第 二章 雪の社 狩猟時代
二の腕や太腿や胸元に聖句が装飾的に彫られた金箔のような刺青が輝く。
純白の貂の外衣に蔽われた鎧兜は、奥深くて暗いが眼が痛くなるほど鮮やかなクリムゾン・レッド。その下はプラチナの鎖帷子、さらにその下はラシャの長衣。下に白いシルクのチュニック。
足下は金糸の紐で網のように編んで締め上げる深紅のロング・ブーツ。
革ベルトから吊るした、柄に聖紋の長剣には聖句が金で象嵌され、鞘にも真咒が浮き彫られ、装飾鋲が打たれ、刃と同じく聖句が金で象眼されていた。
二の腕に革のベルトで留められた小さな楯には、移ろい易い、霓色の艷を持つ、精緻な蜥蜴の紋。
古き天文占星の家柄であるイノーグ家の紋章である。
美しい。幻想のようだった。ラフポワは吹雪く中で、時に恍惚とそれを眺めた。
しかし、現実の苦しさを紛らわせてはくれなかった。
いゐりゃぬ神から拝領した最初の糧である木の実を一日一粒ずつ齧って凌ぐ日々。それは、まるで、苦行する沙門のようであった。こ
れによって、どうにか七日間を過ごした。
食事は一度でも、礼拝することを毎日三回、洞窟から出て、祠(雪の塀壁に過ぎないが)の前で跪いて、雪の上に額突き、欠かさなかった。
三回という回数は、イノーグ家に古くから伝わるもので、それに疑念を挟むことはない。
いや、正確に言えば、かつての幼き時代には、イシュタルーナにも猜疑を挟む時期があった。
だが、成長につれ、論理を基礎とする思考の限界を知覚し、論理的思考の虚しさを覚え、遂に様式的礼拝こそ言語にならぬ思考の思考であると自覚するに至った。
四年前、十歳のころだ。ちょうど、思春期の兆しが目覚め始め、意識が明確になってきた時期であった。
聖咒を唱え、印契を結び、観想を練る歳月のうちに、頭でする思惟など把握の手段の一部でしかないことに、体で気がつき始めたのだ。
論理を用いた検証は虚しい措定(あるいは、仮定と言うべきか)の積み上げでしかなく、根源的なことは証明のしようがないのだ。
我々はどのようなことであれ、それをゼロから説明することはできない。頭でなく、肚で解するしかないのである。腑に落ちるとはこのことだ。
畢竟、全ての地の基礎とはそういうことではないか。
経験を重ねるうちに、ごく自然に、理や言語ではなく、直截の真理を、いや、何かわからぬ何かを観ずる方法を、五里霧中で模索し始めていた。
巫女本来のあるべき正統な、超越的な在り方である。そうするうちに真理に通暁し、剣の道も上達を極め、達人の領域に達した。
ラフポワがさまざま理屈で不平不満を言うと、彼女はよくその経緯を説いた。
「古来、人はその本能で生き延びた。
伝統・歴史をひしひしと感じ始めると、もはや、思惟や疑念は虚しく、実践で練られ熟れた名匠の感性や、真実性を魂魄によって晰かにすることなど、体験に基づくことのみが真実であると人は自覚するようになる。
お前はまだ若い。
経験でしか叡智は育めない」
ふつう、十四歳にお前は未だ若いと言われたくないものだが、ラフポワはいくつか年下なので、素直にうなずくしかなかった。
三回という数字も、常に神の傍に侍り、供養する者がいなければならないという規定も、天の理・地の理を伝承に依らず実証して照覧すれば、決して無為ではない。
それゆえ、現状の中途半端な礼拝は、イシュタルーナの体得した真の理法からは、遠くかけ離れており、大いに不満であった。
しかしながら、凍死してしまっては、務めをなせない。彼女としては苦渋の、究極的な選択として、祠に駐留せず、このように洞窟から通う礼拝をしていた。
もっとも、洞窟はわずか二、三十メートル離れているだけなので、十分側仕えしていると言え、問題は全くない。真を極めんとするイシュタルーナの厳格厳粛な性格が赦さなというだけで、実際、ラフポワは犠牲者のようなものであった。
七日経っても、吹雪は止まず、 イシュタルーナは遂に言う、
「供物が要る。布施者を、檀家を探せ」
「ここで! 無茶だよ」
「神のために、自己を超越し、不可能を可能とせよ」
「無茶苦茶だ。
第一、お腹が空いて動けないよ、手も足も凍えて冷たくて、もう永遠に体温を失ってしまったみたいだよ。しかも、夕方だよ、たぶん」
吹雪が朝夕を分別させなかった。ラフポワはめそめそ涙零す。
