第 三章 木の社
「イェイサー、イェイサー、イェイイェイサー。
飲めよ、喰えよ、生きてまぐわえ、子だねを遺し、永らえよ、宇宙の全ての素粒子どもよ、我また然り。
イヤハヤヤハヤ、イイヤハヤ、セノッ!」
巨漢ファルコ・アルハンドロは、いつものように早朝に起き、吟遊詩人騎士となって流浪していた頃のように歌いながら、大きな桶を担ぎ、牛や馬や豚や山羊や羊に、水や餌を与えた。
歌は時に声を絞り出すカンテ・ホンドのように切々と歌う時もあったが、だいたいの日は朗らかで楽しげな田舎ふうの節回しだった。
水は雪を大鍋で溶かしたものだ。太い腕は軽々と持ち上げた。黒く渦巻く髪にたっぷり蓄えられた頬髯口髭顎鬚、精悍な大男だ。眉太く眼光は鋭かった。
使用人も彼を手伝う。
家畜は一階にある広い家畜部屋に、柵で種属ごとに仕切り分けて、飼い育てていた。家畜部屋の周囲は使用人たちの部屋で、十数世帯が住んでいる。二階が主人であるファルコの居住スペースだった。
「さあ、飯にしよう」
調理場と食堂は、母屋とは別棟になっていた。
屋根つきの外通路で母屋と結ばれている。火事の被害を最小限にするため、火を使う場所は母屋から離しているのであった。
家畜部屋で働いた連中は食堂で一斉に朝食にする。使用人の妻や母親たちは大忙しだ。こどもが騒ぐ。湯気と、食器の音と人々の喧騒。朝はチーズと温めたワイン、石窯から出たばかりのパンだ。
昨晩、猛吹雪の中、山の上の方で烈しい光を見たと言う羊飼いの若者の話を思い出し、
「おい、ハンセン、その話は本当だろうな」
体の大きな若者は、
「ええ、間違いございませんとも、ご主人様。ボッカの野郎も一緒に見たんですから、奴にも聞いてごらんなせえ」
部屋住みの羊飼いは応えた。その青い眼は真実を語っていた。
「そうか、ロネが気になるな。猛吹雪も一週間以上続いたし。どれ、後で様子を見に行くか。
「おい、ジョン・スミス、仕事だ、後で一緒に出掛けないか」
「わかりやした」
火傷だらけ、煤だらけで、黒く、精悍な顔と滾るまなざしの鍛冶屋は応えた。
ところが、
「おおい、ファルコ、ファルコやーいっ!」
ロネが敷地の柵の外で呼ばわっている。
「何だ、何だ、ロネか」
「おおい、ファルコ、私だ。凄い吹雪だったな、大丈夫か」
飛び出て来たファルコは、
「大丈夫かだと? とぼけた野郎だぜ。はっはは、そりゃあ、こっちのセリフだ。おまえこそ大丈夫か、隠遁の猟師、真理の狩人」
「むろんだ。なぜ、問うのか」
「昨晩、強烈な光が何度も山で閃いたというが、おまえは見ていないのか、何だ、何事もなかったのか」
「あゝ、そのことか。それを話しようと思って来たのさ、買い出しついでに」
「じゃ、来い。おい、飲むか」
そう言いながら、ポケットからウイスキーのスキニーボトルを出した。錫製だ。大きな手に小さい。
「あゝ、冷えたからな、戴くよ」
ぐいっと呷る。
一時間後。
「俺にそんな与太話を信じろというのか」
話半分も聞かないうちに、食堂の一角にあって、毛皮の掛かった安楽椅子が暖炉を囲むスペースで、肘掛けに肘を突き、ファルコは不機嫌な顔で言った。
ロネは尖った顎で笑う。
「人の反応というものは皆、同じようなものだな」
そして、皮肉な笑みを浮かべる。自分もそうだったと自嘲しながら。
そのシニカルな態度を見ると、ファルコは理由もなく、このニヒリストを信じたくなるのであった。
命の水、琥珀色の濃い酒精を呷る。
「ふ。
まあいい、かつての英雄が言うのだから信じてやろう」
「ありがたいな。信じてないようだが。それに、私は英雄ではない。英雄であったこともない。ただ、戦った。今、ただの世捨て人さ」
「ふん、俺もだ」
ファルコは太い親指で自分の鼻の頭を嬲った。
上機嫌だ。しかし、湯気の立つ薄暗い食堂の、温かく湿っぽいのに清潔清涼な空気の中、隅っこに坐り、虚空を眺めるような鋭い眼つきの男が気になった。
顎鬚や口髭や頬髯を少し伸ばし、髪は長くて芸術家風だ。眼は鋭いと言うか何かに憑かれたように滾っている。
慢心しているが、恐らく集中力は凄まじく、天才にありがちなタイプの一つだ、まあ、大概はただのおかしな奴だが。
ロネはそう独り言つ。
面白がるような表情でファルコが、
「気になるか、ロネ」
「ああ? いや、そうでもない。誰だ、あいつは」
「俺のところに雑多な彷徨人が食客になっているのは今に始まったことじゃないだろう。
啓蒙思想家や革命家や宗教裁判から逃れた科学者や魔女裁判から救出された女や工房を持たず注文主にも媚びない求道の芸術家たちさ」
「あいつはそのうちのどれなんだ?」
「芸術家だ。
神のような手腕の男さ。あまりに凄過ぎて悪魔だと訴えられた」
「どうせ僻んだどっかの工房の主だろう。ギルドを通じて裁判官を金で釣れるような」
「ま、そんなことだろうな。
ミハイルアンジェロっていうんだ。絵も彫刻も、そして建築もやる。詩文は美酒のようだ。天才さ」
「なるほど、欲しい才能だな」
「その降臨した神とやらのためにか」
「そうだ。御社を設計させてみたい」
「ふうん」
「ふうんじゃないぜ、お前も手を貸せ」
「いまさら、信仰なんて」
「お前ほどの男がそんなありきたりなことを。そんな小物じゃあるまい。
さあ、ファルコよ、お前は、いったい、何を惜しむか。
喪うものなど、今さらあるか。
魂の革命を生きた者よ、革命が世の常識の範疇にあると思うか。
思わぬなら、巫女騎士イシュタルーナの許へ来い」
ファルコは顎を摩った。
「だがな、イノーグと手を組むのは気に食わんな」
「山海の神のごときおまえが小さいことを言う。イノーグ族は滅んだ。今いるのは、哀れな少女の巫女騎士だ」
「ふん、泣き落としか。おまえこそ、おまえらしくもない。だが、俺も山の民だ。誇りある古代の民だ。山賊どもとは違う。
歴史と、戦士の魂がこの胸にある。
センチメンタリズムだと言われようが、構いやしない。なるほど、そう言われちゃあ、黙ってられないわな。わかった。行くさ。逝くとも」
ロネはにんまり微笑み、
「ついでと言っちゃ何だが、あの芸術家も連れて来られないかな」
晴れた山の厳しい傾斜、膝までも雪に埋もれながら歩み、二人は休憩時に、エールの小樽を傾ける。太陽はぎらぎらと反射していた。紺碧の空である。最後の数本の針葉樹を過ぎって、あと数百メートルほどというところ。ファルコが、
「あれか」
純白しかない世界で、それ以外の色彩があると、遠目でもあっても何となくわかるものであった。
急斜面の上方を見上げる。遠くを見ることにかけては、鷹の眼と同様によく見えるファルコの双眼には、枝を葺いただけの粗末な屋根の翳りが微かにわかったのだ。
ファルコはイシュタルーナに見えた。
聖句の金の刺青、蜥蜴の紋章、深紅の鎧兜。聖なる巫女騎士。
真っ直ぐ長い黒髪が腰を蔽い、眉の下で切り揃えられ、眦は切れ上がっている。凛々とした強いまなざしであった。
気負いも気後れもなく、じっとファルコを見つめている。『大したタマだな』と感心し、警戒し、心を粛し、なおも驚嘆した。
確かに、神懸かり的な異能を感じる。
到着と同時に、ロネがイシュタルーナにファルコを紹介した。スミスとミハイルアンジェロも。
イシュタルーナは彼らを休ませもせず、
「よく来たな。神兵軍団長ファルコ、副官ジョン・スミス。そして、偉大な芸術家ミハイルアンジェロ。
では、いゐりゃぬ神を拝め。それからだ」
ファルコとスミス、ミハイルアンジェロは驚いた。だが、巫女騎士は意に介さず、雪の塀に囲まれただけの、神の坐す聖なる石の場所に案内した。
ファルコは怪訝な表情を泛べ、鍛冶職人に目配せする。変わり者の芸術家も眼を丸くしている。これは奇天烈、奇妙なものだ、と。
ファルコが声を抑えずに言う、
「おい、おい、こりゃあ思った以上だ。実に、いかがわしいではないか」
スミスもうなずいた。
ミハイルアンジェロは何か想うように黙ったまま。空想を駈け廻らせるように。
雪の塀の南側の部分が約幅七十センチほど開いている。そこが出入り口らしいとは、ファルコにもわかった。深緑の針葉樹の枝を葺いた屋根が光を閉ざす。
暗くて中は見えない。
外から見る限りは、洞窟のようなその暗闇はまったくの静寂であった。
永遠の深淵、のように感じられた。底知れぬ宇宙の永久に涯の知られない深淵のように。無空をも超える無空のように。
