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男山教会 3月13日の礼拝メッセージ

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(不思議のパルプンテ)

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782



【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪



※過去にアップしたものを再アップしております^^



【本日のメッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=uziyjW7otps&feature=youtu.be


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12732207561.html

(ブログを見てくださると聖書を閲覧できます)


3月20日と27日の礼拝メッセージにつきまして

後日にアップ予定なのでお待ち頂けると幸いです

ぜひお気軽にいつでもお立ち寄り下さい


2022年3月27日 礼拝説教 中心聖句


…彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって 私たちに平和が与えられ …わたしたちはいやされた。

イザヤ書53章4節


民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」…ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるため引き渡した。

マタイによる福音書27章26節


はじめに

葬りの準備としてナルドの香油が、一人の女によって、主イエスの頭に注がれたとき、それは食事のとき、憩いと平安のときでした。「しかし、平和が訪れる。真実に歩む人は横たわって憩う」(イザヤ57章2節)との預言のとおり、死と破滅の中で恐怖を覚える時にも、主イエスは、全き平安の中に十字架を負う道を進む。

「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」とは、第一に、キリストの苦しみが、本当に、すべての人の苦しみを負うものであったことを告げる。実に、「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」(マタイ8章16,17節)。それは、主イエスの奇跡が、目の前の病人を治す医者というよりも、むしろすべての人(命の息を吹き入れられたアダム)の魂を治す医者である隠れた真実を明らかにする。第二に、その真実について、「わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ」と傍観すること。そのとき、人は好き勝手に、キリストをあしらい、自らキリストの救いを遠ざける。それは、ポンテオ・ピラトの面前で「その血の責任は、我々と子孫にある」とこぞって答えた民同様に、自らに呪いを宣告するほどに、堕落の末路を露呈する結果を見る。

「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった」から、キリストが「担った」「負った」苦しみは、「刺し貫かれた」「打ち砕かれた」という、「死の苦しみ」であった、ことを告げる。事実、イエスは十字架の上に「死なれた」。その時、「兵士と一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水が流れ出た」(ヨハネ19章34節)。しかしこの「彼が受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。ここに、キリストが、わたしたち罪人の身代わりとして十字架刑に引き渡されたことを見る。それは、ちょうど、総督ピラトの口をして、「バラバ・イエスか、それともメシアといわれるイエスか」との交換条件をもって、引き換えられた律法で許されている石打の刑から、ローマ法における極刑への転換をもって、十字架の上に吊るし上げられたイエスの上に、滅びからの救いを見ること(ヨハネ3章14,15節、ガラテヤ3章13,14節、ガラテヤ2章20節)。

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」(ゼカリヤ12章10節)との、預言のとおりに、イエスを十字架につけたのは、だれでもない、この「わたしだ」と信じる時、わたしたちは、皆、イエスの死を悲しむことは、自らの死を悲しむことと一つであることを認める。

「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とは、キリストの苦しみの中に、自らの罪の結果を認める者たちの「神との平和」(和解)、罪と病と死の苦しみを負う「魂のいやし」。

おわりに

「評判の囚人」バラバ釈放は、キリストが身代わりとなられた故の罪人無罪放免の雛形。真の神への清い畏れと従順の中に、罪赦された喜びの中に憩いたい。


2022年3月20日 礼拝奨励 聖書朗読箇所


マルコによる福音書11章15~19節

 

 15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。

 16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。

 17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の 祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしてしまった。」

 18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。

 19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。


3月13日の礼拝メッセージをアップしました

遅くなりまして申し訳ありません

ぜひお気軽にいつでもお立ち寄り下さい


子ども説教 主題と暗唱聖句 

イエスさまは、預言のとおりに、ろばの子に乗って、エルサレムに入られた「本当の王さま」二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 

マルコによる福音書11章7節前奏 


招詞  

詩編65編2~6節

詩 編 歌 130番(2節)