泣き言は当然であった。生きているのが不思議なくらいだ。しかし、死なないだけであって、辛さは同じだった。つまり、死んだ方が楽だったのである。
イシュタルーナは袋からつかんで差し出す。
「これを食せ」
掌に、数個の木の実が載っていた。ラフポワの眼が輝く。
「ぅわあ、いいの」
「最後の最初の糧だ。今、唯一の糧だ。
早く食べよ、而して希望を持て。
心を清ませて狩人のいる方角を占おう。この世の機らきをつかみ取って、手繰り寄せるよう、心の真奥にある魂魄の手探りで探そう。
本来、心はすべてを知っている。
心が全宇宙だ、ありとしあらゆる一切だ。
すべてを網羅した状態に、常に在る。
心がすべての現実である。
色受想行識を想え。
感受の因子であるべきもの(色)、たとえば、光によって網膜に刺激を感受(受)し、感覚が表象(想)し、解釈学によって色彩が構築(行)されるならば、意識・知覚(識)が起こる。
すなわち、それは措定・解釈に過ぎない。方便でしかない。
現実が直截そのままに映じて起こるものではない。
先天的な、蜥蜴や魚類の脳幹にもあるような、先祖伝来の〝企画〟が投じられ、構築されたもので、言わば、捏造物だ。
企画の由来や仕様は誰も知らない。
根拠は知り得ない。
それゆえ、理解は理解ではなく、無理解は無理解ではない。又は理解は無理解だし、無理解は理解なのだ」
「いただきまーす! あむ、んー、んもぐもぐ、んぐんぐ、ごくっ、う、うまーい!
もぐもぐ。ごっくん。
で、さあ、食べながらで、失礼なんだけど、イシュタルーナ。
僕には、まったくわからないんだけど。つまり、心を清ませば、その狩人のいる場所に行き当たるってこと?」
「いや。心は誤謬をも網羅する。おまえが歩いて確かめよ。それしかない。他に現実があるか?
右に逝けば、逝くは右。左手に握れば、左手が握る」
「いや、ないと思うよ。もぐもぐ、んぐんぐ、ないね、ないよ、うーん、おいしい」
その美味しさを、彼は生涯忘れられなかった。
さて、これが狩猟採取時代の始まりである。
ロネ・ストリントベリイという男がいた。
狼のような黒い蓬髪で、眼窩が窪み、頬がこけて、暗鬱なパトスを滾らせ、儼かしく冷酷な表情の男であった。
鍔の広い帽子を被り、頑丈な革の厚い平紐で尖った細い顎に結んでいる。
狩人である。故郷のキヌグイ(木濡杙)山やアヌグイ(啊濡杙)の山をカモシカのように自由自在に廻って、驚嘆すべき大きな弓と矢とを軽々と扱い、シカやカモシカやヘラジカやキジや雷鳥や野ウサギを獲っていた。
粗末な丸太小屋に住んでいる。
七日間も猛吹雪で、狩りには行けなかった。弓の手入れをして、暗い日中を過ごす。蓄えの乾し肉を噛んで、今宵も早くに床に就いていた。
ところが、深夜。
扉を、どんどん、どんどん、と叩く音。
「ごめんください。どうか起きて出て来てください」
ロネは鉈と斧を握った。いや、弓にすべきか。部屋は暗い、外も暗いが、それよりも暗い。敵が扉を破っても、瞬時は何も見えない。こちらは暗い吹雪のわずかな雪明りに照らされた敵が微かに見えるであろう。
距離を置いて、弓矢で射る方が安全確実だ。
「僕は扉を殴って壊したり、蹴り破ったりはしませんし、できません。でも、このまま開けないと、いゐりゃぬ神の裁きが下りそうですよ。大丈夫ですか」
いゐりゃぬ神の裁きが来て大丈夫はずがない。だが、誰が「ハイ、そうですか」と、信じて扉を開けるだろうか。この弱肉強食の乱世で。
その時である。
強烈な閃光、同時に凄まじい雷鳴が轟き、扉が吹き飛んだ。
「ぅぅぅわあああ」
ロネは吹き飛ばされた。暴風雪が吹き込む。
「やれやれ……。だから、言ったじゃないですか」
ラフポワが入って来た。左手に光るトネリコの枝を持ち換えて、右手を差し出す。ロネが眼を丸くして木の枝を見ていることに気がつき、
「あゝ、これですか? これ? この木枝? 僕には扱えないんです。何だか、勝手に働いてくれているんです。
そうは見えないと想うけど、雷霆神剣の一つです。
雷霆神剣の中でも、〝空〟っていうランクのものらしいんです。雷霆神剣の中では、一番弱いらしいんです、威力が。
でも、よくうまく正しく使えば、成長するらしいんですよ。
