井戸の底の子供たち
引っ越したばかりの古い家には、広い庭があった。その庭の片隅に、蔦に覆われた古い井戸がひっそりと佇んでいる。錆びた滑車と、苔むした石積みが、その歴史を物語っていた。新生活への期待に胸を膨らませていた美咲は、その井戸に、どこか懐かしいような、それでいて不気味な魅力を感じていた。
最初の数日は、特に何も変わったことはなかった。だが、夜になると、奇妙な現象が起こり始めた。寝室の窓を開けると、遠くから、かすかに子供たちの楽しそうな声が聞こえてくるのだ。笑い声、歌声、そして、無邪気な話し声。まるで、近所の子供たちが夜中に遊んでいるかのようだった。
しかし、この辺りに子供は少ないはずだ。美咲は不思議に思いながらも、疲れのせいだろうと自分に言い聞かせた。
数日後、声はさらに鮮明になった。そして、ある夜、美咲はその声が、庭の井戸の底から響いてくることに気づいた。心臓がドクドクと音を立てる。恐る恐る窓から庭を見下ろすと、闇の中に浮かぶ井戸の周りで、小さな影がいくつも揺らめいているように見えた。
「美咲ちゃん……遊ぼうよ……」
声が、彼女の名を呼んだ。それは、幼く、しかしどこか怨みがましい響きを含んでいた。美咲は、いても立ってもいられなくなり、懐中電灯を手に庭へと降りていった。
井戸に近づくにつれて、子供たちの声は大きくなり、その内容も変わっていった。
「寒いよ……」「暗いよ……」「助けて……」
楽しそうな声は消え失せ、今や助けを求めるような悲鳴に変わっていた。井咲は、井戸の縁に立ち、懐中電灯の光を井戸の底へと向けた。底は見えない。ただ、漆黒の闇が広がるばかりだ。しかし、その闇の中から、かすかに水の音が聞こえる。そして、何か、白いものが蠢いているような気がした。
その時、美咲の脳裏に、この家がかつて保育園だったという近所の老人の言葉が蘇った。そして、数十年前に起こったという井戸への転落事故。数人の園児が、誤って井戸に落ち、そのまま見つからなかったという悲しい事件だった。
美咲は、息をのんだ。この井戸の底には、あの時の子供たちの魂が閉じ込められているのだ。
「出して……出してよ……」
井戸の底から、無数の手が伸びてくる幻覚が見えた。それは、幼い子供たちの、細く白い手だ。その手が、美咲の足首を掴もうと、水の中から飛び出してくる。美咲は恐怖で叫びそうになったが、声が出ない。
そして、その白い手が、実際に美咲の足首に触れた。ひんやりと冷たい、しかし確かな感触。美咲は、バランスを崩し、井戸の底へと引きずり込まれそうになった。
その瞬間、美咲は全力でその場から飛び退いた。地面に尻もちをつき、井戸からできる限り距離を取る。心臓は激しく脈打ち、全身から冷や汗が噴き出した。
美咲は、その日から井戸に近づくことをやめた。夜になっても、窓を開けることはない。だが、眠りにつくと、夢の中で、あの井戸の底へとゆっくりと沈んでいく。そして、無数の子供たちの手が、美咲の体を掴み、闇の奥へと引きずり込んでいくのだ。
目を覚ましても、足首には、まるで冷たい手が触れたかのような感覚が残っていた。美咲は、この家に住み続ける限り、あの井戸の呪縛から逃れることはできないと悟った。そして、いつか自分も、井戸の底に閉じ込められた子供たちの仲間入りをするのではないかと、静かな恐怖に身を震わせるのだった。