開 会 祈祷

主 の 祈り

十   戒

子ども説教 

マルコによる福音書11章7節 

こどもさんびか

こどもをまねく[改5(1節)]

牧 会 祈祷

聖書 

イザヤ書53章1~5節(旧1149)   

ヨハネによる福音書12章35~43節(新193)

説 教 

「誰が信じえようか~イエスの栄光を見た預言者」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 270番(1節)

みことばの交読文 

詩編57編8~12節

感謝のささげもの・祈祷

頌 栄  546番 

祝 祷  

執り成しの祈祷

報 告


2022年3月13日 礼拝説教 中心聖句


わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

イザヤ書53章1節


彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。…」…イザヤは、イエスの栄光を見…、イエスについて語ったのである。

ヨハネによる福音書12章35~43節


はじめに

主イエスは、エルサレム神殿崩壊を予告された時、オリーブ山で神殿の方を向いて、四人の弟子たちに「人に惑わされないように気をつけなさい」と命じ、「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わす」と言われた(マルコ13章3~6節)。真のキリスト信仰と教会建設を求めたい。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」とは、苦難の僕となられた主を信じるキリスト信仰は、人の拒否と抵抗の中で、伝えられることを物語る。「たとえ彼ら(自分の幸福や救いを聖人や自分自身や他のどこかに求めている人々)がこのイエスを誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者または救い主であられるイエスを否定している」(ハイデルベルク信仰問答問30)と教えられるとおり、それは、キリスト者においても、信仰理解の基盤を絶えず確かめることにおける悔い改めの道。

 「キリスト・イエスの僕」パウロは、御子が、「肉によればダビデの子孫から生まれ」「聖なる聖霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」こと、この方が、「わたしたちの主イエス・キリスト」と宣べ伝えた。この神の福音にすべての人が従ったのではないことを問うとき、イザヤの預言を思い起こす。この時、福音宣教の声が、決して虚しいものではなく、なおも、不信のイスラエルへの神の忍耐を信じることに導かれる(ローマ1章1~4節、ローマ10章12~21節)。

「主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか」とは、人の思いの外、救われる人が少ない(限定された数)ことを明らかにする。それは「この町にはわたしの民が大勢いる」と告げる主の言葉と矛盾するものではなく、むしろ、本当の救いは、ただ、神の力によってのみ実現することを明らかにする。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かな者ですが、わたしたち救われる者には神の力」(コリント一1章18節)。弱い信仰者をつまずかせることをしないとは、十字架のつまずきを除くことではなく、むしろ、十字架に立ち帰ること。本当の生きた信仰は、キリストの苦難を忌避することなく、謙遜に受け入れ、神の力にのみ依り頼む(ルカ17章1~10節)。

「乾いた地から埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない」とは、苦難の僕イエス・キリストが、まことの人間として、この地上の生涯を聖霊によって処女マリアの胎内に宿る前から、神の約束と備えの中で、生と死をその身に引き受けられたことを示す。弟子の一人イスカリオテのユダの接吻により、イエスが判別されたほどに、人の好みに反する、多分に虚飾のない等身大のイエスの姿(ルカ22章47,48節)。また、茨の冠をかぶせられ、紫の服を着せられた主イエスの姿(ヨハネ19章5節)。

おわりに

主イエスご自身、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多く実を結ぶ」と言われ、「父よ、御名の栄光を現してください」と十字架の死に備えられた。福音書は、預言者イザヤの言葉(53章1節、6章9節)の実現を証しし、「イザヤは、イエスの栄光を見」「イエスについて語った」と伝える。今日、聖書の証しする苦難の僕イエスをありのままに信じ、告白する人は幸い。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/


Table Caffe〜


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?v=MCyjy8BuIIw&t=2s


「SEIZE THE DAY / 今を生きる」

https://www.youtube.com/watch?v=A7Aobi9nmWM


イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)

https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA


ハーベスト・タイム・ミニストリーズ

https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


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