ちなみに、雷霆神剣の中で一番威力が強いのが金剛剣で、次が黄金剣で、銀剣、鉄剣、青銅剣、銅剣、石剣、木剣、土剣、水剣、粒剣、素剣、そして、最後がこの空剣(零剣)って言う、十二段階なんです。
え? 十三じゃないかって? あゝ、空剣はゼロという意味なので、数の内に入らないらしいんです。
えーと、それから、この雷霆神剣は実は元は、ただの棒ッ切れだったんです。いゐりゃぬ神の二つの眼が光り輝いたら、棒が、パッと燃えるように光って、これになっちゃったんです。こんなにも途轍もない燃え輝く金枝になっちゃったんです。
ほうら、見た眼どおり重くないんですよ。重くない。何でだかわかりません。軽いのに、もの凄い威力なんです。……まあ、さっき、見たと思いますけど。
いや、もう、僕、怖くって。
他にも、龍の剣シリーズもあって、それも金剛から空までランクがあるんです。その他にも……あ。
勝手に喋り過ぎてますか?」
ロネは呆然とするしかない、ラフポワを眺めながら。
意外にも、被害は小さく、怪我もなかった。樫の丸太で作った扉が開いただけだ。木製の簡素な蝶番も壊れていなかった。
「不思議だ」
ようやく、ロネはつぶやいた。
ラフポワは悪戯っぽく微笑んで、
「でしょう? 言うことを聞いておいた方が身のためのような気もしなくもないです。あ、脅かしているみたいなんですけど、そうじゃないんですよ。いや、僕もよくわからないんですが」
ロネは是非もなく、鹿革の上着を羽織った。熊の毛皮をその上に着て、キツネの毛皮のフードをかぶった。よく見れば、ラフポワの軽装に呆れた。
「よくそれで寒くないな」
「寒いですよ。僕も人間ですよ。仕方ないんです。僕のような下っ端の傭兵には、ろくなものが支給されません。基本的に自給自足、自前なんです。
でも、大丈夫なんです。きっと、いゐりゃぬ神の御加護なんでしょう」
少年兵だ……ロネは眉を顰めて、悲しそうな顔をした。
でも、今、考えても、どうにもならない。
「そうか。では、行こうか」
ロネは歩きながら、自分は何と愚かな行為をしていることかと思った。外は、凍てつく、猛々しい吹雪のさなかだ。
そう思いながらも、風に耐え、ザクザクと雪を踏んで登った。その間、口を利かなかったが、ラフポワはそれに好感を持つ。この少年がふと掛ける言葉から、丁寧語がいつしか抜けていった。無邪気なのか、不幸の翳りがあるのか、わからない少年に、ロネも次第に親しみを覚えていく。
吹き荒れる中、灯りもない嶮しい山登りの一キロメートルは、とても長く感じた。山が人を拒む。烈しく打った。だが、人はそういう場所にこそ聖なる領域を予想する。なぜだろう。
人は捉え難きを欲し、禁じられたものを求むからか。
やっと、聖なる石の場所に来た。ロネは眼を凝らし、暗闇を通して見定めようとする。
雪が積んである。髙さ一メートル十センチ、直径が四メートルほどの環状。これをもし祠と言うなら、壁があるだけで、天井のない祠だ。
入り口は狭く、身を斜めに傾けながら入らなければならないように見えた。中は暗く、沈んでいる。ただ、猛吹雪のびゅうびょう、ばうぼうという音だけであった。何もいないじゃないか……
何だか怖くなってきた。真っ暗な山、吹雪、奇妙な雪積み、いるはずのない場所に少年がいる、独りぽっちで。気味悪くならない方がおかしい。少年は本当にこの世の者か、生ある者か……
ふうむと唸り、ロネは現実に還ろうとして言う、
「雪を、二人で、これほど積むのは、大変だったろうな」
やはり、この人は、基本いい人なんだと、ラフポワは感じた。
「いや、ほとんど、僕一人だよ」
「無理だ。この息もつけぬ吹雪の中では」
「それが不思議なんだけど、できちゃったんだよ」
「むむ、それも、いゐりゃぬ神の力という訳か」
「願わくは、何となく、恐らく、きっと、たぶん、そうだと思います」
そこへイシュタルーナが洞窟からやって来て、傲然と会話を奪い、
「祈りなさい。拝みなさい」
ロネは複雑な表情で、少し安堵しつつ、微妙に、かつ、神妙に会釈した。
「わかりました。祈りましょう。何かしなくては、わからない。では、拝観してもよろしいですか」
「むろん。一切を網羅し、異他違逆のない、いゐりゃぬ神だ。断る理由も、断らない意味もない」
「では、神の与え給うままに。儀礼ですから、禊ぎ清めた上で、厳粛に拝ませていただきます」