唐突に、光燦が炸裂する。半跏坐のいゐりゃぬ神が双眸の瞼を上げたのである。光燦の烈しい即物性、光線が射貫くかのようであった。露骨なまでの物的な実在感覚を突きつけられた。狂裂なあざやかさ。太陽が面前に降りて来て、神々しい金属の光を放つかのようであった。
「おお、おお、おお、そんな、信じられない……」
神は立ち上がる。
石から降りた。
塀の内側は雪に光が乱反射し、網膜を灼く眩さで、神と自然石とが睿らかに晰らかとなる。
「あ、そんな、あ、来る、ぅわ、うわ」
雪の塀から出て来た。動く芸術、美のイデアをも超越するような、いや、それ以上だ。神聖であった。神の美しさは人の比ではない。燦めく麗しい美少女神の四肢、碧い瞳の冷厳な非情と、崇高の甚深微妙義。黄金の髪は太陽よりも眩く輝く。玲瓏なる女神と、粗野なる石との対比が尋常ではない鮮烈を生む。
畏怖は変じ、深い深い歓喜がファルコ・アルハンドロとジョン・スミスとミハイルアンジェロとを襲った。神経伝達物質ドーパミンが横溢した。
脳内の快楽物質が最高潮にあふれ噴出した。
浄化され、それはもっと深く深く、透明で、明晰で、清らかな、何よりも途方のなく深い静寂となった。
澄み切った甚深な静寂である激烈な快楽。喩えようもなく、どこまでも広大で無音なのに、勢いあふれ、宇宙の誕生のようですらあった。
これでしかない絶対の真実、正義を感じる。
「あゝ、言葉もない……、俺は生まれ変わったような気がするぞ、スミス」
三人ともすっかりは魂消ていた。
魂が解放された拡がりの感覚は、無際限であることに対する根源的な怖れを覚えさせるも、同時にさらさらとした清爽な喜悦をも感じさせる。
「あゝ、何てこったあ、怖ろしや、こりゃあ、飛んでもねえことです。旦那さま、震えます、感激です」
「俺も驚いたよ、スミス。いや、そんなもんじゃない、大変なことだ。稀有なことだ、いゐりゃぬ神が光臨したんだ、清らかな、爽やかな、澄み切った、清浄な……初々しい生命、あゝ、そうだ、生命は何と美しいことか。俺のニヒリズムもシニスムも死んだ」
そのように驚きを隠しきれないファルコの横で、ミハイルアンジェロは凄絶な神の啓示、天啓、上天から稲妻のように落ちたインスピレーションに打たれた者のようであった。
ここに、小さな奇蹟があった。実際、ファルコもジョン・スミスもミハイルアンジェロも、いゐりゃぬ神という神を知らなかった。しかし、いゐりゃぬという名が既知の名であるかのように、現在から過去へと遡って、先天的に脳髄に組み込まれ、彼らにとっての、既定の知識となっていた。
ロネはにやにやし、
「だから言っただろ、いゐりゃぬ神さ。こういうことさ。私は最初から、そう言ったはずだ、神だ、と」
ファルコは息を呑んで、ロネをじっと見つめた。
「何をしたらいい?」
ロネはにやにやしながら肩を竦め、
「わかってるだろ? また戦うのさ、革命のように」
ファルコは電撃に打たれたかのように、ジョン・スミスに命じ、
「ここに住むぞ、身の回りの物を持って来てくれ」
「し、承知いたしやした」
スミスを見送り、暫時、呆然としていたが、ふと気がつく。
ミハイルアンジェロが雪の社の周りを廻りながら思案している。
「ただの雪だ。これではこの一刹那しか持たない。いつしか他の雪と区別がなくなり、自然に同化してしまうか、溶けて消えてしまう。
淡く儚く幽けく脆い……これはこれで、素晴らしい芸術ではあるのだが」
一時的にどこかへ行っていたイシュタルーナが戻って来た。ラフポワを伴って。
「ラフポワ、彼が神兵軍団長ファルコだ。神将たるおまえの配下だ。よく面倒を看ろよ」
ラフポワは眼を丸くして驚いた。
「そんな無茶な、嫌だよ、無理だよ、莫迦なこと言わないで、イシュタルーナ、僕にできる訳ない。こんなに大きな、強そうな人。とても賢そうだよ。僕ができる訳ない」
しかし、ファルコは神妙に辞儀をした。
「是非もないこと。神の下、忠誠を誓います。身命を惜しまず働きます」
「やめてよ、僕、この人の召使ならやるけど、この人を部下にするなんて、無茶苦茶だよ、イシュタルーナ!」
ラフポワが逃げた後も、ファルコは神妙な顔で立ち尽くしていたが、ロネを振り返り、冷静を取り戻した顔で言う、
「ロネ、ともかくも俺はここで生活する。そうしてみなきゃ何もわからない。それが必要だ。何かがわかるだろう。生活が革命だ。日々が解脱だ」
ロネは可笑しそうな眼で、
「そうかもな」
「ふう、俺としたことが、小賢しいことを言ったな、ふん、笑いたきゃ、笑え、あゝ、何とでも言え」
「いいさ、神を見たんだ。そんな大袈裟な気分にもなるさ」
ロネの言葉を拒むように、額の前で手を振りながら、巨漢は嘆息し、
「もういい、わかったよ。だがな、取り敢えず、この〝祠〟モドキとやらを何とかしないか、兄弟。スミスが戻ってくるまでは、良い道具もないが、おまえの鉈かと、俺の斧で伐れる材木だけでもいいから、少しばかり、ましにしようぜ。なあ、おい。
これじゃ、あまりにも侘び寂が効き過ぎてるぜ。
完璧に〝冷え〟て〝凍え〟てやがる」
ロネは振り向いた。
「どうでしょう、イシュタルーナ」
「古来言う、『人、義しきとおもうことを為す善し』だ。大いに結構。衆善奉行(諸々の善きことを大切に心を込めて行う)の精神を以て為せ。
だが、〝味〟を台なしにするな。
ロゴスに従え、粗末で粗野なこの妙味には、真究竟真実の妙義があふれている」
ファルコは似合わない困った顔をし、口籠りつつ、
「む、なるほど。理解不能ですが、了解しました」
イシュタルーナはそんなことなど気にも留めず、屈託なくうなずき、
「そうか。期待するぞ、黄金の神兵軍団長」
そのとき、ミハイルアンジェロが言った。
「私に考えがあります」
イシュタルーナはじっと見つめたが、
「よし、わかった。ファルコよ、ミハイルアンジェロの考えるようになせ」
太い枝も、怪力ファルコは斧の一撃で、半ば折りながら、毟るように伐採した。枝も、暗濃緑の葉も落とさずに。
それらを交叉させ、雪の塀の上下前後左右を、丸ごと蔽った。あたかも、途轍もなく古い老樹のような、無為自然の権化のごとき、奇妙な木製のオブジェとも言うべき〝祠〟が出来上がった。
喩えるならば、数百年も経た巨木が朽ちて、基幹部分の洞が残ったかのような印象である。残存基部に蔦や蘖(孫生え)が密集したかのような。
このかたちは今も残る。
なお、この時以来、洞窟にあった聖なる壺もここに運ばれた。
いゐりゃぬ神に捧げられる。
イシュタルーナは感嘆した。
「見事だ。見事な景色だ。素晴らしいアイディアである。ミハイルアンジェロよ、実に神妙だ」
翌日、スミスが戻って来た。
「たまげたなあ、旦那、こりゃ、前衛芸術ってやつですかい?」
ファルコが腹を抱えて笑う。
「まあ、お前の眼から見たら、そんなもんだろーな」
「ちんぷんかんぷんでっさあ」
スミスが道具を運んでくると、ミハイルアンジェロは言った、
「さあ、原初的な御社を作ろう」
さまざまな道具がある。
むろん、ジョン・スミスだけでは運べない。
四人の若者を伴っている。ファルコの食客たちだ。一人ひとり名乗った。
「イヴァン・オクタヴィウスと言います。奨学金をもらっていた神学生でしたが、友人の讒訴に遭い、退学させられました。
行く当てもなく、流れ流れて、ファルコの農場に辿り着きました。数多い彼の食客のうちの一人です」
被っていた頭巾を取ると、濃い黒髪を豊かに湛えた青年であった。肌は初々しいが、鬚を蓄え、威厳があった。
次は、
「へい、自分は棟梁アーキと言います。無名の頭領の下で働いていましたが、石工組合の新人賞を取ったのが運の尽き、仲間内の悪意に遭い、追放の身の上。いや、人の恨み妬みは怖いものです。流浪の末、ファルコの農場の大工になりました」
巻き毛の巨漢だった。二メートル半はある。眼は恐ろしいくらいにぎょろっとしていた。アトラスがいたらこんな感じか。
その次は、瘠せて小柄な男だった。
「ガルニエ・パレスと申します。自分は建具師でしたが、女に関する喧嘩が原因で街を逃げ、ファルコの農場に匿われていました。伝統的な意匠に通暁していると自負してます。立派なオペラ座を作るのが夢です」
時計職人のように精密な仕事をしそうな、繊細な感じの顔立ちで、服の生地や仕立ては良い。零落した貴族の末裔であった。
最後に進み出て、しなやかな辞儀する男は、
「絵描きです。ファルコに雇われていましたレオヴィンチ・プラトンと言います。図面も引けます。設計図を作れます。自分は商売としての芸術に興味がありません」
