第一章:本の登場人物との出会い(一)
……さらさらと、水の音がする。
川の流れる静かなせせらぎ。どこか懐かしく、どこか遠い、揺らめく音。 それが意識の奥深くで繰り返されるうちに、澪のまぶたがゆっくりと震えた。
「……ん、う……」
目を開けた瞬間、ぼやけた視界の先には白い霧が広がっていた。まるで夢と現実の境界にいるような、白く薄い帳。肌に触れる空気はひんやりとしていて、澪は反射的に腕を抱えた。
「……どこ、ここ……?」
目を凝らすと、霧の向こうに木々の輪郭がうっすらと浮かんでいた。その足元には、緩やかな川が流れている。夜のように静かな空気だが、空はほんのりと明るく、月の光のような淡い光があたりを照らしていた。
澪は、いつの間にか川辺の小さな岩場に横たわっていた。服はうっすらと湿っていて、傍らには御伽草子の本が置かれている。水には濡れていない――誰かがここに置いたのだろうか?
(いや、誰かいる?)
そう思った瞬間、霧の向こうから足音が近づいてきた。踏みしめられた草の音とともに、背の高い人影が現れる。
「……君、大丈夫かい?」
落ち着いた声。男の人だった。 霧がわずかに晴れ、彼の顔が月明かりに照らされる。
(綺麗な人ーー)
澪は思った。切れ長の目に優しげな光を湛え、肩までの髪は自然に揺れ、顔まわりの髪は後ろに軽く結ばれている。濃緑色の見慣れない着物をまとっているが、どこか気品と武人らしさを感じさせた。
彼は澪の数歩前で立ち止まり、こちらの様子を伺うようにしゃがみ込む。
「怪我は……なさそうだね。よかった。濡れていたから、どこかで足を滑らせたのかと思った」
「……あ、あの……」
うまく声が出ない。自分がどこにいて、何が起きたのかまだ理解できていなかった。どう見てもここは讃岐神社ではない。だが、連れ去られたにしては、意識を失う直前に感じたものは人智を超えた何かだった気がする。
「君、名前は?」
問われて、澪は一瞬迷った。本名を伝えるべきか。しかし、警戒心と混乱の中で、下の名前だけを答えることにした。
「……澪……です」
「ミオさん……か」
その名を穏やかに繰り返す彼の声には、奇妙な安心感があった。この人は、少なくとも敵ではないかもしれない。澪の中で、張り詰めていた警戒心がわずかに緩む。
そして彼は、ふと呟いた。
「まるで……天女みたいだったよ。さっき、このあたりが淡く光っていて、何事かと思って見に来たら、君がこの本と一緒に倒れていたんだ」
彼の眼差しは澪を見ながら、どこか遠くを見つめているようにも見えた。まるで、澪の姿に何かを重ねているかのように。
(なぜ、この人は初対面の私に、こんなにも優しい眼を向けるのだろう?)
居心地の悪さに居た堪れず、澪はおずおずと尋ねた。
「違っていたらすみません。私、どなたかに似ていたり……しますか?」
彼は驚いたように目を見開き、そして小さく微笑んだ。
「ごめんごめん、見すぎてしまったね。そうだな……昔会った人に、少し似てた気がしたんだ。悪気はないよ」
「いえ……お気になさらず。あの、ひとつお尋ねしたいんですが、気づいたらここにいまして……ここは、いったいどこなんでしょうか?」
「うーん、それは君がどこまでここを知っているかによって説明の仕方が変わるけど……場所としては、ここは聖域近くの森だよ」
「聖域……?」
聞き慣れない言葉に、澪は思わず問い返す。
「ああ、やっぱりこの世界のことはわかってないんだね。ここは“月世”と呼ばれている。君がいた世界とは、少し……違う場所だよ」
――月世? 異なる世界……?
驚きはあったが、目の前の光景があまりにも非現実的で、否定する理由は見つからなかった。澪は、自分が“異世界に来てしまった”という事実を静かに受け入れる。
「異なる世界、とおっしゃいましたけど……あなたも、私と同じようにしてここに?」
「“我々”も、この地の出身ではないという点では君と同じだ。でも、ここに来た経緯は、おそらく君とは違う」
「我々……?」
「そう。仲間と一緒に、ここに来たんだ。……この話はちょっと長くなるからさ。もし行くあてがないなら、俺たちの拠点へ来ないか? 君の服も濡れてるし、このままだと風邪をひく」
彼は、気遣うような柔らかい口調で澪にそう勧めた。澪の胸には、先日の出来事から残る男性への恐怖心がまだ完全には消えていない。けれど、このままここにいても状況が掴めないのは事実だ。
「……すみません。では、お願いしてもいいでしょうか?」
「もちろん。あ、そういえば、君の名前は聞いたけど……俺はまだ名乗ってなかったね」
彼は一歩引いて、胸に手を添え、丁寧に名乗った。
「源頼光。よければ、“ミオ”の字の書き方も、あとで教えてくれるかな」
“源頼光”。
平安時代に実在した武将であり、御伽草子では鬼を退治する英雄として語られていた名前。その名を口にした彼の姿に、澪はしばし言葉を失った。
さっき彼は、自身もこの世界の出身ではないかのような口ぶりだった。けれど、もし目の前の人物が“その”源頼光だとしたら……時代が、あまりにも違いすぎる。
(今は、考えすぎても意味がない。)
混乱する思考をいったん脇に置いて、澪は目の前の人物について行くことにした。