ロネは、いゐりゃぬ神がいるとは信じていなかったが、けじめとしてそうしようと思い、そうした。顔に積もった雪を落とす。服を叩いた。
針葉樹の葉で祓う。白雪で雪いだ。二礼し、入ろうとする。すると、いゐりゃぬ神は突如、光り輝いた。
「ぅうわっ」
海老のように後ろに飛ぶ。
「いゐりゃぬ神だ! いゐりゃぬ神! あゝ、自然石の上に」
驚愕し、震えているロネを見て、ラフポワは眼をぱちくりさせ、
「そうだよ、そう言ったはずだけど」
ロネは蒼白になっていた。
「半信半疑、いや、ほとんど、いや、まったく疑っていたし、もし、真実だったとしても、これほどとは思っていなかった。神が眼の前にいる!」
激しく動転している。
「そもそも、いゐりゃぬ神を知らなかった。ラフポワから初めて聞いた。それでも、見てすぐにわかった。
あゝ、そして、奇妙な感覚、清爽、歓喜か、崇高、陶酔か、脱力感、いや、何だろうか。だが、畏怖もある、喪われることの怖さも混ざったような……」
イシュタルーナが鷹揚に言う、
「結論があればよい。結果が現実だ。で、どうだ。手伝う気になったか」
「紛れもなく。
他意はありません、もはや。されども、もう一度、拝観してもよろしいですか」
「見よ」
恐ろしいのに、なぜ、もう一度見ようと欲するか、ロネ自身にもわからなかった。
畏れ畏み見る。
「美しい、あゝ、何と言うべきか……」
言葉にもならぬ繊細さにて、かつ微妙、儚くも、初々しく、生命に富み、輝かしく。甚だ深い静寂の歓喜が身に染み渉る。
いゐりゃぬ神は論理を超えた大義であると感じる、歓喜とともに。深く深く心静かに欲するがゆえに。真の真から。奥の奥から。
手を合わせて深く祈り終えると、戻ってロネはイシュタルーナの前に姿勢を糺し、眉も眸も口元も凛々しく、生命を甦らせた者のようにまったく表情を新たにし、
「命に代えても。神聖な使命です」
「最高の真理があるならば、余談は要らぬことを悟ったか。よろしい。おまえをいゐりゃぬ神の臣とする」
「はっ」
ロネは崇高の稲妻に打たれた人のように一度、大きく震えてから、ガクっと跪いて叩頭く。
「身命を惜しまず。一切を捨て、必ずや」
「期待するぞ」
イシュタルーナが厳かにそう言うと、ロネは立ち上がる。さっきまでが演技だったかのように平静を取り戻し、
「提案なんですが、現状のいゐりゃぬ神の祠は粗野です。いや、それ以前です。ただ雪を積んだだけです」
イシュタルーナは深く頷くも、
「知っている。だが、魂魄を込めればよい。今は、これでも已むを得ないものと考えている」
「むろんです。状況を鑑み、諸事情を慮れば、已むを得ないでしょう。
現状が悪いとは言いません。或る種の、侘び寂びとも言える良さもありましょう(ラフポワは首を傾げたが、イシュタルーナはそもそも興味がなくて反応を示さなかった)。粗いゆえに原初的で、非人工的で、土味を遺した陶器の高台のようにリアルです。
しかし、存在としてリアルであっても、生存のためには、リアルではありません。所詮、これは雪を積んで小さな、刹那の塀を作っただけです。
凍っていて、石壁くらいに頑丈ですが、所詮は雪です。木の塀が欲しいところです。丸太でもよいから、堅牢な何かを立てて。
為せることから、為しましょう。
とは言え、今、この吹雪の中で作業するのは危険です。たとえ、晴れても、人数が欲しいところです。
ですが、屋根くらいは葺いておきましょう。いゐりゃぬ神のために屋根を。寒さや風雪が凌げます」
「素晴らしい考えだな。
自然もまた、いゐりゃぬ神の御心のままゆえ、風雪など意にも介さぬが、介することも、どちらでもないこともできる。
妾は深慮し、正しいと思うところを為すのみ」
ロネは針葉樹林に入り、吹雪もものともせず、鉈を打ち込んで、それを足場とし、器用に針葉樹に登ると、斧で枝を伐って、編むようにし、いゐりゃぬ神を囲む土手の上にかぶせた。
その上に雪を固める。
確かに、我ながら作業が速いと驚いた。いゐりゃぬ神の力か、と独り言つ。
イシュタルーナが労って声を掛ける。
「洞窟へ戻ろう。ロネ、少し休め。小さき積み重ねも尊い。命を永らえよ。生の存続にも意義がある」
「ええ、しばし休みます。体力が回復すれば、気力も再生するでしょう。その方が道を間違えない」