優男で、どことなく、ラファエロ・サンティに似ていた。だが、後に内面が学者肌であることがわかる。
イシュタルーナは真実義を胸に抱く彼らの魂胆を見透かし、双眸に清爽明晰の精神があることに感心した。信義を貫く男たちだ。
「善き哉。栄えあれ、黄金の聖者たちよ、黄金の聖戦士たちよ。
ファルコの配下として、存分に働け。おまえたちを見れば、生命には意義があることが叡らかだ。
その双眸に耀く諸々の天叡よ、それらによって晰かだ。その透明純粋な、深くも明るい清澄さによって」
四人は〝祠〟の前に案内され、まずその外観に驚き、中に入って、いゐりゃぬ神を拝したときは、雷に貫かれた者のように魂魄と心身が震え、崇高感に激しく打たれた。彼らはイシュタルーナに真剣に懇願し、四人が声をそろえ、
「どうしてもしなければなりません。いえ、このままではいけません、完成へ、もっと近づけなければなりません。
Λόγος (ロゴス)に聴従し、この魂に先天的に嵌め込まれた規範、調和、黄金比、基準尺度に遵って、真実へと、高邁なるものへと設計し直さなければなりません。神が我ら人間の魂に与えた美と神聖への、この感覚が過ちでないとするならば」
イヴァンが言う、
「この自然の風物のような御社、〝祠〟には、景色があります、たとえば、茶陶で言うところの景色です。侘び寂びに通じます。小孔や貫入、釉薬の垂れや火襷、土あぢなどが做す自然の景色のような景色で、奥に侘び寂びを含ませています。それに似ているのです」
小柄な建具師ガルニエが言う、
「これを見て思うのは、崇高過ぎるってことです。
良いアイディアですが、大衆向けではありません。読み手を拒む小説のようです。
少し地に降りても良いかと」
しなやかな優男画家レオヴィンチが、
「しかしながら、この〝風味〟には、意味が在ります。風味は生かします。遺します。
その上で、神と大衆のお悦びになるデザインのセンスをところどころに鏤めましょう。自然な木材を使った、人為を思わせない、偶然を基本設計とします。微妙な角度、曲線の妙や、形態の不可思議を交響させ、美しいハルモニアを生み出します」
ミハイルアンジェロが相槌を打つ。
「そのとおりだ。
これは人間の計算を超えた、神なる生きた自然の、捉え難い、複雑系的なスタイルを模した様式の装飾、古代ギリシアのコリント式の柱頭のように美しい様式だ」
ミハイルアンジェロ(設計)とファルコ(組み立て)が作った祠をそのまま覆うような御社を作り始める。
それぞれの伎倆と持ち味を生かし、最初のアイディアにあった〝自然の侘と寂〟と調和するよう、風味を損なわぬよう、生かし残しつつ、完全な木製の神社を作り上げて、最初の祠をそのまま丸ごとケースのように覆い、荘厳した。
葉のついたままの枝を籬のように粗く編んだような透かし彫りや、枝の繁茂にも見える虹梁などがその特徴をよく表す。
神学生イヴァンは、
「儀式には香炉がなくては。
神は香りをお召し上がりになるのだから。精巧な鋳物の香炉を作った方が良い」
傘付きの網目模様から煙の立つ香炉を発案し、レオヴィンチがデザイン及び設計、アーキとガルニエが鋳型を作り、ミハイルアンジェロがさらに鋳型で作った装飾を加え、荘厳した。十二の香炉ができた。
これらが終わっても、さらに材木を集め、加工する。そのために、近場のまばらな林ばかりではなく、さらに山を下って針葉樹を求めた。
木目も鮮やかな板を作り、繊細な線彫りの障壁画を描いて、部屋を仕切る壁とした。
イヴァンの発案が元となるその図柄については、ガルニエが大いに意見し、レオヴィンチとミハイルアンジェロが相談した結果、
「敢えて、彩色をしない。線のみ。線描だ」
アーキが床板を張った。床にも神獣、植物、海の生き物、山の生き物の線描図による生命の起源が施された。
装飾的な龍彫の梁を渡す。嵌木細工の天井を作った。木彫りの、眼につかない、小さな神獣や神像の彫刻を置く。
御社の入り口の外側に、四つの柱を立て、その上部に軽易な枝葺きの屋根をつけ、礼拝用の祭壇を設置する。奥には入らず、礼拝するためだ。
巫女が神を拝するための、最も原初的な、壁のない、小さな拝殿というわけだ。
そこにも香炉を置く。
「素晴らしい」
巫女騎士は讃嘆した。原初的な芸術の歓喜でもある。
「真の礼拝が可能となった。初期の頃を思えば、何という進捗か。人は集まれば、偉大な仕事ができる。しかし又、衆とは、多くの困難と労苦と複雑化の予兆でもあるが」
束の間、過ぎった。暗雲の想いが。
イシュタルーナはジョン・スミスを呼び止める。
「鍛冶屋、用事がある」
「何でございましょうか」
「剣を鍛えて欲しい。今、妾が使っている聖剣を材料に使ってもよい。渡しておく」
「はい、直ちに取り掛かります」
「それから、ミハイルアンジェロに浮彫や象嵌などのデザインをやるよう伝えてくれ」
「剣にいかようなものを」
「角のある原蛇。
自らの尾を咬み、円環を成すウロボロスだ。円環の真ん中には、彝ヰ啊ゑえ烏乎甕神、眞究竟神の天なる皇帝神様の御徴、聖の聖なる真聖の御徴、『I』『彝』を」
「素晴らしいことです。稀有なことです。
ただし、もしそうであるなら、巫女騎士様の聖なる鞘も、お作りし直す必要がありましょう」
「さもありなん。
今のような拵えではないもの、荘厳していないものにして欲しい。それはレオヴィンチにも相談してくれ」
「仕上がりましたら、お持ちいたします」
「頼んだぞ。完成した暁には、いゐりゃぬ神の祝福をその剣に与える。その剣の刃は、いゐりゃぬ神の双眸の光そのままの力を分与されるであろう。
それゆえ、〝太陽の剣〟という名をつけるつもりだ。
いゐりゃぬ神へ身命を捧ぐ祈りのすべて、神が人に与えられたままの希いのすべて、睿らかさのすべてを込める。必ずあらねばならない」
その頃、見違えるようになった御社を見て、ラフポワは飛び上がって歓び、ただ単純明快に満ち足りて、感無量という表情であった。
「萬歳、萬歳。萬々歳。いやあ、凄いやあ。もう、びっくりだよー。ほんとに。
あゝ、何ってことだろう。僕らが作った雪の塀が、立派な社になった……、木製の神社に変わった。
素晴らしいよ。讃えあれ、栄えあれ」
その姿を見つけて、黄金の五人の聖者たちは神将に平伏する。ラフポワは困った顔をした。
「直ちに、巫女騎士様と神将様の居宅も整えまする」
それは速やかに行われた。
イシュタルーナが洞窟は瞑想に適していると主張したので、洞窟の出入り口に住まいを建て、住まいの奥座敷を洞窟とした。
質素な山小屋に過ぎないが、暖炉のついた小さな一つの居間と二つの寝室があり、生まれて初めて個室を持ったラフポワは驚喜した。
「最高だよ」
「お前たちの住まう場所を作れ」
イシュタルーナの命令により、臣ロネと、神兵軍団長ファルコ、副官ジョン・スミス、そして、ミハイルアンジェロを筆頭とする五人の聖者の住む丸太小屋が即席で作られた。
「我々は十分です。巫女様の斎戒沐浴すべき次は湯殿を作りましょう」
しかし、日々何かと忙しくて捗らず、もう少し人数が欲しいところであった。
純白の山脈、紺碧の空。
早朝の狩りを終えて、獲物を血抜きのために吊るすと、鍛冶場に寄った。
「おーい、スミス、いるか?」
融けた砂鉄を冷え固まり切らぬうちに金槌で打つ。鍛えて鉄とする。一瞬も気を許せない。集中していた。音が激しいせいもあり、ロネの声も聞こえないらしい。
ジョン・スミスは鎧兜や剣や楯の製作に余念がなかった。あれ以来、ファルコの農場の工房は数人の工人を残し、あとはこちらへ移動している。
このため、鍛治専用の粗末な小屋を洞窟の少し上に建てた。音が上に響くと考えていたからである。
できた武具や防具はイシュタルーナの下に運ばれ、神の御魂込めが行われる。魂が込められた武具や武具は次々と、神の剣、神の鎧兜、神の楯となっていった。
イシュタルーナが来て、唐突に言う。
「そろそろ、来るぞ」
皆一様に驚いた。
「え、何者がですか」
遠望するが、見えない。
「前にも言った。銀の兵だ。我らの衛兵だ」
そう言って笑う。ようやく微かに見え始めた。イシュタルーナはどうして知っていたのだろう。神のお告げか。
「あ、見えてきました、あれは」
急斜面を大羚羊に乗った騎兵隊十数騎が歩兵を率いて駈け上がって来ていた。ロネが眼窩に手を翳して遠望し、
「どうやら、エミイシ族の正規軍ではないようですね。彼らは最下層の傭兵です。傭兵でも、王の軍よりも勇名を馳せらせるゲ・クラン殿の兵のような鋼鐵の兵もいますが、彼らは山賊上がりの粗野な連中ですよ。
