まれ変わるための道筋である。報奨金制度は、その壮大な挑戦の序章に過ぎない。生物多様性の保全と地域の持続的発展は、決して対立するものではない。伊豆大島の挑戦は、その可能性を世界に示す貴重な実験場となるだろう。


キョンの急増は、伊豆大島にとって生態系と暮らしの両面を揺るがす試練である。しかし、この課題を通じて地域は自然と人間の新しい関係を描き直し、持続可能な未来像を自ら構築し始めた。報奨金制度を端緒に、市民科学、ジビエ産業、森林再生、観光振興などが連鎖的に動き出し、外来生物を「資源」に変える発想が地域社会に根づきつつある。危機を成長の契機へと転換するこの挑戦は、島の自立した生態経済モデルとして、他地域や世界への道標となるだろう。


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