だが、ロネは数分ほど休むと、すぐに洞窟を出た。
来た道を下って、小屋に戻ると、生活道具を持って、再び上がって来る。
洞窟の壁には、いくつもの小穴があった。そのうち風の抜ける穴があり、外に繋がっているようであった。
ロネはそれらを慎重に選び、一つの穴を決めると、そこに石で簡単な炉を作り、火打石で羊毛に火を点けた。乾いた草や枝に点火する。濡れないように大事に保管していたものであった。薪に火が移る。煙は穴からどこかへ抜けて消えて行った。
「ラフポワ、ほら、見たまえ。とても良いよ」
「ああ、本当だ。暖かい、すごく暖かいよ」
手を翳す。
イシュタルーナが来て言う、
「素晴らしい。
これをいゐりゃぬ神に捧げる火の儀の端緒としよう。
未だ火を点せるほど、祠が整ってはいないが」
洞窟に赤々と燃える炎。燠の火は暖かく、平和で、おだやかで、何と優しいことか。
希望が点された。一族の虐殺を眼の当たりにして絶望していたイシュタルーナにも、未来の光のない苛烈で殺伐たる前線に傭兵として擲たれていたラフポワにも。
「あゝ、暖かい。指先がじんじんする」
ラフポワが喜悦の感嘆を洩らす。
ロネは背負ってきた大きな革の袋から、鍋や食材を取り出し、
「スープでも作りましょう」
乾し肉でダシを取っただけの汁だった。しかし、豊かな風味と旨味とがある。まともな食べ物だった。
匙で一口掬って、ふうふうしながら飲むと、旨味が五臓六腑を廻る。
「んー、堪んない、あー、血が通うのがわかるよ。甦る。生き返るようだね、イシュタルーナ、僕は本当に生き返ったよ! 自由になった気がする」
ラフポワは随喜した。
微笑んでから、ロネは言った。
「では、私は早速、自分の使命である狩りに出掛けます。数日かかることもあることを、予めご承知おきください」
颯爽と出る。その肩や背や、無骨な表情は、行動ということだけを露わに示していた。
その頃、いゐりゃぬ神は粗野な祠で睫毛を伏せ、坐し、瞑想する。
イシュタルーナも洞窟の中にいながら遠くを見遣る。
いゐりゃぬ神も時には、考えるのであった。すべてが意のままゆえに、考え煩い、模索する必要などなくとも、そうすべくしてそうするのである。
巫女騎士の心に髣髴する何某かの思慮の繚乱も、ただ、いゐりゃぬ神の御心のまま。自由な、自主的な、自らの意志など、未だかつて存在したことはない。非存在ですらない。そもそも、自由意志とは、何か。我らは自由意志を持つ。唐突に、自由意志は実在している。
ロネは血の滴る獲物をぶら下げて帰って来た。
未だ夜明け前だった。黎明はなく、吹雪なので真っ暗だ。獲物は、巣穴で眠っていたところをキツネに襲われたウサギと、襲ったそのキツネだった。ラフポワはすやすや眠っている。
「新鮮な血だ。これは有り難い。生命は清らかだ。
早速、聖なる場所、祭場の浄化に使おう。場を清めようぞ」
イシュタルーナは獲物を奪うように取ると、外に出た。祠の前に来て、獲物を振って血を垂らし、撒く。
血は神聖なもので、場を浄化する。鹽が全てを清めるように。
それを野蛮という宗派もある。だが、宗教はさまざまだ。文化を一概に批判するのは、植民地支配と同じで、その方がよほど野蛮である。答は一つではない。当たり前だ。考えは一種類ではない。すべては複雑系的であるべきだ。それが現実的である。事実であり、実態である。つまり、神の意向だ。
むろん、巫女騎士の考え方はその真逆であるが。
イシュタルーナは雪に嬲られながらも、膝を突き、頭を垂れ、髪を雪に触れさせ、音も触感も掻き消えるほど深く祈った。
戻ると、無造作に骸をロネに渡す。
「調理せよ」
ロネは吊るして血抜きをし、捌き、その後、休憩した。
イシュタルーナは、
「早朝、贄として、いゐりゃぬ神に捧げよう。夜は相応しくない」
夜明け前の、一日のうち、最も清らかな気が萌えぐとき、処女神のごとき薄明があらわれ始めた。
燦めきを強め、黎明となり、紺碧の空が銀嶺に再び微笑む。あゝ、黎明よ、新たな思想が生まれる瞬間であった。甦りの刹那とも言える。
崇高なる蒼穹へとなりつつあった。
雪が閑止している。
朝、吹雪は止んでいた。イシュタルーナら三人は神の御前で贄を炙り終えると、額突いて礼拝し、その後に棲家である洞窟へと持ち運び、食す。