面倒臭い仕事や、名誉に関係のない仕事をしています。恐らく、斥候、又は残党狩りの調査隊でしょう。
あの、道案内をしているのは、ムソルグ村の者のようですね」
イシュタルーナは言った。
「ムソルグ村は我がイノーグに属する村の一つだった……裏切りも是非ないこと、弱き者たちは。
虎に追われて逃げるカモシカには逃げることが闘いのなのだ。
萬象は萬のかたちを持ち、萬の価値観が蔓延り、萬の属性を帯びて萬の本質を真奥に据える。
さあ、月の属性を放て。
いゐりゃぬ神の臣にして、月の弓を持つ黄金の聖戦士よ。
今こそ神の息吹を浴びた矢の力を試せ」
ロネは驚いた顔をしたが、頷いて弓と矢筒とを手に取った(イシュタルーナが用意していた)。
月の弓を使うのは、初めてだった。狩りでは普通の梓弓を使う。
矢を筒から抜く。
「え」
鏃は神々しくも、恐るべき殺戮の光をギラギラと輝かせた。精妙な文様の金具で聖妙に装飾されている。矢羽は青鸞の羽で鮮やかであった。重い。ロネは息を呑んだ。うまく飛ぶだろうか。
イシュタルーナは強く命じた。
「射よ」
「しかし、敵との距離は、まだ一キロメートル以上も距離があります。いや、二キロメートル近い」
「射よ」
ロネは有無もなく月の弓を構える。太い弦は軽々と引けた。
「はい」
弦から手を離す。重い矢は音よりも速く飛ぶ。光を散らして燃え、彗星のようであった。風を切る唸りの凄まじさ。重さを感じさせぬ。しかも、途方もない飛距離だ。
「ぅわああああああ」
ミサイルのような矢が兵五人を射殺す。一人を貫通して、二人目の左を剥ぎ取り、三人目の右を剥ぎ取り、四人目を貫通、五人目も貫通した。五人目は貫通というよりは、八つに裂けてしまった。斥候騎兵らは止まって、震え上がった。
「何だ、何が起こったんだ?」
「矢? まるで、大槍だ」
「どこから、こんなに大きなものが、し、信じられない……」
射たロネすらも震え上がってしまった。
標的となった人間たちは言うまでもない。
「ひええ、ひええ」
「何だ、こりゃあ、信じられない!」
愕然とし、ロネは次が撃てなかった。
イシュタルーナが叱咤する。
「何をしている。早く射よ」
「は、はい」
二本目の矢は空気との摩擦で引火し、炎で七人を斃した。
「バリスタよりも遙かに凄い」
ロネは思わず唸った。
バリスタとは、古代の武器の名称で、大きな弩のような装置を用いて槍を四百メートルも飛ばし、射られた人間がそのまま背後の木に突き刺さるほどの威力を持っている。それを桁違いに凌ぐ凄さであった。
傭兵たちは喚いた。
「ダメだ、逃げろ、堪らん」
「ひええ、た、た、助けてくれえ」
三本目の矢が逃げる兵士たちを風圧で吹き飛ばし、九名を粉砕して肉片とする。
「待ってくれ、降参だ、赦してくれ」
ハイエナのような傭兵も、逃げられないことを悟った。生き残った傭兵一名と農民三名は平伏する。
ロネはイシュタルーナを振り向いた。
「降参と言ってます。赦したいのですが、よいですか」
「むろんだ。殺しては守衛にならん」
その時だ。
少女神いゐりゃぬが言葉を発した。
「さようなことはない」
「え、いゐりゃぬ神よ、それは」
イシュタルーナは解しかねるという意外の表情をし、神なる射手となったロネは、
「殲滅せよとのことでしょうか」
人の問いに応えず、碧き双眸が燃える。
初々しき孅さの、か細い滑らかな四肢が白銀に輝いた。すると、兵の屍が甦る。肉片もそれ自体が蠢いて集合し、人体を構築した。
「おお」
あまりの奇蹟に、敵も味方も驚愕する。
甦った二十一人の兵士たちは自分たちの手を見、足を見て、眼を丸くし、喜ぶ余裕さえなく、信じられぬという表情で震え慄いていた。
イシュタルーナは咳払いし、
「なるほど、そういうことか、ううぬ。いゐりゃぬ神はまさに自由自在、自在無礙なること、まさに無際限だ」
歩み寄った。
距離があるので、兵たちの近くに行くまでには、少々時間がかかったが、彼らはもう逃げることも忘れ、怯え切って身動きすらできなかった。見栄も強欲も失せて、天然自然のまま、慄き怯えている。特に甦った者たちは死の国を見て来たので、日常の価値観などぶっ飛んでいた。
近くまで来ると、イシュタルーナは言う、
「おまえたちに、いゐりゃぬ神の守衛を命ずる。もし逆らうなら、大したもんだ、妾にもできない。世界一の蛮勇者と呼んでやろう。
そう呼ばれたいか?」
傭兵と村人たちは平伏し、哭くように叫んだ。
「滅相もありません、どうか、どうか、お赦しを」
イシュタルーナは苦笑した。
「よろしい、おまえたちは実際、幸運を手中にしたのだ。今日から、いゐりゃぬ女神の聖なる兵だ」
「は、は、は、はい」
いつの間にかついて来たラフポワも言葉を添える。
「そうだよ、僕も一番惨めな兵士だったけれど、ずいぶん、よくなって、今は最高に幸せだよ」
イシュタルーナはラフポワの言葉など意にも留めず、
「傭兵よ、おまえたちのその薄い革鎧、土に臥して転戦を続け、泥だらけに擦れ、傷だらけだ。不浄な血と汗を聖化しよう。聖なる血と汗に変えようぞ。
裏切りの村人よ、尊き労働の証である着古し汚れた農作業服をまとう者たちよ、それもまた、聖化しようぞ。弱き者たち、小さき者たちは裏切る。やむなし。
だが、喜べ。生存の不安は消えた。もはや、飢えることもなく、凍えることも、蔑まれることもない」
聖咒を誦す。
革鎧は銀に輝き、チュニックや外套も同じく赫く。
人々の表情も、自信と尊厳と誇りに満ち、何百万年もサバンナの王者であった獅子のごとくであった。
あゝ、獅子の鷹揚に比べれば、わずか数万年、大地の勝者となったばかりの人間の、何と不安に満ちて生きていることか。燦然たる勝利者の意気が遺伝子に刻まれるには、何百万年もの歳月が必要なのである。
だが、銀の兵と呼ばれる彼らは、それを手に入れた。
イシュタルーナが粛然と言う、
「防衛せよ、真理は勇者によって守られるべきなのだ、おまえたちを銀の兵とする。生き続けることの苦しみのために藻掻いて足掻き、一度は捨ててしまった誇りを取り戻せ。
いゐりゃぬ神のために自らを崇め、勇士として正義を保持せよ」
銀の兵となった者たちは見違えるように勇ましかったばかりではない。身体も大きくなったように見えた。銀に燃える剣を挙げ、
「イヤハレ、ハレハレ、イヤー、イェイ、イェイサー」
歓呼する。
「驚くべきことだ、稀有なこと、奇蹟だ。恐らく時代が変わるのであろう。魂の革命が起こる。新たな地平は崩壊の始まりでもある。春は夏の始まりでもあるが、秋を孕み、冬を予告する。
因縁生起、万物は流転する。革命よ、星が廻るように。遷移しないものはない。諸行は無常だ」
ロネは嘆息した。
「ふん」
イシュタルーナはそんな憂慮と希望の綯い交ぜをつまらぬことと鼻先で笑い、御社の御前に、番小屋を作るように銀の兵たちへ指示したが、兵の一人が、
「巫女騎士様、お言葉ですが、番小屋を作る前に作るべきは塀です」
他の者も、
「そうです、御社と〝拝殿〟をぐるりと囲む、本当の塀があるべきだと思います。番小屋はその外側に附すべきものですから」
銀の兵たちは生れて初めて味わう自由を噛み締め、生命を発動して生き生きとし、生まれいずるさまざまな想いを言葉にして発案し、皆が自主的に行動するも、
「棟梁が必要だ。原理なくして、形相はない」
「それは引き受けよう」
五人の黄金の聖者たちが来てそう言った。
「私たちが君たちの意見を聴き、よく導こう。君たちはロゴスの声に聴従すべく心を清ませ」
拍手喝采。拍手は魂を鼓舞する。
ロネもうなずき、
「そのとおりだ。私は私で、自らのロゴスに聴従しよう」
弓を持って、狩りへと出た。月の弓ではなく、普通の弓を持って。
イシュタルーナは森に入った者たちとともに森に入り、樹木を伐採する前に咒を唱える。銀の兵たちは詠唱の後に伐った。
次に、それを引き摺り集め、半ば凍った原木で、御社と拝殿を囲む塀を作る。
塀には小さな門(入り口)を工作し、その傍らに番小屋を設けた。
原木はほぼ素材のままで、森林の威厳を維持している。
黄金の聖者たちが観照し、賛嘆を込めて祝福した。
翌日、ロネが狩りへ行く前に寄る。
番小屋の番兵が出て来て、辞儀をした。銀の鎧が燦めき、王を護る衛兵のようだ。いや、むしろ、将軍のようですらもあった。
「一夜で、さらに生まれ変わったな」
イシュタルーナも朝の礼拝を終えたのであろう。塀のうちから、颯爽と出て来た。凛たる巫女騎士はロネを見て、軽く頷く。