塩も胡椒もなかった。だが、久しぶりの暖かい食事、しかも、肉だ。
ラフポワは大満足であった。笑みの頬で、噛み締める。
「あゝ、幸せ。何年かぶりにまともなものを食べたよ」
傭兵時代には、まともな食事がもらえなかった。
「生れてから、何年も経っていないだろう、ラフポワ」
「十年以上は経ってるよ、イシュタルーナ」
「妾より何年も少ない」
「ふ、私から見れば、半分以下だな」
外に出て、ならんで立った。日が射し、見上げれば、樹木のない大斜面、眩い純白の山脈だ。
希望を呼吸するも、光に影がつきまとうように、いずれ、そう遠くない未来に、敵が来るであろう、巫女騎士はそう思った。
荒天が明ければ、再び殺戮の剣がイシュタルーナを探し、エミイシの紋章の楯を打ち鳴らしながら、山を登って来るに違いない。
「さてと、聖なる巫女騎士よ、エミイシの手の者たちが再び来るでしょう。もしここにいることを察知すれば、正規の兵たちが来る可能性もあります。
すなわち、百戦錬磨の戦闘の達人たちが」
ロネが言うと、イシュタルーナは、
「むろんだ」
非情の面をもって。当然のことだと言わんばかりに応えた。
「失礼いたしました。ふう。問うまでもなかったですね」
しかし、敵はすぐには来なかった。追撃してきた傭兵たちが全滅したので、イシュタルーナがどこへ行ったかわからなかったのである。山に行ったなどとは夢にも思っていなかった。
普通に残党狩りをしながら、街道に関所を設けたり、民家を調査したり、イノーグに近しい者たちの家を探ったり、湖畔や川や海の傍、特に港などを捜索したりしていたのである。
狩りに行ったり、街道沿いまで近づいたり、イシュタルーナたちと出会う前にように民家に行って獲物を物々交換したりしながら、エイミシ側の捜索がそんな状況であることを知り、大丈夫であろうと判断して、ロネは言った。
「ラフポワを狩りに連れて行ってもいいですか」
「むろんだ。それもいずれ必要になろう。行くがよい」
毅然たる少女は言った。
「風上にいてはいけない。風下に回るよう工夫するんだ」
「なぜ」
「世界がそういう仕様だからさ。この場合は、臭いだ。彼らは視覚よりも、臭いを情報源とする。彼らの嗅覚は人間の何十倍も凄い」
「不思議だね、彼らは見るだけじゃなくて、臭いでも世界を感じているんだね」
ロネはラフポワをじっと見た。
「賢い子だな、ラフポワ。神将だから、賢くなければ困るが」
「よしてよ」
その言い方がませていたんで、ロネは思わず笑った。
「そうか、そうだな、あはは」
「匂い以外の感覚でも、世界を認識の方法、現実を知覚する方法はあるの?」
「あるさ。
蝙蝠は音だ。夜は見えないから、音の反射でモノの存在を知覚する。我々は主に眼で見て、音や匂いや感触などと総合して世界を構築するが、彼らは主に音で世界を創る。彼らの世界と我らの世界は同じ世界に住んでいても、別物なのだ」
「へー」
「蛇は温度だ。彼らの世界は温度の差で構築される。モグラも眼がほとんど利かず、臭いの差異で世界を構築する」
「皆、僕らにはわからない違う世界があるんだ。僕は彼らって何も考えてないと思っていたけど、僕らにわからないだけで、全然、別の世界があるんだね。
きっと彼らの言語や文化や宗教や哲学や、彼ら独自の感情もあるのかもしれないよね」
「私はおまえが本当の神将だと思えて来たよ。自分の感覚や価値観を超越することが偉大さだ、生の偉大さだ」
「生の」
「そうだ。
人間に限らず、という意味さ。すべての生に於いて。
犬もカエルもトンボも樹木もカビもバクテリアも、一切だ。わかるか、ラフポワ」
ロネは真顔になって、
「生の進化の経緯は、自己超越の歴史だ。
飛ぶようになったり、陸に上がったり、水棲したり、擬態したり、巨大化・矮小化したりして、生命は過去の自己を超越してきた。
また、諸感覚を発達させ、より多様な情報を収集し、より複雑精緻な、客観的な世界を構築することで、客観性を獲得し、他者を理解し、すなわち、自己を超越し、俯瞰する。そういう者たちは進化の道を行く者たちだ。
お前はその道を外れていない。神の示す道を。
いゐりゃぬ神はおまえを選んだのだ」
ラフポワは嫌がる顔をしたが、想うところあって、
「だから、人はリアルなものを求めるのですね」
ロネはその意味を表面的に理解するしかないと考えつつ、わかるところだけを言う、
「リアリティ(現実)でなければ、意味がないように思えるのも、畢竟は、そうなのだろうな」
鹿の足跡を見つけた。
「近いな。シカは耳も鋭い。音を立てるな」
「無理だよ。雪はザクザクいうよ」
「奉行せよ」
「奉行って、何?」
「心を込めて行え、という意味だ」
一時間後に見つける。
「いた。小鹿だ。ロネ、あの子はやめようよ」
「ラフポワ、それでは生きていけないぞ」
「構わないよ、意味ないもん、生きていても」
ロネはまた悲しい顔をした。
「なぜ。
意味のない者はいない。意味がないなどと言う者は世界を否定する者だ。たとえ、棒切れであろうと海であろうと土であろうと蛇であろうと砂であろうと雨であろうと無空であろうと、すべての存在者は世界を構成する構成員であって、それを否定するならば、世界を否定することになる。
水も羊も文書も石も空気も風も月も鳥も草木も火も人も意味がある」
ロネの顔を見て、ラフポワは俯いた。ぼそっと言う、
「いゐりゃぬ神は否定することも、きっと肯定するよ。結局、現実しかないんだ。そういうことさ」
「肯定されているから、現実にあると言いたいのか。そうだ。そして、その反対の見解も現実にある。それも肯定されているということだ。
つまり、現実にあることが肯定されているのではないと考えることが事実であり、真実であり、正しいということも肯定されている、ってことだ。
だから、在る。すべては在る。
唐突に。
私が言う唐突という言葉の意味がわかるか。
根拠を超えているということだ。まとまった見解などないということだ。敢えてそう言い切る、私は。敢えて。
事実でもなく、真実でもなく、正しくなくともいいから、そうであって欲しいと希うから、そうであると思いたいから、そう想ってもよい、だから、今、そう思っている想いが在る。
現実とは、そういうことだ」
「何もないのと同じだ。それ以上だね」
「そうだ。だから、生き延びよ。おまえの魂の声を聴け。心を研ぎ澄まし、ロゴスに聴従せよ」
ラフポワは黙った。ロネは小鹿に向き直る。
「弓は未だ教えてないから、無理だな。投げ斧はどうだ、やってみないか」
「いやだよ」
「そうか。では、私が弓でやる。見ていろ。今日は鹿鍋だ。心を研ぎ澄まし、集中する。世界の呼吸と一体になる。菜食主義者だって植物の命を奪っている。いいか、そらっ」
ラフポワは黙って考えていた。
早暁、ロネは火を入れる。炎は光を成した。赤々と燃える。
煮炊きや暖を取るため、薪を燃やす場所には、石が環状にならべてあった。暖炉とかまどを兼ねるもの。炉の上部には、風の流れのある穴があった。どこに空気が流れていくのかわからないが、洞窟に派生する自然の穴の一つである。湯気や、煙で、位置を察知されないために都合がよかった。遠目には、まずわからない。
一日の労働を終えると、炎を前にいろいろ語り合った。
「明日は出掛けようと思います。狩りではありません」
ロネが言うと、イシュタルーナは訊いた、「どこへ行く」
「私の住んでいた小屋から、五キロメートルほど山を降りると、ファルコ・アルハンドロという地主がいます。元は流れ者ですが、なかなかの漢です。
私は生活必需品などを買い求める際、麓の村まではあまりに遠過ぎるので、ファルコのところで対価を支払って、と言うか、現金収入がないので、狩りで得た獲物などと交換していました。
もしかしたら、事情を話せば、我々に協力してくれるかもしれません。彼はエミイシの一族にも、王にも従わない。古代からの誇りある山の民と、ともに暮らす男です」
イシュタルーナは言った。
「山の民や、海の民はまつろわぬ者たちばかりだ。敢えてその仲間となったというか。ふ。
ファルコなら、知っている。彼はイノーグ族のことも嫌っている。この一帯の領主であった我らイノーグの命にも従ってはいなかった。
元はどこか別の土地にいたとも聞くが」
「そうですね。
彼は自由です。それだけですよ。山賊ではありません。ありませんが、山賊らも彼を襲いません。山賊皇ユーグルも、海賊皇リュウさえも、彼には一目置きます。或る意味、男気で結ばれた、仲間のようなものです。ファルコは盗みも狼藉もしませんが。
野に潜む士ですね、良く言えば。臥龍、又斧を振るう賢者とも言えます。名もなき英雄とも言えるでしょう。