まさしく大神殿の巫女のようになっていた。着ていた衣も鎧も、いつしか更新され、白く聖なる衣に白き金の鎧兜となっている。
ロネは御社の拝殿の手前に膝を突いた。神に黙祷する。清々しい気分だ。
そっと覗くと、御社の中の〝祠〟の中は暗く、何も見えない。だが、そこには紛れもなく、いゐりゃぬ神が鎮座していた。
双眸を感じる。崇高と敬虔と畏怖とが同時に胸を襲った。生命が昂揚し、涵養され、静謐と清浄とを満たす。
他の人々も動き出した。
銀の兵たちは最初の夜はいつもように野営の簡素なキャンプを張ったが、丸太小屋を作り始める。
凛々しく誇らしげだった。
ロネは奇妙な丸太小屋に歩み寄って、銀の兵たちに尋ねた。
「これはなんだ」
「俺たちの住居です。
高層にして、物見も兼ねるようにしたい。次に城壁をつくり、防衛のしっかりした立派な村にしたい」
そう応えたのはゾーイという若者で、ムソルグ村の農夫であった男だ。
利発そうであるばかりでなく、抜け目のない、狡猾そうな表情ではあるが、後で聞いた話では、春になったら、農作業の手伝いで帰りたい、ついては「イシュタルーナ様が赦してくれるかどうか」を心配しているという、意外に親孝行な者であった。里には老いた父母しかいないという。
しかし、取り敢えず、今は神々しくて、憂慮も苦慮もしている様子はなかった。そのうち、家族を呼び寄せられるようになるさ、だが、今は未だ言わないでおこう。ロネはそう思った。さて。
数日後に完成し、銀の兵たちの住居を兼ねた物見櫓となる。祠の塀の入り口から真っ直ぐ十数メートル南の位置にあり、高さは十四メートル。四階建て。
二つの木製の塔は、いゐりゃぬ神の祠の入り口(小門)から見て、左が東塔と呼ばれ、右が西塔と呼ばれた。
数日後に、二十五人の銀兵たちがそこに潜み棲む。来る者たちを見張った。
二つの塔は御社の塀の外側に建つ、大門柱のように見えた。門柱と言っても、周壁がないので、象徴的な門でしかなかったが。
塔(住居兼物見櫓とも言うべきか)の完成後、二十五人の銀の兵のうち、十四名が周壁の建設にあたった。
四名は狩猟隊となり、鹿やウサギやキツネや山鳥を捕らえる。
衣服係一名は生皮を処理し、衣服とした。
調理人二名は獲物を調理して奉献する。
祭祀係一名がイシュタルーナを介助し、いゐりゃぬ神への献上をした。献上の暫時後は神前から下げ、皆の膳に供する。
そのために、祭器とともに、食膳のための器や匙などを一名が作る。
他二名は臨機応変に雑事等々を行った。
物資は皆無に等しいが、でき得る限りことを行う。
「聖の聖なる真聖の巫女騎士と、神将に相応しいお住まいを」
粗末であった洞窟前の居宅は少しずつ増改築され、やがて、五人の聖者の居宅と連結した。
イシュタルーナの坐する場所には雪虎の毛皮が四重に敷かれ、荘厳された。木の匙と石の器でスープを啜る。神将も同様だ。炉は拡大された。大いに暖かくなった。
ラフポワの悦びは言うまでもない。
石を刳り抜いて作られ、イルカや海獣の浮彫の施された湯船が炎で熱され、温泉水を満たされて、運ばれた。
「巫女騎士様、どうか斎戒沐浴にお使いください、一日に何度でも清らかな温泉を運ばせますから」
イヴァンがそう言った。イシュタルーナはうなずき、
「承知、これが必要と思っていた」
鎧を外し、衣を脱ぎ、浸かる。霑り潤い涵されるのであった。
禁欲的な巫女騎士さえも感慨深く、
「ふむ。善き哉。生活が戻り来たるや。天然自然なる地の鹽に幸いあれ」
神聖の上にも聖の聖なる真究竟の真実義たる太陽の剣が完成した。
究真究極に真なる儀式が執り行われる。聖句が嘉され、秘祭密儀が荘厳に奉ぜられ、聖なる器に酒や贄が盛られた。
聖なる意匠を凝らした螺鈿や金銀や蒔絵による拵えの鞘(荘厳しないという指示はイヴァンが大いに反対し、このようになった)から、イシュタルーナが抜剣する。
いゐりゃぬ神が開眼し、双眸が青く燃え上がった。
その光によって剣は神化し、角ある原蛇の鱗の一枚一枚までもが精緻に浮き上がる。
聖なる彝の御徴が細密緻密で繁縟な文様(彫りと象嵌と刃紋とで、この文様を巧みに再現するという超絶技巧。強度や靭度は問題なく、確保されている)に囲まれて聖化されていた。
生き生きとした鮮やかな生命の睿らかさを明晰判明にする。
「おおっ」
誰もが感嘆した。燦然たる輝きで、世界中が蔽われ、一瞬、何も見えなくなったのである。
山が揺れ、雲なくも、甘露の雨が降った。香り高い、白檀香の匂いがする。
「未だ空の位階にある剣であるが、いずれ、大地をも裂く剣となろう。
真理のすべてがこの刃に刻まれている。これが大義だ。考概ではない、実在だ。生々しく実在する義だ。実存だ。切実な事実だ」
二日後。大斧で、太い枯れ枝を割って、薪を作っていたファルコ。
「旦那さま、大変だ」
振り返ると、羊飼いのボッカだった。
「おお。どうした。何で、ここまで来たんだ」
「緊急な事態で、それで、この時期、暇な俺が来たんだ」
「火急なのかどうかわからない口上だな。おい、何があったかを、まずは言え。物事はな、結論から言うもんだ」
ファルコは最初、笑ったが、ボッカが、
「エミイシの大将が武装した百人近い兵を率いて上がって来たんだ。イノーグ村占領軍の一部らしかったよ。恐ろしいことだ」
ファルコはふふんと笑いつつ、顔を引き締め、
「早速、来たか」
エミイシの将が九十九人の武装兵を率いていた。
イシュタルーナを探しに来た訳ではない。村人からのさまざまな怪情報(怪しい光が見えた、など)が寄せられるようになったので、統治者として、一応様子を見に来たのである。
兵を率いる将はイノーグの奇襲遠征軍を任されたマハルコ・エミイシ。ソシン・エミイシの弟だ。
イルカの町からイノーグ村までの二十数キロメートルをわずか四十分で、野を越え、山を越えて駈け(予め、支度はしてあった)、奇襲を成功させた早駈けの英雄である。
然れども、その彼とても、斥候と調査を兼ねた隊が撃退されたなどとは夢にも思っていなかった。
帰還のないことを不思議とは思っていたが、それを気にする余裕はない。名誉も忠誠心もない、最下位の傭兵である。もし、逃亡したなら、いずれ懲罰するとしても、今は兵たちに知られない方がよい。マハルコの想いも、その程度でしかなかった。
現在の彼の中心的な仕事は奇襲当時とは変わっている。
戦の直後は、廃墟となったイノーグ族の館を中心とするイノーグ村周辺の残党狩りや物資の略奪であったが、治安回復の布告以後は、兵士の賞罰、難民の慰撫、戦後統治へと移行していた。
イノーグの村に住んでいた者たちは、平民の女こどもまでも殺戮したが、その周辺の領地の農民らには、手を出していない。彼らは相変わらず、村の周辺のあちこちに散在し、エミイシの軍の様子を見ながら、しぶとく生きている。
農民を安堵させ、吸収し、新たな統治下に置くことが、奇襲軍の新たな仕事となっていたのであった。
暫時の法を布き、懲罰を明らかにして治安を維持、これからこの征服した土地の者たちを領民としなければならない。戦後の展開まで見込んだ上で、討伐将軍に選任され、派遣されたマハルコであった。
麓の村人の案内で、最近、異様な動きがあるというイノーグ山を登るのも、そんな仕事の一つである。
「不思議な神光りがありまして……」
「ふむ」
無知蒙昧な民たちめ、マハルコはそう思いながらも、派手な帽子を斜めに気取ってかぶり、太った大きな体を揺すぶって、たっぷりある髭を捻り、不機嫌そうにうなずくのであった。
ところが、山頂近く。
「何だ、これは」
塔を、無意味な門柱にも似たそれを見上げて、呆れた。
「イノーグの連中か? こんな者を作る人数はいないはずだが。古老ヴォーンの末娘、高名な巫女騎士イシュタルーナが残るばかりのはず」
護衛の騎士も訝しがり、
「しかし、イシュタルーナは外国に逃亡したのではなかったのでしょうか。よもや、イノーグの者たちがこんな無意味なことをするとは思えませんが」
だが、そこには粗末な襤褸切れ同然ながらも、いゐりゃぬ神の御徴の旗と、イノーグの紋の旗が風にはためいていた。
「我らの知らぬ残党をかき集めたのか……」
よく見ると、門柱の十数メートル奥に、自然な樹木のままの塀がある。塀の正面は開いていて奇妙な樹木の工作物を垣間見ることができた。
さらに、呆れたのは、小さな少年が独りで、とことこと歩いてきたことだ。これもイノーグの眷属? だとしたら、降参を言いに来たのか?