春夏秋は羊を追い、木を伐ります。チーズやハムを作り、羊毛を売って、生業としています。生計はまっとうな人間です」
「短期間だが、ともに過ごし、妾はおまえを信頼した。おまえの友をも信じよう。
彼とその眷属が遵うならば、彼らは最初のいゐりゃぬ神の兵だ。黄金の兵としよう。ファルコは神兵軍団長だ」
神将の配下である。
そう宣言してから、後の判断はロネに任せると決めたふうで、イシュタルーナはもう敢えて訊ねずに、ただ、問い、
「おまえの武器は弓だな」
ロネは大きな弓を握った。
「はい、武器と言うよりは、生きる手段そのものです。狩りが生業ですから。これがすべてです。私のすべてです。
自分が何者か知らず、いずこへ赴くかも定められず、生きる理由は知らなくとも、辛うじて、実在的に生存を維持し、世俗的に実存していけます」
イシュタルーナは何かに大いに感じ入って、
「ふむ。さもありなん。
では、弓を聖化しよう。
聖化は人の思惟や思議を超える。魔訶不可思議だ。
魂を清めることで、それは成る。神への祈りで、心を清めよ。
跪け、ロネ。聖咒を唱えよ、青き海の、白き塩のように、清めよ。聖なる、いゐりゃぬ神の御力よ、ここへ来たれ」
跪き、聖咒を唱える。
イシュタルーナが手を触れると、弓は神々しい白銀に輝いた。自然と装飾も精妙で、眩いものへと変ずる。
その眩さに思わず顔を上げると、ロネは驚愕した。落雷のような畏敬の念に打たれ、さらに深く首を垂れ、跪いた。
「さあ、お前のものだ、触れてみよ」
神聖な弓に触れるだけで、爽やかな力が湧く。
「月の弓と呼ぶがよい。月の弓と呼ばれる聖なる弓は多い。これはそのうちの一つだ。皓々たる白銀の三日月のようであろう。
月の弓は多くとも、同じものはない。
たとえば、ロネよ、お前の月弓は美しく絡む不規則な曲線文様を持つ。これは命の象徴で、逝にしへの聖なる御徴だ。
その力は自然の猛威よりも恐ろしいものであろう。
位階は未だ空(零、シューニャ)だが。
そうか、おまえは未だ位階を知るまい。
位階について、説明しておこう。
位階の最初は空である。その上が素。その後は粒、水、土、木、石、鉄、銅、青銅、銀、黄金、金剛、そういう順に上がっていく。十二の位階があると知れ。十三の要素があるが、空は〇で、素が一だから位階は十二なのである。
位階は永い年月と経験を重ねることに因って上がっていくのが通常ではあるが、おまえの武具の成長は恐らく迅速に進むであろう。
ちなみに、金剛の上に超越的な位階、〝シン(神、又は真)〟があるが、これはまったく人間の領域ではなく、人間の知性で上位だの下位だのと言えるようなものではなく、無記(記別せざるもの)と言うべきものである。
理解し難いものではあろうが、さように理解せよ。
とにもかくにも、大いに励め。それしかないと知れ。今この瞬間から、おまえには、大義がある」
巫女騎士はそう言った。
「聖なる使命を果たします、巫女騎士イシュタルーナ様」
清き心は明く、とてもかろらかである。動けなかった。永くも感じたが、実際は、数秒のことであったであろう。
立ち上がると、普段の態度に戻り、丁寧に辞儀をした。
「では。しばらくの間、お待ちください。出掛けます」
ロネが毛皮を被り、支度を始める。ラフポワは不安を訴えた。
「ここの守りは、僕とイシュタルーナだけで大丈夫かなあ」
ロネは思わず声を上げて笑ってしまう。
「恐らくは、世界最強と言っていい。最も神聖なる巫女騎士と神将だ」
「女の子と、男のこどもだよ」
「だから、もしかしたら、最強なのかもしれない。
たとえ、神聖シルヴィエ帝国の正規軍団が来ても、あなたたちには勝てない。勝てるものか、奴らは。
私は何も心配しないけれども」
だが、イシュタルーナは自惚れも謙遜もなく、冷淡に、
「思い上がる者は必ず滅ぶ。
妾は十分だとは思わない。
だが、ラフポワよ、心配はいらない。間もなく守衛たちが来るであろう、このような時のために。
黄金の兵たちのことではない。銀の兵たちのことだ」
「え、どういう意味なの、イシュタルーナ」
「どういう意味でしょうか、イシュタルーナ様」
巫女騎士は何も応えなかった。だからといって、さように記別しないことに、意味がある訳でもなかった。