「小僧、何だ、おまえは」
来た少年は言う、
「ラフポワだよ。ねえ、降参しておくれよ」
驚きと笑いで軍団はどよめいた。
「あははは、こりゃ、ぶったまげたあ、いや、あははは、物凄い勇者だ」
ラフポワは困った顔で立っている。
「勇者なんてとんでもない、僕は全然、強くないよ。ただの神将だよ」
困惑したラフポワを見て腹を抱えて笑う兵士が指差しながら、
「あはは、こりゃあ、ぶっ魂消た、神将様だとよ!」
その様子を東西の塔にこもった二十五人の銀兵は固唾を呑んで見守っていた。
すべてイシュタルーナに命ぜられて、そうしていた。歩むラフポワも、である。
神将少年はさらにとことこと進み出でて、
「あ、あのー、止めた方がいいと思うよ。これ、いゐりゃぬ神の双眸の光輝を浴びたトネリコの枝が鉄剣になったっていう変なもので、雷霆神剣っていうものなんだけど」
「ふざけるな、図に乗りおって、こどもとて容赦するな、者ども、ぶちのめせ」
「そんなあ」
ラフポワは仕方なく剣を抜いた。
霹靂が轟き、八岐大蛇のように八つの岐に分かれた複数の雷霆となって、九十七名の兵を巻き込み、焼き尽くす。
生き残ったマハルコと二人の兵たちは恥も外聞もなく平伏し、
「うわわ、命ばかりはお助けを」
「じゃ、皆さん、いゐりゃぬ神に仕えてください」
「皆、死にました」
「そうですか、いや、そうでしたよね、それでも、たぶん、彼らもお仕えできそうな気がします」
「え」
そう言った途端、九十七人は生き返った。
「こんなことができるなんて、信じられない、いゐりゃぬ神とは! 知らなかった! いゐりゃぬ神か、あゝ、俺たちは何という愚かなことをしてしまったのか、いゐりゃぬ神に楯突くなんて、すぐにも兄を諫めよう」
イシュタルーナが出て来て悪鬼羅刹すらも泣くほどの、容赦のない怖ろしい形相でにらむ。
「おまえは直截的な殺戮者であった。現場で虐殺を行ったのは、おまえだ。
だが、妾はソシンを憎悪する。おまえは手足に過ぎない。ソシンを第一に裁く。
いつの時代も、庶民である兵隊に罪はない。そもそも、我が父とソシンとの間に因縁があった。
それゆえ、逝くなら、逝くがよい。直ちに逝け」
マハルコは兵をその場に置き、大羚羊を駈って、急ぎ帰った。まずは占領軍本部に行くと、ざっと概略を話し、しっかり見張れ、統治せよ、と言い遺してから、エミイシの町イルカへ早駈ける、疾風のごとく。
さて、イノーグの山上に残され、茫然自失の兵たち九十九人に、イシュタルーナは命じた。
「さて、おまえたちは青銅の兵だ。その誇りを持て、その尊厳を。
大いなる黎明よ。
お前たちはお前たちよりも先に、いゐりゃぬ神のしもべとなった銀の兵たちの下で働け。
銀の兵たちとお前たち聖堂の兵たちとで、五人組を作れ。それが伍(五人一組、軍隊の最小単位)だ。
二十五名の銀の兵よ、お前たちは伍の隊長となれ。それが伍長だ。
青銅の兵は四人ずつ、一人の銀の兵に従え。
すなわち、一つの伍には必ず一人の銀兵がいて、伍長となり、伍を従えるのだ。二十五隊の伍がここに生誕するのだ。
そして、五つの伍隊を束ねて一人の黄金の聖者が率いる。
そういう組織とする。
おっと、マハルコがいないから、一組だけ青銅兵三人の組ができるが、そこはしばし待て。いずれ、帰って来る。
いずれにせよ、組織は大いに拡大した。
真究竟真実義を讃えよ、真理は理解するものではない。供物を集めよ。いゐりゃぬ神に仕える者たちよ。
汝らの居所を築き、狩猟採取し、供物とおのれの食糧を収集せよ。
伍長たる銀の兵たちの言葉に従え。天然理なる自然の声に聴従せよ、真なる声に聴従せよ、イデアの理法なるロゴスに聴従せよ」
異を言う青銅兵がいようはずもない。
「はい、直ちに、只今!」
命懸けとはこれを言うのか、と思うほど、必死の応答であった。
銀の兵たちは初めての部下に戸惑っていたが、まんざらでもない表情である。ゾーイなどは、手慣れた感じで指示を出し、
「皆、どうだ、御社をさらに荘厳させるんだ。
いゐりゃぬ神の大神社を構築しよう、これだけ人数がいるんだ。何でもできるぜ。それぞれの伍で、役割分担しよう。
おい、そこのおまえ、何だ? 俺に何か用か?」
「シュウゼイだ、忘れたか、ゾーイ、おまえの村に徴税に行っただろ」
元徴税官シュウゼイは、ちょっと前なら、「バカ野郎、この俺様を忘れたか」と怒鳴るところだが、今の立場・状況では『銀の兵』様に向かって、そんなことは言えない。
銀の兵という存在の威が壓となって迫り、控えめな言葉でしか物申せない。
ゾーイは冷厳と睥睨した。
「知っている。よくもこの俺に声を掛けられたな。いい度胸だ。この状況で」
シュウゼイは、あゝ、しまったっ、と思ったが、もう遅い。
「いや、何、その節はいろいろと」
「そうさ、良く知ってるさ、忘れもしない、するものか、この地獄野郎、俺の家は父がいなくて、母が病弱で少し猶予をと頼んだが、おまえは容赦しなかった」
「あゝ、赦してくれ、役目だったんだ、むろん、そんなつもりじゃなかったんだ、皆、やっていたことだ、俺だけじゃない、時代だ、役人の哀しさなんだ」
加害者とは、往々にして自分のしたことを大したこととは思っていなくて、むしろ、自分はまあまあ善人な方だなどと思っていたり、当然のように普通の人間だなどと思っていたりもするから滑稽である。人間という者どもは。
「そうかな。マハルコの占領地政策は懐柔策だった。おまえは自分の成績という、私欲のために、我が家を不幸にした」
「あゝ、赦してくれ、こんなことになるとは思わなかった」
「どういう意味だ。こんなことにならなければ、謝りもしなかったという訳だ。立派な後悔と謝罪だな」
「いや、そういう意味じゃなくて、いや、いや、本当に、そうじゃなくて、口が勝手に、どうか、ゾーイ様」
そんなやり取りがそこかしこで行われていた。横眼で眺めながら、イシュタルーナは愉快を感じる。このような結果は当然であった。戦いの場の先駈者は皆、下っ端で、真打は後から来るものだ。ところが、イシュタルーナの下では、ここへ来た順に上位となる。
逆転が起こるのは必然であった。
ここに来る以前は、威張っていた者たちがかつて踏み躙っていた者たちに今は虐げられる。これを欣快と言わずして、何を欣快と言うべきか。今後も、こういうことが続くであろう。人間は自らの車輪が踏み躙った轍に嵌まるのである。
恨み、復讐、それらは神に仕える身にあっては、狭量な考え方かとも思ったが、こういう考えを無理に絞め殺して来た今までの歳月を想い、こういうことがあってもよいと、巫女騎士は独り言つ。
「硬直した考え、一向な考え方はよくない。万物は流転する。足場はどこにもない、着地はできない。しかし又、激流に棹を差さずば、筏を彼岸へ渡らせられないことも事実である」
とは言え、現実問題として、いずれは神の御心に適い、聖の聖なる功績ある者が上がり、適わぬ者は下がる。自然淘汰が行われるのである。今、虐げられたとしても、永遠とは限らないということだった。
それは、どうにもならない。弱者に優しくと言っても、限界がある。現実と同じ限界だ。むろん、そうだ。ここは、現実だから。
自らを諌めて言う、
「さあ、さあ、空想を止めよ、瞑想を。
現在に還れ、事象へ。今へと立ち返れ、イシュタルーナの思惟よ。
御社を荘厳する話へ意識を戻せ。
それは偉大なる考えだからだ。善哉、善哉、善き哉、良きかな、実に正しい思惟である。
いゐりゃぬ神の御社の建築、おお、そのとおりだ。素晴らしい。いゐりゃぬ神を荘厳せよ。
それが為すべきことのすべて。衆よ、為すべきことを話し合え、条理ある話し合いには意味があり、価値がある」
イシュタルーナがかくのごとく価値を肯定し、附与することに因って、兵たちの魂魄は鼓舞される。
イヴァンが言った。
「私めに考えがあります」
「よし、黄金の聖者よ、黄金の聖騎士よ、おまえの考えを聞こう」
説明が終わると、イシュタルーナも、その周囲にいた者らも皆が納得した。
「それがよい。材木を集めよう。森へ行こう。イヤハレ、ハレヤ、オーレ、イェイ、イェイサー」
森に着くと、イシュタルーナが最前線に出て、
「では、早速、祈りを捧げよう」
聖なる咒を聴いて、樹木の元老たちは納得し、受諾した。
伐採する。杉は脆いので、樫を選んだ。この地方にしかない高山斎樫だ。鉄のように硬いが、伐り出しに苦労する。
イシュタルーナが、
「斎樫は、そのような錆びついた戦斧では伐れぬ。待て、いゐりゃぬ神の力をお借りしようぞ」
聖咒を誦して後、戦斧にイシュタルーナが息吹を掛けると、たちまちそれは聖なる大斧となった。岩でさえも、常温時のバターのように力せずともよく切れる。頑丈な材木は整然と列した。
イヴァンは言った。
「樹皮を剥かぬ粗野なままでよい。
元老たちの心を大事にせよ」
御社と拝殿とを囲っていた真円の塀も含めて、全体を蔽うよう、高山斎樫の材木を方形に組んで壁とし、その上を蓋って伽藍となし、大御社の中に塀に囲まれたあの奇妙な御社がそのまま丸ごと収まるように、柱や梁をくみ上げていく。
方形の各面は正確に東西南北に定めた。屋根は三角の破風のある切妻型で、神と人とが自由に交流し合っていた太古の、素朴な御社のふうである。
ファルコは構築されていく大御社を眺めながら想い、こう言った。
「俺は決意した。完全に、ここで暮らそう。定住をしよう。大御社の西の外側に、自分の棲息地、棲家を作ろう。
下の農場はエクシスとテンツのポジ兄弟と、エッセンとティアのネガ兄弟に正式に任せよう。四人でよく話し合い、協議し、協調して寡頭政治をするよう指示しよう。
ポジ兄弟に任せれば現実的だが、品が下がる。獣的だ。聖化しようとするネガ兄弟の手法も必要なのさ。
正解はない、すべてはバランスだからな」
巨漢アーキは自らに従う伍に命じて、屋根がある(壁のない)大きな釜場を作り上げた。
大勢の人間の食事を調理できる場所が必要だったのである。
ゾーイの配下に、チエフという者がいた。
エミイシの軍にいたものだが、元々の職業は小説家で、提案した。
「東西の物見櫓を端として周囲を囲む周壁を、今まさに造営していますが、併せて、そこを青銅の九十九人の住居としましょう。
どうですか」
青銅の兵士たちは、自分たちの居所として、東西の塔門を端緒とする円環、大御社の敷地を囲む壁を、ぐるりと囲む環状の集合住宅として階層的(四階建)に造り、城壁的な役割と十強の役割を兼ねるという計画を礎に、五人の聖者に相談し、設計をしてもらい、施工を始める。
完成までの間は、雪洞で寝食した。
かくして木造周壁はわずか一週間で完成し、素朴な物見櫓の塔門と合わせれば、総計百二十五人が住む建造物となった。
イシュタルーナはその間にも、別に指示し、
「社に聖なる飾りがない。真理を荘厳して真理たらしめよう。聖なる常緑樹の枝葉を飾るべきであろう」
ロネが言った、
「それもよいでしょう。そして、盛大なる儀式のための、もっと大きな祭壇をも作りましょう。彫刻の妙技巧を凝らさせて。
それが今、巫女騎士様のお言葉にも適いましょう。
さあ、諸君、聞いたとおりだ。この仕事は君たちのものだ、五人の、聖者にして聖戦士たる者たちよ、君たちに任せよう」
画家レオヴィンチはたちまち羊皮紙に木炭で定規を当てながら図案を描き、それを基に大工アーキが切り出した部材に、彫刻家ミハイルアンジェロが装飾を刻み彫り浮き上がらせ、建具屋ガルニエとアーキで、それらを組み立てる。ガルニエは金物の装飾具を作って嵌めた。
大御社の前に、木彫と装飾具で荘厳された四阿が設けられ、そこに原初的な大祭壇が置かれる。
「獣や魚の贄を積み上げよ、酒壺を満たせ、青々識針葉樹の葉を飾れ、木の実をならべよう」
それらが供えられた。太陽の剣を、いゐりゃぬ神の双眸の光に翳す。今まで以上に聖の聖なる御魂の流出を受けた。歓喜の源なる光善を褒授する。剣は眩く光裂し、世界をホワイトアウトさせた。
巫女騎士は立ち上がり、曙光に燃える高き雲のように髪を靡かせ、言う、
「偉大なるかな、大いなるかな。あゝ、幸福よ。弥栄あれ、真幸くあれ。さあ、これより位階を整える。銀の兵は騎士となる。将校として、青銅の兵を従えるがゆえ」
参集した一同の歓声。イシュタルーナはさらに言う、
「さあ、皆も食べよ。酒を飲む者は呑め、赦す。饗宴だ」
歓声が上がった。
長大なテーブルが即席で作られ、又、数十人で大いに狩猟するとともに、ファルコの農場から馬や牛や豚や鶏などが運ばれた。
貧者の大饗宴。
「あゝ、何て素晴らしいんだろ。二人きりの時が嘘のようだ。これ凄い美味しいね」
ラフポワは初めてこのような盛大な(しかし、粗野であることには、一向に気がつかなかった)饗宴を見る。幸せの極致だと感じた。
ここにまとめよう。
すなわち、雪の御社は、自然な自然木の御社(通称〝祠〟)となり、それの前に拝殿ができ、御社と拝殿を囲む塀ができ、塀の前に番小屋が立ち、それらをすっぽり覆い包み込む大御社ができ、その前に大祭壇が建って、その外に物見櫓があり、物見櫓を端として住居も含めて囲む周壁ができた、と言うことである。
さて、日付を一週間前に遡ろう。
マハルコは兄ソシンを説き伏せるため、宮殿を訪れていたが、弟の話を聞いたソシンは大いに憤慨した。弟以上の巨漢である兄は長鬚を震わせ、金糸刺繍の真紅の貫頭衣の胸や腹を激しく上下させ、
「何たる愚か、百もの兵を以て、小娘にあしらわれたか、無能め、バカが、何を懐柔されておるや、いにしへの神だと?
迷信を。言うな、もはや、時代は変わったのだ。地霊や物の怪など、何かは。理性と科学の時代よ。
北大陸にある彼の国を思え。今や、世界を席巻せんばかりの独り勝ちだ。祭祀祈祷は人を統合せんがための空想の産物。古代に於いては、人々は神の名の下に結束した。文化・宗教が人々を結束させた。
ええい、見るも汚らわしや。衛兵よ、この愚か者を地下牢に投ぜよ」
とはいえ、百の兵が役に立たなかった事実を重んじ、急遽、資金を作って千人の兵を集わせ、武具を整え、食糧を調達し、号令とともに、出発させた。一貫した憤怒で、昼も夜もなく、わずか一週間で、これらすべてを仕上げたのである。
殺戮の兵器をぎらつかせ、嶮しい雪の急斜面を強いて、湯気を立てながら行軍したが、そのうちの百人は道々、いゐりゃぬ神とイシュタルーナの噂を聞いて怖れをなし、夜逃げ、若しくは脱走をした。
士気の上がらぬ戦闘もまた、お粗末なものである。
エミイシ一族が誇る精鋭はラフポワの雷霆神剣、この時のために特別、一時的に〝水〟の位階を賜ったその剣の一振りで、たちまち大きな雷に撃たれ、九百名がたちまち黒い炭となってしまった。
その凄まじさは大山脈もゆっさゆっさと、大きく揺らがせたほどである。大地は割れ、丘は崩れた。雨のないこの季節、豪雨となった。
独り生き残ったソシンはびしょ濡れで、恐怖に震えて平伏し、
「大いなるかな、いゐりゃぬ神の慈悲を」
傘を開きながら、ラフポワは困った顔をし、
「どうして無駄なことをするのでしょう。さすがに、僕も面倒臭いですよ、最初から降伏してください」
最初から降伏するなら、来る意味がないが、そんなことを追及する余裕などあろうはずもなく、ただ、ただ、
「どうか、お赦しを。何でも言うことを聞きます、何でも、どうかお救いください、お願いです、何とぞお助けを、あゝ、いゐりゃぬ神様」
ラフポワは呆れ、
「どうして言うことが、すぐに変わってしまうのでしょう。降参するなら、闘わないでください、愚かです。命の無駄です」
いゐりゃぬ神を振り返って、
「いゐりゃぬ神様、どうすればよいですか」
南の青き海原のごとくに双眸を燦めかせ、舞うように指を空中に滑らせる。細く淡く柔らかく初々しき指先から星が零れた。砂金の霧となって散りながら渦を成し、再び結び、太陽となる。雲が切れ、日が差す。いゐりゃぬ神は命じた。
「朕に仕えよ」
かくして、九百名の兵は生き返って、いゐりゃぬ神に仕える神の兵となった。彼らもまた、かつて生き返った者たち同様、甦ったとても、喜ぶ余裕もなく、奇蹟に慄き震えている。
平伏したままだ。
「お前たちは銅の兵だ」
巫女騎士がそう命名した。
イシュタルーナは言う、
「全員で千二十五人となった。
組織を再編する。
銅の兵は九人で什(十人隊)を成せ。
そこに什の長として、青銅の兵が入れ。青銅の兵は騎士とする。
什を四つ束ねて中隊(四十人隊)とし、銀の兵が長となれ。銀の兵は男爵とする。
五人の聖者は五つの四十人隊を従え、大隊(二百人隊)をなせ」
九百人の兵の中には、先の九十九人の兵よりも、身分の高い者も数多くいた。前回同様、悶着はあったが、青銅の者たちが別人のように威厳があったので、銅の者たちはすぐに何も言えなくなった。
イシュタルーナははっきり断ず、
「いゐりゃぬ神はすべてを見る。すべてを知る。
異逆は赦されない。上位の者に逆らう者はその瞬間に死す。
我らが神の邦に於いては、上位は人の与え給えしものに非ず。家柄や血筋に拠るにも非ず。
我らが神の邦に於いては、いゐりゃぬ神の与えしもの。
人の邦とは事情が異なる。それゆえ、上位者に逆らう者はいゐりゃぬ神に逆らう者である。
あたしは今、はっきりと言った。おまえたちは全員、あたしの言葉を聴いた。それでも、逆らう者は自ら死を望んだに等しい。一切の弁明は不可能だ。
なぜなら、いゐりゃぬ神は無謬だからである。裁判も無用である。完全にして完璧である。人の世とは違う。人は無謬ではない。だから、面倒臭くて、非効率的なシステムがある。いゐりゃぬ神の下にあるここでは、まったく違う」
ソシンは寒冷の中、外套を奪われ、棘の鞭で肉に轍を刻まれ、洞窟の一角にある牢獄に縛られる。
イシュタルーナは激越に罵った。
「愚昧な思想に憑かれ、我が一族を滅ぼした劣等人、愚昧な科学崇拝者、科学万能主義の敗北だ。破廉恥漢、悪魔め、暴虐な殺戮者、貴様には恐るべき死を与える」
「ひいい、どうか、どうかお赦しを、ご慈悲を」
ソシンは震え上がった。
「安心しろ、赦すことなど永遠にない。この世で誰も経験したことのない激烈な苦痛を与える」
復讐の鬼神が彼女の魂にどす黒い噴煙を濛々と上げている。ラフポワが言った。
「イシュタルーナ、怖いよ、そんなこと言わないで」
巫女騎士は顔を歪める。
「おまえにわかってたまるか」
「僕も家族を」
ラフポワがおずおずと言った。
「それがどうした」
間違っている。そう思いながらも、口にしてしまった。
ラフポワはめそめそ泣いたが、それでも少年は憤激する巫女騎士を恐れていなかった。
「誰も経験したこともない苦痛だなんて、そんな恐ろしい言葉……。イシュタルーナの苦しみはわかるよ。けど、誰も経験したことのない苦しみじゃないでしょ?」
イシュタルーナの頭頂に激怒が衝き上がる。それは正論をもって突き返されたときに人が起こす逆上だ。
「理屈を言うな、詭弁者め!」
剣の柄をぐっと握りしめ、巫女騎士は唇をきつく結ぶ。悲しみに戦慄くラフポワへ向かずに、洞窟の壁を蹴って足早に去った。
とてもかくても、エミイシ氏族の敗北は決定的となる。
その衝撃的な知らせは、エミイシ氏族の都イルカの宮殿を震撼せしめた。
「決戦を。果てるとしても、名誉ある死を」
「まだ一千の兵がある」
「愚か者、残っているのは、ほぼ予備兵だ。予備役で集まった一般人に過ぎない。正規兵ではない。正規軍の精鋭部隊すら敗れたのに」
「もし、予備役に就いている兵士が皆やられれば、成人男子のほぼすべてだ。それが死んだら、どうなる?」
「和平を、和議を、和睦を」
「イノーグの娘が復讐に燃え滾っていると聞くぞ、和睦が叶うか? 死者は甦らせられぬ、代償は死で払うしかないのだ。もうだめだ、やられる」
「何ゆえに、イノーグの残党に敗れたのか、わずかな人数のはずなのに、精鋭部隊までもが」
「神の力だ、神を否むべきではなかった……」
「ロネやファルコも加担していると聞くぞ」
「ロネ? ルネッサンス・ストリントベリイ伯爵か、革命貴族の」
「人権派弁護士のファルコ・アルハンドロ」
「ええい、それがどうした、慮っていても埒が明かない」
「援軍は? 日頃、昵懇の貴族たちは、いずこに。密約の同盟者たち、暗黙の盟約者たち、言わずもがなのシンパたちを呼べ」
「取り巻きや阿諛追従者たちが何の役に立とう、利害関係があればこそ追随する者たちが。権勢に拠ろうとする者など、風の前の塵に等しい」
「友はいる。いや、ここで我らが斃れれば、自らもやがて同じ憂き目を見ると危惧する者たちがいる。檄を飛ばせ」
「承知」
飛脚が飛ぶ。
「しかし、間に合うであろうか」
「いや、間に合うまい」
「だから、それまで戦うのだ」
「保てるか」
「無理じゃ」
「いや、為せば成らぬものかは」
そこへ、喧々諤々たる忠臣、老臣、譜代の臣下らをかきわけてる巨漢の老人。
「待て、かくなる上は是非もない」
一族本家の当主シエミ(ソシンの父にして、エミイシの族長)が決断する、眉間に苦悶の叢雲を寄せ集め、苦渋の選択を。
「カベンソン城へ撤退する。難攻不落の城砦へ」
一万人を超えるエミイシの一族郎党は都を捨てて、大移動する。その牽く影は悲愴であった。取る物も取り敢えず。「イノーグが復讐に来る」と口々に叫んで。
行程はわずか三キロメートル。だが、老人や幼少者、病人や身体の不自由な者には辛かった。
父によって地下牢から解放されたマハルコは大いに悩んだが、苦渋の選択をし、エミイシ族の大移動の列から脱し、いゐりゃぬ神の軍に加わって青銅の兵となる。
「心裂ける想い。さりとても、これが正しきと信ず」
早暁から動き出し、夜までかかって、山上にあるカベンソン城の下に着く。城までは狭く急傾斜の道だ。嶮しい斜路を登ることが、最大の難儀であった。しかし、それゆえに難攻不落。
猛々しい岩山の城門を閉じ、籠った。
その同じ日の黎明、奇しくもエミイシの大移動が始まった頃、イシュタルーナのイノーグ山では、
「襲撃する」
イシュタルーナが決断した。
「戦の準備をせよ、敢えて酒を振舞う。飲め。どちらが正しかったかを、はっきりと決めてやるぞ」
戦争の準備が始まった。